第2話 皇后との出会い

 邸宅を出た良房の直ぐ目の前には、天皇の休息場として造られた庭園の神泉苑しんせんえんが見える。


右手には嵯峨天皇が気に入り、御座所とした冷然院れいぜんいんがある。


いま二条城になっている場所にあった。


 神泉苑を過ぎて少し歩くと朱雀大路に出る。大路を右に曲がった先には将来の官僚を育てる大学寮(現代の大学)が建ち並び、この年に冬嗣が私費で建てた藤原家の子が通う勧学院もある。将来良房を助ける弟たちが学んでいる。


 大路の突き当たりに朱雀門があり、ここから先を大内裏だいだいりと呼ぶ。


朱雀門をくぐったすぐに見える煌びやかな門が応天門。これを越すと大きい敷地があり、官吏が国事を執務し、天皇が決裁するための官庁(大蔵省、兵部省、宮内省など)の建物が並ぶ朝堂院ちょうどういんと呼ばれる敷地がある。


 朝堂院の奥に大極殿だいごくでんがあり、殿内には高御座たかみくらが据えられ、天皇が座し践祚せんその大礼などの国家的な儀式が行われる。


(この先は正月や新嘗祭にいなめさいでしか入ったことが無いな)


 中には入れないので、塀伝いに先に進む。暫く歩くと突き当たったところに建礼門けんれいもんがあり、その中が内裏と言われるところだ。


 兄長良ながらと違い、昇殿が許される身分ではないため、中に入る事はできない。


門の辺りの様子を伺っている姿を衛兵が訝しそうにこちらを見ている。


(そのうちに偉くなって見返してやりたいものだ)


 暫くすると、取り次ぎの者に声を掛けられる。


「良房様ですね。私は皇后陛下にお仕えするものにございます。お后様の命であなた様をお連れするよう仰せつかりました」


「良房です。よろしくお願いいたします」


 皇后付きの者の遣いと言う事で門を通ることを許され、内裏の内部に入ることができた。


父の供で近衛府に行った程度で、内裏の中に入るのは初めてのことだ。


 内裏の外側に近衛府このえふがあり、左右にそれぞれ、左近衛府さこんえふ右近衛府うこんえふが置かれている。近衛兵が常駐し、内裏に住まう皇族を警護している。


正面に紫宸殿があり、その荘厳さに目を見張る。


紫宸殿の左側には天皇が住まう清涼殿せいりょうでんがある。


 今、皇后の居所は清涼殿の奥にある後涼殿というところで案内されると、その煌びかな装飾に心奪われる。


(このようなところ、父上でさえ入ったことが無いだろうな)


心躍らせ、ひとりごちた。


 女房に来客用の広間に通され、皇后が来るのを待つ。初めて見るものも多く、気は高ぶるが居心地は悪くない。


程なくして皇后が現れる。


初めて顔を見た。気品のある顔立ちで美しい。


 敏達天皇を祖にもつ橘家の出で、年上でいとこにあたる逸勢はやなりは、嵯峨天皇、空海とならぶ三筆と言われる程の書家で名声も高い。


仏教に深く帰依していることから佇まいにも威厳がある。


 見惚れてたまま、ぼっと立っていると、女房から礼と取るよう促される。


慌てて跪くが、眼差しは皇后を見つめている。


「無礼であろう。お許しがあるまで面を上げるで無い」


「まぁよい。公なものでは無い故な。まだ一人前の大人の所作は無用じゃ」


(良い出立ちじゃ。力のある美しい眼をしておる。なかなかの偉丈夫。末が楽しみなお子じゃ)


「そなた、名は何と申すのか?」


「はい。はじめての拝謁にて作法も弁えず、恐れ入ります。右大臣藤原冬嗣が次子にて、良房と申します」


「兄の長良殿は見知っているが、そなたはいくつかになられた?」


「十七にございます」


「そうか。右大臣卿におかれては陛下も大層頼りにしている。先の上皇様との諍い事では大変尽力されたと聞いておる。どうじゃ、父同様われらに力を貸しておくれ」


「父は我が誇りにて、陛下に対し奉つる忠義に些かの陰りは無いものと。私も同じにございます」


 まだ幼い感じも残っており、大人の事情を知らぬ若者だけに清々しく感じる。声音も良い。


「そなたにはまだ解らぬやもしれぬが、この都には色々なものがおり、様々な思惑がひしめいている。人は皆、表の顔と裏の顔を持ちあわせている。われや、わが子らもこの先いかようになるかも相知れぬ」


「父に教えを請い、兄に引けを取らぬよう励みまする」


「頼みましたよ。行く行くは我らに力を貸してくだされ」


「はい。こころして努めます」


 

 良房を下がらせた後、皇后は思いを馳せる。


(陛下の仰せで、娘の正子(内親王)を弟君の大伴親王に嫁がせたが、皇太子にまでしてなお娘まで嫁がせるとは。まだ十なれど我が子の正良(親王)もいるというに)


自身の子より、兄弟に譲位を考えている夫である。


 嵯峨天皇の考えに対して違和感を覚えるが、先年に起きた兄である平城上皇との争いを思うと憂鬱になる。


 あの時、まだ中納言であった冬嗣が機転を効かせて近衛兵を動かし、騒動を鎮圧した事で政治的にも大事に成らなかった。嵯峨天皇にとっても感謝に絶えない。将来的にも藤原北家が頼りだ。なんとか縁を持っておきたいと考えている。


 皇后は女房に尋ねる。


「良房殿に娶せる良き娘はおらぬであろうか」


「帝には内親王が多くおられるますが、臣下のもとに嫁がせることはできません。皇后様の縁者にあたる方にどなたか、いらっしゃいませんか?」


「いない事も無いが、いざと言う時の後ろ盾としては些か心もとない。何より右大臣家が許すまい」


「何とも物悲しいことにございますね」


「どこかに良き姫はおらぬであろうか?」


 かつて冬嗣が、帝の妃にと悩んだ嘉智子。今度はその息子の嫁に思い悩むとは不思議な巡り合わせというものだ。


また、それだけ何か強い絆のみたいなものが二人の仲にはあるようだ。


「おぉ、内親王でなければ良いのであれば、うってつけの姫がおるではないか」


「それは、何れの姫君になられますか?」


「帝の皇女だったお方で、先年源まこと殿と降下された潔姫きよひめさまがおられるではないか」


 嵯峨天皇の皇女であった源潔姫のことである。


「皇后様、五、六年も前のことになりますぞ、何れかの和子様に嫁がれているものかと」


「直ちに、この事、まこと殿に伝えて我がもとに呼んで参れ」


「はい。かしこまりました」


 

 ある夜、冬嗣は良房を自室に呼ぶ。


「お前に聞き入れてもらいたいことがある」


「いかがしました、父上。なんなりとお申し付けくさだい」


「帝には既に皇室から降下され源姓となられた潔姫さまがおられる。嘉智子妃殿下からの口添えもあり、お前の嫁に受けて貰いたいとのことだ」


「父上、先日皇后様からお声がかかり、内裏に招かれましてございます」


「ん。どんな話をしたのだ」


「帝や、皇后様が父上のことを大層感謝していると申しておりました。また、今後の帝位のあり方について危惧しているような感じに見受けられました」


「そうか。皇后はそなたをお気に召したようだな」


「わたくしも父の如くありたいと申しました」


「どうであろうこの話、受けるか?」


(願ってもない話しだ。もっと高い位に上がる足がかりにさせていただこう)


「はい。父上のため、わが北家のため、否やはございません」


 冬嗣にすれば、兄長良とは異なり、眉目秀麗で快活な良房を嘉智子は目に掛けたのだと思う。


 将来性のありそうな良房を今の内に懐柔しておきたいのであろう。潔姫の母親は、嘉智子妃殿下では無く、器量も決して良いとは言えなさそうだ。


(あやつは、そんな儂の思いを悟ってくれているのであろう。きっと北家を背負っていけるものになれるであろうよ。よし。これで儂亡きあとも、何かと皇后が良房を導いてくれればありがたいことだ)


 弘仁十四年(八二三年)良房は潔姫を娶る。

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