第57話 能有の娘と貞純親王
阿衡事件が一段落した仁和五年(八八九年)五月に改元の儀が取り行われる。
宇多天皇が即位してから三年の歳月が経っての改元となる。改元の遅れを指摘されるが、大地震で帝が崩御し、急ぎ譲位が行われた後に阿衡の事件が起こった。
これにより政務が滞った事でその時期が遅れた。本来天皇即位を期に改元できたが、そんな余裕など有る筈がない。
元号は『寛平』となった。出典は漢の時代の史書「漢書」(王尊伝)の一節より
『寛大之政行、和平之氣通』を引用した。この書を引用した者の思いが良く分かる内容だ。
元号の由来通り、暫くは平和な時が流れる。
寛平二年(八九〇年)
既に藤原基経の娘滋子が能有の子を生んでいる。その子を
藤原の血を引く男子であれば将来において無下には扱えない。
家の乱れのもとになり兼ねない。亡き母はまさにそのことを危惧していた。
その娘が成長し、どことなく亡き母の面影がある。どこに出しても恥ずかしくない容姿に恵まれている。
能有も既に中納言の位まで昇進しており、寧ろ、他家から縁を求められるくらいな程だ。
そんなある日、政務の傍ら、関白基経に声をかけられる。
「余の孫娘にもあたる姫、名は何と申したかの」
「柄子にございます」
「そうであったな。もう年頃になっていると見受けるが。どうであろうか、清和帝の六番目の皇子、
自身も皇室を離れたものだけに複雑な思いだ。考えても見れば八歳のおり、亡き良房の策略で立太子どころか、親王の位さえ与えられなかったことで、母親も藤原家に遺恨をもっていたものだ。
「亡き母のこともあり、皇室との縁など平にご容赦願いたいと存じます」
「そなたの思いはもっともなれど、義父のしたこと故、容赦願いたい。されど今のそなたの位なれば誰に遠慮はいるまいて。儂も年なれば、このところ体調も良くない。そう長くはないやも知れぬ。そなたとは更なる縁を結んでおきたいのじゃ」
「そのようなことを申されますな。否やとは申せなくなります」
「そなたもわかっていると思うが先代光孝帝、今上帝に世になった。もはや清和帝の皇子達が皇位継承に関わることは無い。他意などは無い。只々そなたとの縁を結びたいだけじゃ」
能有は紛れもなく皇族の血を引くものだけに縁戚関係を結びたいのは、藤原のものとして当然のことだ。そう思う能有ではあるが、今年の正月に正三位になっており、じきに大納言になる身ゆえに今更、事を構える必要も無いかと考える。
「貞純親王とは如何なる御仁でしょうか?」
「母親はそなたも存じておろう。その父は桓武帝の孫にあたる棟貞王で今、武蔵の国の太守をしておる。親王は
官職では上官にあたるので、命に近い言葉で良いものだが、能有に対しては配慮がある。それがわかるだけに能有も一目おいている。
「わかりました。よろしくお願いいたします」
屋敷に戻り、柄子に話すが家のためにと否やは言わない。寧ろ、父の役に立つことを喜んでいる。
母がいたらきっと喜んでくれただろうと思う。
たしかに貞純親王が皇嗣のことで巻き込まれることはまずあるまい。
約束どおり、基経は貞純親王を都に呼び寄せ、能有に目通りさせる。
この年、親王は十七になっている。
まだあどけなさが残る面立ちではあるが、体格も良く、日焼けした肌はなんとも逞しく見える。
「中納言様には初めてお目にかかります。貞純にございます。ただいま上総の国で官吏をしておりまする。本日はわたくし如きもののために、お招き頂きありがとう存じます」
「親王様は、余のことを存じておりますかな」
「勿論でございます。わたくしの父上の兄君にあたる方と聞いております。また亡き父がとても頼りにされていたお方とも伺っております」
涼しげな若い眼差しは、どことなく能有に似ているようにも見える。
「親王様は、そのお体からすると武芸を好まれているとお見受けするが」
「はい。実を申せばわたくしは余り管理職には向いていないようで、馬を駆るのが今一番の楽しみにございます」
東国の地で伸び伸びと育ったのであろうか。都の若い者が軟弱に見えて仕方が無い。能有にとっては大変満足する若者であり、一変して気に入ってしまった。
能有方との婚儀がまとまり、年も押し迫った頃、基経は病で倒れる。
帝との関係も良好になってきており、一段落したと感じた矢先であった。
能有の娘柄子は、基経死後の翌年、寛平四年(八九二年)に貞純親王のもとに嫁ぐ。
これを期に、貞純親王は都に召喚され、本人の意向が叶い、兵部省にその身を置くことになった。
これも偏に能有の推挙があったればこそのことである。
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