第56話 源光の寝返り

 光は夜半、密かに太政大臣のもとを訪ねる。


「このような夜分に恐れ入ります」


 中に通されると、そこには大納言の良世がいる。


「これは源光殿ではございませぬか。このような時分に如何されました」


「大納言殿がおいでになるとは、思いもよりませなんだ」


「儂がおらぬ方がよろしかろう」


 そう言うと、良世は足早に席を離れて立ち去る。


「その様子では余り良い話ではないと存ずるが、伺いましょう」


「こたびの帝に対し奉り、太政大臣卿の為されように不満を持つものの少なくありません。真意を伺いたく、罷り越した次第です」


「帝、並びにそれを支える倅の時平、側近の侍従も若いものが多い。発するものは、能々吟味されて誤りがあっては相成らぬ。それ故こたびの顛末はどうあれ、それを知らしめるべくことを為したまでのこと」


「太政大臣は帝の地位を失墜させたなどと申す者もおりますぞ」


「そのようなことを申す者の方が不忠者と、身は考えますぞ。摂政とは幼い君主に代わり政務を執り行うだけでなく、時には父のように接しお育てすることも必要かと。嫌われることを恐れていて出来るものではありませんぞ」


 言っていることはもっともなことだ。


「なれば卿は、ご自身の地位を守るために行ったことでは無いと申されますな」


 基経は微笑みながら、光を宥めるように話す。


「もはや老齢に達したこの身ですぞ。後を託す者たちに厳しく接するのは世の習わしではありますまいか。光殿」


 思っていた通り、兄たちとは違って政治的にも修羅場を経験しているだけに度量が違う。


「身の狭量を恥じ入るばかりです。腑に落ちてございます。その上でのお話なのですが」


「わたくしを亡きものにせんとの企てがあるとのことですな」


 さすがに見抜かれていたようで、目がうつろになる。


「企てなどど申されますな。意見を申し立てたく兄たちと話し合っていたまでのことにございます」


「これは物騒な言いよう失礼いたした。お許し願いたい。右大臣卿に、参議の冷殿にございますな」


「いかにも。始めの内は不平を申し立てる程度のことでございましたが、他の者を巻き込むようになりますと騒動になり兼ねないかと存じ、ご相談に上がりました」


「良くぞ、お打ち明け下さいました。このことは決して口外せぬ故ご安堵ください。事なきを得られるよう、よくよく思案しますぞ」


「何卒よろしくお願いいたします」


 人目を憚るように、光が去ってゆく。


 

 別室で話を聞いていた良世が入れ替わりに入る。


「叔父上、聞き及んでおりましたか」


「あの様子から光殿は事に関わりたくないものと見受ける。こちらものんびりできない程、事が進められているようじゃな」


「右大臣は清廉潔白なお方ゆえ、許せないのでありましょうな」


「あのお方らは政治というものがわかっておらぬで、扱いに困る」


「源のものが全てではありませんぞ。能有殿などは国司などを歴任し、苦労された故、役に立ちますぞ」


「改めて兄良房殿の功績には頭が下がる。儂などは何もしていない。あぁ。あの頃が懐かしや」


「お止めくだされ叔父上。かように気弱になってはなりませんぞ」


「それはさておき、右大臣がこのまま源の者を纏めてしまうと厄介なことになりそうよの」


「ええ。今や左大臣をも超えるほどに勢力的に政務や儀式事をこなしております。冷殿はまだしも、人望も高い右大臣の力は削がねばなりませんな」


「力を削ぐとは、どうするつもりじゃ」


「職を辞して頂くよう画策します」


「解任するほどのことがあれば良いのじゃが、そのようなものは無いと思うぞ」


「その時はその時で考えます」

(場合によっては亡きのもにせねばならんな)


 基経は手始めに、人を雇って右大臣の身辺を調査させる。


特に有益な情報が得られないまま時は過ぎ、その年は暮れてゆく。


 年が明けた仁和四年(八八八年)


右大臣の身辺調査を依頼して二、三カ月経過するが。未だに役に立つ情報はもたらされない。


無いものを探しても仕方がないのであきらめることにした。


「どうじゃ、何か進展はあったのか?」


「いいえ、残念ながら失脚できるような行いなどは無いようにございます」


「やはりそうであったであろう。清廉潔白なご仁じゃからのぉ」


「はい。この上は手をこまねいている場合では無いようです。藤原のために別の手を打つしかないようですな」


「致し方無い事とは言え、くれぐれもすべては隠密裏に事を進めるのじゃぞ」


 左大臣の源融は高齢のため、いつ何時没するかわからない。


融が没すれば、多が左大臣になる。求心力のある多が左大臣となれば何かと衝突するであろう。


時平が閣僚になるまでに道筋を立てて置かないと藤原家が危うい。


 ついに基経は右大臣を毒殺することを決意する。


身の回りの世話をするものに欠員が出る機会を狙う。


 半年ほど経つと、その機会が訪れる。手筈どおりに事は進んだ。


 

 ひと月も経つと、多は病になったとの事で政務ができないと昇殿しなくなった。


更に半月が経ったある日、顔色が黄土色になり、吐血して倒れた。


その日のうちに絶命してしまった。


病と称して療養しての死であるから、誰も毒殺などどは思いもしない。


あるものを除いては。


 翌年、冷は参議職を解任されて美濃国の国司となる。事実上、左遷のようなものだ。


どういう訳か、その翌年の寛平二年に赴任先で没してしまう。


身内を売った形となった光はこの先に昇進してゆくが、その後悲劇な最期を迎えることになる。


 源家が身内を陥れるのは、もしやこの時から起こったことではないであろうか。


史実ではこの七十年後の康保三年(九六六年)の安和の変にそれが起こる。

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