第3話 嘉智子入内する

 話は良房の父冬嗣が仕える嵯峨天皇がまだ皇太子であった時期に、橘嘉智子と出会う頃にもどる。


延暦十三年(七九四年)桓武天皇が京都に都を遷都してから、十年後の貞元二十二年(八〇四年)にこの物語りの主人公である良房が誕生する。


 父の名は、藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐ


六四五年に起こった乙巳いっしの変で中大兄皇子とともに、蘇我氏を政権から失脚させた中臣鎌足を祖とする。


 その後、改新の詔が発せられ、この国に「大化」という元号が定められた。藤原姓となった鎌足の子、不比等の代では法の整備、貨幣の流通などを定め、中央集権に大いに影響を及ぼす力を持つ。


不比等には四人の子がおり、おのおのが独立した家を起こす。


 嫡子武智麻呂むちまろの南家、次男房前ふささきの北家、三男宇合うまかいの式家、四男麻呂まろの京家。冬嗣は房前を祖とする北家の生まれである。


 母は一族で南家の美都子みつこ


二年前に兄の長良が生まれている。その後に物語りに影響を与える、弟の良相よしみ、妹の順子のぶこが誕生することになる。


 良房が生まれたころには、藤原氏それぞれの家も朝廷内に勢力を持ち、自家の繁栄のために一族といえども政敵となり、落ち度があれば容赦なく失脚させる。


 世は藤原氏以外にも古来から、朝廷に仕える橘氏、大伴氏、紀氏、在原氏などがおり、虎視眈々と己の地位をもとめ、他家との争いが繰り広げられている。


 橘氏の諸兄もろえは敏達天皇の後裔とされており、遣唐使派遣に大いに尽力している。大伴、紀氏においては、後に大伴家持おおとものやかもち紀貫之きのつらゆきなどの歌人で知られるものを輩出している。


 また各氏族は、中央集権に力を得るために、己が娘を皇族の皇子に嫁がせる。


自らは皇家の外戚となる。その娘の子が皇太子となり、やがて天皇となれば、自身は天皇の外祖父となる。外祖父になればその影響力は絶大だ。


 天皇家にしても、有力な貴族を後ろ盾に優秀な子孫を残すために多くの子をなす。それぞれが自身や、家の繁栄のためにできることを精一杯行う。醜い駆け引きのない、そんな時代だ。


 冬嗣は、まもなく三十路になる働きざかり。官職は近衛府に出仕する近衛兵のひとり。官位は従六位上で、官職は左衛門大尉さえもんだいじょう。各部隊を纏める軍団長でまだまだ内裏に昇殿できる立場では無い。


内裏にある清涼殿に昇殿するには、特例はあるが、四位以上の位が必要で、公卿といわれるものに列さなければならない。


 

 貞元二十四年(八〇六年)良房が二歳のころ、桓武天皇が崩御する。この時代七十まで生きたのだから長寿と言える。


 皇太子であった安殿あて親王が、平城天皇として即位。あらたな皇太子には天皇の弟にあたり、後に嵯峨天皇となる賀美能かみの親王が立太子する。


太極殿において、即位を祝う式典が催されている。この日に限っては貴族以外のものでも、大内裏に入ることが許される。


 天皇は冕冠べんかん冕服べんぷくを着て殿上に現れる。殿前には日月、四神(朱雀・青龍・白虎・玄武)の旗が立てられ、大きな台座で香が焚かれている。


 即位の宣命が行われる。なんとも唐風を思わせる光景である。


各所で人々が酒食を楽しんでおり、平常と異なり、誠に賑やかだ。


 

 祝いの品を持った召使いを従えたひとりの貴族らしき人物が、天皇の座す方に向かっている。


なかなかに気品があり、聡明な感じの若者だ。


天皇の前に来るや跪き、祝いの言葉を述べる。


「兄上様、践祚の儀、謹んでお祝い申し上げます。新帝の名を汚さぬよう、身も日々努めます」


 平城天皇を兄と呼んだのは、異母兄弟の伊予親王である。


「これは嬉しきかな。数々の祝いの品、痛み入る。皇太子も親王よりまだ未熟者ゆえ、朕とともに力になってもらいたい」


「はい。なんなりと申し付け下さい。必ずやお役に立ってみせます」


 目線を皇太子に向け、にこやかな表情を見せた中に一瞬、険しい顔を覗かせる。


「皇太子殿下、ご指導のほど、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、力をお貸し願いたく存ずる」


皇太子の言葉には答えず、天皇の方に向き直る。


 平城天皇のすぐ下の弟であり、賀美能親王の三つ年上の兄にあたる。平城天皇と賀美能親王はともに母を皇后で藤原式家の乙牟漏おとむろ、一方、伊予親王の母は藤原南家の吉子よしこで第一夫人にあたる。


この関係だけでも藤原家は、それぞれが独立した家で覇権を争っていることがわかるというものだ。


 一通りの祝いの言葉や近況を語りあい、伊予親王は退座した。賀美能親王にとっては後味の悪いものが残った。


 

 一方で、父に呼び出された冬嗣は自身の新たな官職を告げられる。


平城天皇の信頼が厚い父で右大臣の内麻呂(良房の祖父)の口添えもあり、春宮坊とうぐうぼう:(皇太子の御所の内政を掌る)の大進だいしんに任命される。


 これからは賀美能親王の身の周りの世話をする立場になる。これは内麻呂が一族の将来を見据えた力あるものができる異例の抜擢と言える。


 大進となった冬嗣は早速行動を起こす。冬嗣は元来決断すると行動が早いたちである。


(平城天皇は体が弱いと聞いている。今のうちに自分に近しいもので、皇太子の女御となるものを決めておかねば。皇太子も早二十一になる。儂に年頃の娘がおれば良いのだが)


 

 屋敷に戻った冬嗣は夜、妻美都子に相談する。


夫の険しい顔色に美都子も困惑している。


「お戻り早々、浮かないご様子。如何なされましたのじゃ」


「今上帝はお体が弱い故、近い将来必ず皇位継承が行われるであろう。皇太子の女御に我が娘でも娶せられれば良いのだが。それは叶わぬ」


の子が出来てあれ程に喜んでいた冬嗣殿が、今度は娘が居ないことに嘆いておられるとは」


美都子はやさしい眼差しで微笑む。


 賀美能親王には既に桓武天皇の皇女にあたる高津こうづ内親王が皇太子妃となっている。内親王は勝気な性格なのか、それ程仲睦まじいとは思えない。


「笑いごとではないぞ。これは我が一族、いや北家の将来がかかっている大事なことじゃ」


「されば、北家に年頃の姫がおらねば、藤原の他家の娘をお探しになれば良いのでは」


「そこが思案のしどころなのだ。一族のためにはなるが、北家以外の家に力を与えることになる。ましては一族以外からの申し出も困る」


「それではあなた以外の娘でなければならないことになりますぞ」


 この時代には珍しく夫婦仲も良く、冬嗣はこの愛する妻に何でも打ち明ける。美都子は南家の出で長子。


今では同志のような存在だ。


 弟に三守みもりがひとりいる。ともに皇太子に仕えている。冬嗣亡き後、良房の苦境をこの叔父が陰ながら手助けをしてくれる。


「なればこそ、こうしてそなたに話ているのだ」


そんな虫のいいことなど、この世にあるとは思えぬ美都子である。


 ふと、三守のことを思ったときにあることが閃いた。


「冬嗣殿、うってつけの娘がおりますぞ」


「それは一体いずれの娘じゃ?」


「弟の三守が妻の安子あんしの妹君に、嘉智子と申すものがおります。年も皇太子様と同じくらいで、なかなかの器量良いお方です」


「橘のものであろう。あそこのものは気位が高く、あまり気が進まぬわ」


「なれど、父君にあたる清友殿も既にこの世に亡く、橘の家も清友殿の弟にあたる入居いりい殿が一族の当主になって居られます。なんでも、そのお方のご子息の逸勢とか申すものは世間では神童などといわれているそうな。嘉智子さまは幾度か持ち込まれた縁談を断って以来、本家とは疎遠になっているとか」


「それは良いが、その年まで何処にも嫁いで無いとはいかがなものか……」


「仏教に深く執心があるようで、粗野な殿方には関心が無いものかと」


「ならば一度会って見たいものよの」

 


 美都子の計らいで、冬嗣は橘嘉智子に会う。


思っていた以上の容姿にひと目みて、気に入ってしまう。 麗人と言うに相応しい出で立ちだ。


まるで意に沿わない人間は近づけないようなものを身に纏っているかのようだ。


 境遇は想像以上に悪いようで、現橘氏の当主の入居とも疎遠になっているようだ。これなれば実家との影響も無さそうだ。


冬嗣にとって願ってもない人物だ。


 皇太子の立場や人柄、これからの皇室の行く末などを熱心に話す。


嘉智子も普通の豪族には収まりたくないのか、または自らの境遇から出たいのか、真剣な眼差しで耳を傾けてくれる。


お互いの思いが一致したようだ。冬嗣にとっては他家のものだが、同志を得たようで誠に清々しい心持ちだ。


 世は平城天皇の治政となり、元号は貞元から大同に代わる。


冬嗣は、嘉智子を賀美能親王の更衣として入内させる。


 この時、橘逸勢は空海とともに遣唐使として既に唐の国に渡って三年の月日が経っている。

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