第63話 帝の思い

 帝が最も信頼し、藤原氏を唯一押さえつけることができる存在の源能有が亡くなった。摂政、関白を置かず、親政ができたのも偏に能有がいたればこそだ。


(道真を左大臣にして、道真を筆頭に政務を行いたいのだが、そうも行くまい。だが、時平とは距離を置きたい)


 帝は、先ずはそのことで道真の思いを聞いておかねばと清涼殿に呼び出す。


「帝、右大臣の逝去、誠に遺憾にて言葉もありません」


「朕にとって大事なお人を失ってしまった。これからの人事を如何にすべきかと、そなたの思いを聞いておきたい」


「順序から行きますと、時平殿を大納言に任官し、しかるのちに左大臣に為さるべきでしょう」


「朕の本音を申せば、そなたに左大臣職を与えたいのだ」


「それは彼の者たちが得心しませんでしょう。一族挙げてわたくしを失脚するよう仕向けて参りましょう。わたくしは彼らと争う気はありません。また、彼らと争うだけの者たちがおりません」


 他に道はないとわかっているが、それを打ち明けられるのは道真おいて他に居ない。


「公卿が藤原のものばかりであってはならないゆえ、そなたにも彼のものたちと同等の力を持って貰いたいのじゃ。かつての伴氏や、紀氏、文室氏、滋野氏の如く他家も閣僚に居てもらわねば困る」


「今、帝のお側近くにお仕えする蔵人頭の平季長すえなが殿、在原友于ともひろ殿に励んで頂くことが肝要かと。お二方との桓武帝、平城帝のお血筋の家柄のため、必ずや帝のお役に立つものに存じます」


 

 今年新たに蔵人頭となった平季長は、従四位下でかつては帝とともに陽成帝の侍従をしており、現在は太政官の左中弁の職務も兼任している。


当然蔵人頭の任命は帝の推挙によるものだ。


「そうであったな。その方にあのものらを導いてもらいたい。そこで朕の考えを聞いてもらいたい」


「如何なることにございましょう」


「朕は帝位を皇太子に譲位し、上皇となり新帝を支えつつ、藤原のものの旺盛を抑えようと思うておる」


(帝の思いはわかるが、思い通りにことが運ぶであろうか)


 政治的な駆け引きは時平の方が上であると思う道真だけに、このわがままに近い考えには賛同しかねる。


「何ゆえ、譲位を為さる必要がありましょうか。帝はただ、時平殿と距離を置きたいがためと推察しますが」


「中納言とは共に政務を執りたくはない。先々必ずや揉め事が起こるであろうことは間違いない」


(阿衡の事件のことがまだ、払拭されていないと見える)


「されどもし、皇太子が藤原のものに取り込まれてしまわれたら、帝の思うようになりませんぞ」


「そのことは朕が良く良く言い聞かせるつもりだ。敦仁も元服する年となった。上皇となった朕もおれば、関白などは必要ない。勝手な真似などさせぬわ」


 不安は残るが、己が策に陶酔している帝には何を言っても聞かないようだ。


道真は晴れぬ思いのまま、清涼殿を後にする。


 七月

帝からの意向で、公卿らは大極殿に呼び出され、重大な話を聞かされる。


「右大臣の源能有卿が先月身まかられた。これからのことで皆に伝えおくことがある。朕はこの先早々に、帝の位を皇太子に譲位すると決めた。ついては譲位に伴った新たな叙位、除目を行うつもりである。別途日を改めてそのことで閣僚会議を開く所存である」


 辺りに騒めきが起こる。大納言職ばかりか、大臣職たるものが居なくなった中、皆はそのことに関することであろうと感じていた。


 皇位継承のことだとは誰しも、思いもしなかった。


先ず口を開いたのは、中納言藤原時平である。


「わが叔父で左大臣の良世が致仕した中、右大臣卿は誠に良く務めてくだされた。それより一年余り左大臣職はおろか、大納言職まで居ない有様。我らの進言を聞き入れず、任官しなかったことで右大臣卿もさぞ気苦労なされたことでしょう。このような事態となったことについて帝にお伺いしたい」


 藤原の一族で、参議の有実、有穂は一斉に頷く。


藤原のものに重役を任せたくないと言いたい帝ではあるが、道真が言ったように、そうする後ろ盾が無い。


言われたことはもっともなことだけに返す言葉がない。


 帝が押し黙っていると、すかさず道真が答える。


「左大臣不在の折は、右大臣がその権限を代行するもの。任官は対象者が居ないことによるものかと」


「任官の対象者がおらねば権の職をおいても良かったのではないか」


「大臣職に権の職は無いものかと。また、大納言なくして権大納言職は無いものと存じます」


「儂は律令の問答をしているのでは無いわ。血が通っておらぬと言いたいのじゃ」


 ふたりの言い争いに、帝が口を開いた。


「朕もそのことで、右大臣卿に話したのだが、今少しこのままで良いと申した。それに甘えてしまった。朕も申し訳ないことをしたと思っている」


参議の中で、臣籍降下した源氏の者にすなお、貞恒、たたう、昇がいる。


 湛は、亡きとおるの長子、貞恒は亡き光孝帝の皇子にあたる人物で、直も亡きときわの子である。貞恒は先年決まった親王復帰を断っている。太政官の閣僚で居る方が旨みがあると判断したのだろう。


源氏の年長である直が帝をかばって発言する。


「すべては過ぎてしまったこと。反省すべきことは次の糧にすることとしましょう。我らが為すべきことはいち早くこの後の人事を決め、政務に支障がなきようにすることでありましょう」


 源氏の長者に詰め寄られれば、時平もこれ以上言い返すことは控えた。


「では、重臣会議のおりに忌憚の無い意見をお願い致します」


そう言い残し、時平ら藤原の者が立ち去った。

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