第53話 宇多天皇の誤算
仁和三年(八八七年)八月二十六日
宇多天皇が即位する。(二十一歳)
この年の正月の叙位で、基経の子時平は従四位下になり、右近衛中将に任命されている。
更に帝の側近中の側近、蔵人頭も兼任することになった。十七歳での異例の出世と言える。基経にとって帝の側に時平がいることは誠に都合が良い。恐らくは強い後押しがあったのであろう。
帝は先帝が基経を頼りにしていたように、自身も政務の主権を太政大臣の基経に託すことにした。託さざるを得ない。
蔵人頭となった時平を呼び、その旨を伝える。
「朕は皇太子としての務めもできぬまま先帝である父が身罷られた。政のことは何もわかっては居ない。早く色々学ばなばと心
「わたくしもまだ世の中の事で分からない事が沢山あります。今はただ太政大臣の父から薫陶を受ける事で早く帝のお役に立ちたいと思っております」
「朕は太政大臣にこれまでと同様に政務の一切を委任したいと思うておる。そこで懇願の意を込めて、最初の詔を発したいと考えている」
「良きお考えにございます。それでしたら、わたくしが元服の際に読み上げた文章を作成した参議の橘広相卿にお願いしては如何でしょうか」
「それは良い。では早速にそうしておくれ」
帝の意を得た時平はその旨を広相に伝える。
広相は快諾して草案を作成する。
紫宸殿において帝から基経に対し、政の全権を委ねる旨の詔が読み上げられる。
事実上、関白への就任の要請が為された。慣例に倣い、基経は一旦これを辞退する。
「元来臣下が政を輔弼するのは、帝が元服前によるものであり、帝が成人なされた暁には是を奉還するが良しと考えまする。今一度の再考を願い上げ奉ります」
「あいわかった。そのように致そう」
帝は更なる名文を作って基経を承諾させるよう、広相に依頼する。
そこで広相は、基経が先帝から受けた詔の返答の際に用いた『
太政大臣が好んで引用する言葉で、これを用いれば機嫌を損ねないだろうと広相にしては考えが浅はかであった。
数日後、再び紫宸殿において帝から基経に対し、政の全権を委ねる旨の詔が読み上げられる。
詔勅の中に『宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ』との一文があった。
勅命が下って数日後、これを知った藤原
佐世は菅原道真の父是善の門下生となり、
元慶八年(八八四年)に大学頭・式部少輔に任命されている。
式家のものであるが、基経のそば近くで持ち込まれた書簡の内容をまとめ、詳細を報告する役目を担っている。
この頃になると、かつて式家と天皇家の継嗣問題で争っていた時期とは異なり、出世に影響するようなことは無い。
才能があるものは重用されると言うことだ。
彼らの親も、かつての恨み言は口にせず、ただただ同じ藤原のものとして我が子の栄達だけを願っているようだ。
承和の事件から半世紀近くが過ぎ去っている。子にとっては祖父の時代に起きた遠い過去の事件でしかない。
これは二十世紀の近代に起きた大東亜戦争にも似ている。戦争の最前線で働いた当時二十代を中心とした若者は、自身の子や孫には話さない。話したところで役に立たないことを知っていたのであろう。
「基経様。詔勅の文言の中に阿衡との記述があったようですが、言葉の意味をご存じでしょうか?」
「唐の国の故事で、秤・頼るということで、
「はい。ですがそれは言葉の語源となります」
「そなたは何が言いたい」
「はい。阿衡は唐の国では大臣を務めた臣下に対してその功績を称えるために与える称号です。つまり官職の無い名誉職と言う事になります。その任を授けるとなると、これは辞任する大臣を称えるという事になります」
「なれば太政大臣とて唐の国に無く、官職などもないことになるがの」
「確かに令外官は唐の律令制度にないものですが、この国独自のものになります。太政大臣は左大臣、右大臣の上官にあたり同じ権限を持つものにございます」
佐世は興奮冷めやらぬまま、言葉を繋ぐ。
「わたくしは、言葉の意義が不確かなものが、帝の発する詔であってはならないかと。ましてや詔が受ける側が異なった解釈できるようなものであってはならないと存じます。仮に左大臣、右大臣が政敵であったなら太政大臣職を解かれた基経様では彼らを政治的に抑えることは出来ない事になります」
大臣らがそのような事を画策しているとは思えぬが、存在しない官職に任命するなどと言われると基経も気分が悪くなる。
「良くぞ申してくれた。そなたの申すこと一々尤もなことだ。ならば帝やその周りの者らに灸を据えねばならぬな」
基経にしてみれば悪意は無かったが、この後に起こす行動で帝との間に大きな隔たりが生じてしまう。
政治的な経験の乏しい帝には基経の真意が伝わらなかったようだ。基経の方も、佐世の提言を聞き流していたら、その後の歴史も違うものになっていたであろう。
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