静かに溺れる。

杜侍音

静かに溺れる。


「隣、いい?」


 ──湖池こいけ先輩と初めて出会ったのは、高校一年生の頃だった。

 私の二つ上、高校三年生だった彼女は学校のマドンナとしてかなり有名人だった。

 校則に反した茶髪のミディアムヘアなので校内ならすぐに見つけられるし、豊満な胸に男子は皆釘付けだった。

 そして、との噂も絶えなかった。


 図書室前の廊下でよく噂相手の候補たちとたむろするために、自習したい私はいつも顔を伏せながら側を通り抜けていた。

 ただある時、会話が盛り上がったのか、笑ってよろけた湖池先輩とぶつかってしまった。


「あ、ごめん! 大丈夫? ケガはない?」


 思ったより優しい人だな、ならばここにいるなよ邪魔だな。これが私が先輩に感じた第一印象だった。

 無視に近い「大丈夫です」の小さい返事だけが、彼女と高校時代話した唯一の記憶。



「──もしかしてさ、同じ高校にいなかった? 北川高校。わたし湖池──」


 だからこそ新歓で、隣に座ってきた人が湖池先輩であると最初は気付かなかった。

 母校名を出されたので思わずあの日のように小さい返事をすると、笑顔で一気に距離を詰めてきた。


「やっぱり! 図書室によく来てた子だね」

「……あ。……そうです。な、なんで覚えてるんですか」

「わたし記憶力いいんだ。徹夜でテストは全部乗り切れてたし」


 私がこの春から通う国立大学は短期記憶如きで合格できるような偏差値ではない。私は一年次から早々に狙いを定めて対策して、苦労した末に入学したのだ。

 正直、推薦でなら「推薦じゃないよ」


「え……」

「表情見てたら考えてること分かるよ。北川にはここの推薦流れてない、でしょ?」

「じゃあ天才肌ですね」

「かもね」


 妬ましいと思った。

 将来、良い会社に就職するためには学歴が必要で、そのためには華やかな高校生活を捨てて、私は勉強に集中しなければならなかった。

 それなのに、好きに生きてきた人がこうも容易く来れるとは、世の中は不平等だと改めて思った。

 きっと親のパイプが太いのだろう。ファッションに疎い私でも分かるハイブランドのバッグ、ファストファッションではない服、きっと高いものを使ってるであろうメイク用品。

 灰色のパーカーに黒のチノパンと何の色気もない、奨学金を借りて来ている私とは何から何まで違う。

 もしかしたら親ではなく、彼氏か──もしくは羽振りの良いおじさんかもしれないが。


「そういえば、どうして今日の新歓に来たの?」


 食事代を浮かせるため。それだけだ。

 往復四時間と高い定期代をかけるくらいなら、バイトした方がいいからと思い、進学を機に大学近くのアパートで一人暮らしを始めた。

 この時期は、あちこちで開かれるサークルの新歓活動に無料で参加し、新入生ならではの特権をフル活用して食い繋いでいる。


「……入学式でチラシ配られたので」

「そっか。……かわいいもんね」

「はぁ? 私がですか。お世辞を言ったところでサークルには入りませんよ。もちろんお酒も飲みませんし──」

「ここ、ヤリサーだよ」


 飲もうとした水を盛大に吹いた。

 近くの人からちょっとだけ心配されるが、すぐに各輪へ戻っていく。


「大丈夫? 拭いてあげる」


 むせる私の背中をさすり、持っていたハンカチで濡れた場所を拭いてくれる。


「ゲホッ……先輩が変なこと言うからでしょ」

「ごめーん、でも本当の話。呼ばれた新入生の多くは女の子かイケメンでしょ? みんなこの後テイクアウトされちゃって上級生が食べちゃうんだよ。それが毎年取っ替え引っ替え繰り返されて、このサークルは存続していくの」


 私は無銭飲食しに来ただけなので、対価を支払うつもりは毛頭ない。周りと交流しようとせず存在感を消していたが、確かに改めて見回すと湖池先輩の言う通りの容姿の持ち主ばかりだった。

 だが、この中で一番輝いているのは目の前にいる湖池先輩に違いなかった。

 多くの男共が、いつならば彼女に近寄れるか機会を常に窺っていた。


「……下劣」


 脳味噌は心より下にあるみたいだ。下心が見え見えで、人と人の距離が近過ぎる。

 それに新入生と思しき子が次々と酒を飲んでいる。


「大人ってこんなもんだよ。ここにいる人たちだけじゃない。社会の歯車として動く奴隷も、罪を犯す無責任な逸脱者も、偉そうに正義を子供に説いてる権力者も、みんなそう。遥か昔から金に、酒に、性に溺れる生き物──それが大人だよ」


 湖池先輩は私の太ももをさすりながら、耳元で呟いた。

 その手を払いのけて、私はもう少しだけ食料を腹に入れる。


「私はなりませんよ、そんな大人になんか。先輩はいいんですか、イケメンが取られますよ」

「いいよ。わたし、男に興味ないから」

「遊び尽くしましたか」


 どうせ関わりがあるのは今日まで。別に嫌われようが構わないので、盛大な皮肉をぶつけた。


「こう見えて私、処女だったりして」

「そうですか。では、気分が悪いので私帰ります。んっんっ……はぁ、ごちそうさまでした」

「えぇ? せっかく久しぶりに会えたの、すごい運命なのに」

「久しぶりとか運命とか、私たちそんな仲じゃ、あ……あれ……」


 視界が歪み、色がぼやける。後味に吐き気を催す苦味。私を心配する女性の声。

 最後に飲んだのって水じゃなくて、透明なさ──




「……あ、おはよう」


 頭痛が痛い……あぁ、二重表現をするほどに頭の回転が回らない……。けれど、大丈夫、私は私だ。今はしっかりと記憶を残せていけそうだ。

 乱雑に置かれた新歓会場のあの机では、どれがアルコールを含んだ飲み物か分別されていなかった。未成年者に酒を飲ませるような団体だし、そんな気遣いがあるわけないか。

 布団には入っている。隣には湖池先輩が寝ている。これから見知っていく天井とまだ住み始めて間もない自分の部屋。

 何も覚えていないが、こうしてここにいるということは無事に帰っては来れたということだ。


 ……は?


「……っ⁉︎ ……なんで……」


 私はすぐに布団から逃げ出ると、湖池先輩はその場に正座し直す。


「なんでって、わたしの前で倒れたからそのまま家まで運んだの」

「どうして私の家を」

「自分で案内してたよ。『あっちです〜』ってニコニコしながらフラフラした足取りで」


 不慮の事故とはいえ、不覚にも酒を飲んでしまったことを反省した上に、酔うと人前に出してはいけない人格になることを知って後悔した。今後、酒は飲まない。それだけでも良い勉強にはなったか。

 私は自分に何かされていないか身体の隅々まで触って確認する。


「何もしてないよ」

「念のためです」

「もうー、信用されてないなー」

「当たり前でしょ。あんなとこに所属してるんだし」

「ヤリサーだけど、活動内容のイベント活動はちゃんとしてるんだよ? やることもやってるけど」

「ほら」

「わたしはないよ、まだね。それに、あのままいたら何かされてたに違いないよ?」


 ぐうの音も出なかった。

 もしかすれば、起きた時に知らない男の部屋かホテルだった可能性もあったわけだ。

 湖池先輩が来なくとも、間違えて酒を摂取してしまう確率も高かった。むしろ私を助けてくれたのだ。


「あ──」

「寝癖、付いてるよ。なおしてあげる」


 感謝の言葉を言おうと私が詰まっていると、先輩は近付き私の頭を撫でる。


「……触らせてくれるんだ」

「事前の一言があったので」

「そっか。覚えとくね……ねぇ、RINEライン交換しよ。もしかしたら授業一緒なのあるかもよ」


 断る理由を見つけることはできなかったので、仕方なしに私は連絡先を交換した。


乙名雫おとな しずく──いい名前だね。好きだよ」

「……どうも」


 名前はフルネームで登録しているから、すぐに本名がバレた。


「じゃあ、もう帰るね」

「あ、湖池先輩、その……ありがとうございました」

「平気。それと良かったら、下の名前で呼んで。じゃね」


 その後、あっさりと家を出て行った湖池先輩。

 改めてご迷惑をおかけしたことについての長文の謝罪文を送信すると『いいよ、気にしないで』とだけ返事が来て、それで終わった。



「──あ、雫ちゃん」


 時折、大学ですれ違う、ただそれだけだった。

 授業が一緒になることもなければ、当然どのサークルにも入らなかった私が課外時間に会うこともない。連絡が来ることも滅多にない。

 ただ、偶然会ったときには必ず笑顔で手を振ってくる。私はそれに小さく手を振り返す、ほんとにそれだけだ。



「──あれ、メイク変えた?」


 夏のある日、いつもに加えてこの言葉が付け足された。

 日焼け止め効果のある下地に変えて、それに合わせてほんの少し変えただけ。

 些細な変化にも関わらず、先輩は気付く。

 ……今度はもう少し頬の赤みが消しておこう。



『海行かない?』


 夏も終わるある日、唐突に先輩から連絡が来た。

 私はすぐに返信する。


『私は泳げないので遠慮します。それよりインターンがありますよね』


『気晴らし』


 少し間が空いて返事が来る。

 直接顔を合わせる時はあんなにも笑顔だと言うのに、文面上では人が変わったかのように淡白な言葉だけがいつも並ぶ。


『私じゃなくても友達と行けばいいじゃないですか』


『もうみんなとは行ったよ』


 少し、ほんの少しだけ苛ついた。この誘い、私は何番目なのだろうか。


『ただ、雫とは二人きりで行きたいと思ったの』


「……え」


『雫って、友達の友達と話すのムリなタイプでしょ。それにちゃんと雫と遊んだこともないしなーって』


 まだ文字を打っていなくて良かった。なんだか私を見透かしているようで腹が立つが、悲しきかな事実である。


『お気遣いありがとうございます。海は無理ですが、他ならば湖池先輩が行きたいところで構いません』


『分かった。また連絡する。それと下の名前で呼んでよ。文字だけでもいいからさ』

『……分かりました』




「というわけで、ようやく一緒に遊びに行けるわけだ」


 ある冬の日、この日はバレンタインデーだった。街は赤やピンクに彩られている。

 あの連絡から半年が経っていた。

 湖池先輩は単位に余裕があるらしく、出席日が明らかに減っていた。直接顔を合わせるのは三ヶ月ぶり。

 それに就活で忙しかったみたいだが、既に内定を現時点で二社貰っているらしい。本当にこの人には隙がない。


「まさか本当に来てくれるなんて思ってなかったよ」

「まぁ、一度くらいは」

「そっか。嬉しい。フラれちゃった時はどうしようかななんて思ったよ」

「海、というより水場は苦手なんです。小さい頃、溺れかけたことがあるので。だからお風呂もあまり好きじゃありません」

「そっか……ごめんね、嫌なこと思い出させて」

「いえ、大丈夫です」

「……触るね」

「え? わっ……⁉︎」


 私の手を取る先輩。許可はまだ出してないというのに、楽しみ過ぎて止められなかったのだろう。


「今日は待ちに待ったデートだから、めいいっぱい楽しもう!」

「デートって……で、どこに行くんですか」

「私の家」

「え?」

「だって今日はバレンタインだよ。どこも人多いでしょ」


 ──それもそうか。

 私は手を繋いだまま、連れてかれるままについて行った。

 ……正直、ここまで直球と思わなかったが、でも……覚悟はしていた。子供の時に想像してた相手とは性が違うが、これから大人の階段を上るのだと。


「見てこれ。チョコを大人買いしたんだ。映画観ながら食べ比べしようよ」


 部屋の電気を消し、恋愛作品の洋画を何本か観た、だけに終わった。


「じゃあ、またね」


 あっという間に半日が過ぎた。

 考え事ばかりしていて、映画の内容もチョコの味も何も覚えていなかった。


「……何もしないんですね」

「もうー、信用されてないなー」

「当たり前でしょ……この一年間、先輩は近くにいないのに、ずっと私の心の中にいるんです。今日は何かあるかもって変に期待したじゃないですか……」


「……一ヶ月後、楽しみにしてる。お返し」



 ──子供は溺れる時、そっと誰にも気付かれず、静かに溺れる。これを溺水反応という。

 汚い大人になりたくなかった私は何も気付いていない振りをし続けてこの気持ちを無視し続けた。

 そして何も気付かないまま、私は溺れていた。






「──来たね」


 先輩の部屋の中に通された私は、すぐさま彼女をベッドに押し倒す。一ヶ月も、いやもっと焦らされた結果だ。

 明かりが消えた水底のような暗闇で、肌を寄せ合い体温が混じり合っていく。溺れるように喘ぐ息遣いを感じ取りながら、舌先でお互いの味を一つ一つ確かめ合う。

 息をすることを忘れてしまう。彼女の中でもがき苦しむことが、こんなにも気持ちいいなんて、思わなかった。



「湖池先輩……」

「……名前で呼んでよ」



「……静華しずか


 彼女は笑った。

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静かに溺れる。 杜侍音 @nekousagi

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