第68話 清和源氏のおこり
物語りの終わりに、経基王の行く末を書き記したい。
太政大臣藤原忠平の治める世となった承平八年(九三八年)
この時既に四十半ばの壮年期に達している。
妻は、橘
官位は正六位下を叙されており、この年に武蔵介の官職に任命され、任地に赴く。
赴任地の武蔵国において、地元の有力者からの貢物のことで争いごとになる。土地のものは平将門に援軍を頼んだことで騒乱になってしまう。
身の危険を感じた経基は、急ぎ都に戻り将門が反乱を企てていると告発する。
将門の釈明により自身が貶められてしまう。その後、将門の乱が発生するや、その功績が認められ従五位下に叙される。
朝廷から反乱の鎮圧の副将として従軍するが既に鎮圧された後であった。
藤原純友の反乱の平定にも尽力して、最終官位は、正四位上となっている。
皇族の位である品を与えれていないことから、幼少期の段階から臣籍降下して源姓を下賜されていたと考えられる。
自らを親王と思い、身内のものに経基王と呼ばせていたのであろう。当人は親王で無いことに不満を持っていたと伝えられている。
長男の満仲は藤原摂関家との関係を重要視していた人物であった。
藤原家の他氏排斥事件と言われる「
事件後、正四位下に叙され、摂関家に良く仕える。
その後、かなり財を得ていることから、他のものから嫉妬されることが多く、自邸に強盗や、放火などされている。
父とともに大きな事件に関わることで、その武名が世間に知れ渡ることになる。
満仲には三人の息子がいる。
長子の頼光、次男は頼親、三男が頼信である。
都では力を蓄えることができないと考えた末に、一族を赴任先で気に入っていた摂津国多田の荘に移る。
多田満仲としても後世に名を残す。子孫らは多田源氏、摂津源氏とも称される。
頼光といえば、渡辺
退治に使用した太刀「鬼切丸」は今も多田神社が所蔵している。
都では正四位下で春宮亮を務めたことから天皇家、摂関家のために大いに尽くした。
頼親も太政大臣藤原道長に良く仕えて、大和の国をはじめ畿内の国守を務める。大和源氏の祖とされた。
三男の頼信も太政大臣藤原道長に仕える。
鎮守府将軍に任命され、平忠常の乱を平定するなどの功績を上げる。
この乱を平定したことにより東国に影響力を持ち、のちの武家の源流となるものを築き上げてゆく。
死後に官位を従二位に追贈されていることからもその功績が伺える。
頼信は自身の一族もその後、都を離れることなく都に留まった。
この頼信の孫に義家、義綱、義光の三人の子がいる。
長子は八幡太郎義家と呼ばれて奥州平定で活躍し、その子孫は頼朝へ繋がる。
次男は賀茂次郎義綱で、その子孫は新田義貞へと繋がる。
かの徳川家康は征夷大将軍の官職を得るため、松平家がこの子孫であるとしたことは有名な話である。
三男の新羅三郎義光は奥州平定に苦戦する兄を良く助けたとされる。
その子孫が武田信玄で名高い甲斐武田氏へと血脈が繋がってゆく。
頼朝は、藤原氏の権力を抑えて政治の実権を握ることになる。
能有の母の願いが、三百有余年経ったのちの子孫が叶えたことになる。
能有の今ひとりの娘昭子は、願い通り藤原忠平に嫁ぐ。
昭子は後に右大臣となる
師輔は兄で左大臣の実頼をよく助け、村上天皇の治政を支える。
この師輔の孫が道長である。
道長が、その後の百年を超える藤原摂関政治の礎を築く。
能有の娘たちは源家のみならず、藤原家の繁栄にも大きく貢献したことになる。
彼らの繁栄の陰には、源能有という人物がいたことを忘れてはならない。彼こそが源氏と言われる者の祖でもある。
かつて、良房が皇族から能有を除籍した。
その能有が、藤原家繁栄の一翼を担ったことは誠に不思議な巡りあわせである。
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