第2話 痕跡

 がやがやとした喧騒。大学生が思い思いに羽を伸ばし、友人たちと談笑する。

 この休み時間というものは、何をしても許される。授業とは関係が無いのだから、教授にもとやかく言われる心配は無い。


 だからこそ、桜田は思いっきり机に顔面を突っ伏していた。


「おーい。桜田どうしたぁ?」

「昨日のアルバイトが大変だったんだってよ」

「アルバイトって。ああ、ハレルヤか」


 大学でよくつるんでいる悪友たちが、桜田の様子を見て思わず尋ねる。そしてその原因を聞き納得する。

 この桜田という男は、子供嫌いにも拘わらず児童館で働いているのだ。


「よくやるよなぁ。それにしても今日は一段とお疲れじゃんか」

「まあな……」


 桜田が悪友の問いかけに応じ、顔を起き上がらせる。

 そして思い返すのは昨日の出来事。


 普段でさえ大変なのだが、昨日は一段と情報量の多い一日であった。




 〇




 桜田は腹のアザについて何も言わなかった。

 無口君に聞いたところで、答えてくれるとは思わない。それに、これは他人が土足で踏み込んでいい問題では無い。

 そう感じたからだった。


 クソガキに懇々とお説教をした。

 確かに相手の態度が悪かったかもしれない。それでも、手を出してはいけない。怪我をさせたら、悪いのは自分になるのだから、と。

 静かな口調で叱る桜田を見て、クソガキは反省する振りはしていた。しかし、本当に反省しているかと聞かれれば、答えは否であろう。

 彼は何処まで行っても自分が本当に悪いとは思わない。自分が一番強く、偉いと信じているからだ。

 せいぜいが、もう叱られないよう態度を一時的に改めるくらいだろう。

 これが子供たる所以ゆえんである。どんなに叱られてもめげない反発心。一部分は大人も見習うものがあるかもしれない。


 この場合は裏目であるが。


 近くにいた職員に、無口君含めたその場を任せ、自分は休憩室に戻る。

 廊下に戻ると、ちょうど黒スーツの男性と母親が帰る瞬間であった。

 軽く頭を下げて帰宅を見送った後に、桜田は里見に声をかける。


「里見さん」

「おお、桜田君。いやぁ助かったよ。ありがとう」


 里見を見ると、どうやら少し憔悴した様子であった。

 それでも爽やか笑顔を絶やさない里見を見た桜田は、思い切って里見に尋ねる。


「あの子。何か問題があるんですか?」


 おそるおそる尋ねる桜田。

 その様子を見た里見は、桜田が何かを知ってしまった事を察し、休憩室の席に座らせる。

 棚からカップを取り出し、紅茶を用意しながら里見は口を開く。


「あんまりこれはアルバイトにいう事じゃないんだけどねえ」


 里見は少しためらいつつ、どこまで話していいものか思考しながら語り始める。


「あの子はね、なんだ」

「虐待児、ですか」


 虐待。

 その単語を聞いても驚かなかったのは、自分の中に予想があったからかもしれない。

 先ほど見た黒いアザ。

 あれが何なのか尋ねなかったが、今なら理解できる。

 虐待の痕跡。すなわち、暴力痕ということだ。


「あんまり驚かない様子を見るに、何か見たのかな?」

「……腹に少し、黒いアザがあるのを見ました」


 里見はその話を聴いて、なるほどと頷いた。

 確かにそれは、虐待を連想させるには充分である。


「彼の父親がね。酒癖が酷いらしく、酔っぱらっては周りに当たり散らすそうだ」


 酒乱。アルコールが入って気が大きくなることはよくある話だが、子供にまで怪我を負わす程だなんて。

 桜田の手に、無意識に力が入る。


「今は父親とは隔離されて、母子の二人で住んでいるらしい。黒井さんから話を伺ったよ」

「黒井さんって、あの黒いスーツの男性ですか?」


 黒いスーツの男性が、黒井さん。

 随分わかりやすい名前だと、思わず鼻で笑ってしまいそうになる。


「彼はこの案件を担当している人で、こういった問題に関わる仕事をしているんだ。昔からの知人でね」

「なるほど」


 どうりで、父親にしてはえらく硬苦しいスーツを着ている人だと思ったのだ。

 父親では無く、そういった専門の人だったという事か。


「ま、そういうことさ。だからそれとなく気にしてあげて欲しい。まだ心の傷が癒えていないかもしれないからね」

「……そうですね」


 思い返すのは、無口君の対応。

 何を尋ねても返してこないのは、返さないのではなく、返せないからだったのではないか。

 今にして思えば、あの態度にも納得がいく。

 きっとあの子は、まだ心に傷を――


「桜田君。顔が険しいよ」

「ッ!」


 里見が立ち上がり、カップに紅茶を注いでいる。

 どうやら気付かない間にお湯が湧けていたようだ。そのことにも気が付かないくらい、考え込んでいたらしい。


「君は優しいね」

「優しい、ですか?」


 里見は、カップを自分と桜田の前に置く。

 湯気が立ち込め、紅茶の仄かな香りが鼻孔に届く。優しく甘い香りを嗅ぎ、桜田は落ち着きを取り戻す。


「桜田君は子供が嫌いと言っているけどね、僕はそうは思わない」

「いや、俺は子供が嫌いですよ」


 いきなり何を言っているんだこのメガネ。

 こちとら、行列に並んで喚き散らす子供を眺めるだけで嫌気がさす人間だぞ。


「子供が嫌いと言っている人の大半は、接し方が分からないだけさ。大人と子供では、別の生物かと思うくらい考え方が違うからね」

「……そこが嫌いに繋がるのでは?」


 確かに接し方が分からず、別の生物かとも思う。

 しかし、そういった部分が嫌いだという人間もいるだろう。現に自分はそういう人間だ。


「いいや。本当に嫌いな人間なんて少数じゃないかと思っているよ。だって――」


 里見はこちらの眼を見つめながら、柔和な笑みを浮かべる。


「子供が傷つくのを見るのは、嫌だろう?」


 真剣な眼差し。その眼はこちらを見透かしているようで。

 その質問に、自分は答えられなかった。




 〇




「なあ、俺って子供嫌いだよな?」

「は? 何言ってんだ」


 桜田の唐突の質問に思わず面食らってしまう悪友。

 しかし、呆れたと言わんばかりに桜田に向かって答える。


「ショッピング中に子供を避けて行きたがる奴だろ。子供嫌いに決まってるやん」

「だよなぁ」


 そうだ。自分は間違いなく子供が嫌いなはずだ。

 出来る事なら、子供と関わらない生活が一番望ましい。そうとすら思っている人間だ。

 それでも。


 思い出すのは、無口君の様子。

 そして、里見から投げかけられた言葉。


 今だけは、はっきりと口に出すのが難しいかもしれない。

 少しだけ、そんな事を思ってしまった。

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