第88話平野芳香の涙

若い女性は、「平野芳香」と名乗った。

圭太は、その名前を覚えていた。

圭太が中学生の頃である。

父隆は、この「平野芳香」(当時小学生)が誤って道路に飛び出したのを、かばって代わりにトラックにはねられ、死んだ。

ただ、父隆の死はショックであったとはいえ、この「平野芳香」を憎む気持ちは、全くない。

父隆は、「平野芳香」だから、助けたわけではなく、道路に飛び出した「人」をかばっただけ、そう考えて来た。


圭太は、珍しく、やわらかい顔。

「ご成長されたようですね」

(父隆の代わりに、言っている)

つけ加えた。

「よく、私とわかりましたね」

(かなり前、葬儀で会っただけ、覚えているはずがないと思った)


平野芳香は、声を震わせた。

「いえ・・・田中さん、すぐにわかりました」

「時々、お見かけはしておりました」

「でも、いつも、忙しそうで、お声もかけられず」


圭太は、平野芳香の反応には無関心。

「あの・・・ところで、私に何か御用ですか?」

「もし・・・御用がなければ、これで」


平野芳香は、少し焦った顔。

「本当に申し訳ありません」

「少々、お時間をいただきたく」


圭太は、珈琲豆店の中に喫茶スペースがあることを確認。

店員に目で合図。

そのまま、平野芳香を誘い、喫茶スペースに向かい合わせで座る。


飲み物は、圭太がセイロン、平野芳香も同じ。

圭太は、変わらず、やわらかい顔で、平野芳香に聞く。

「ところで、何用でしょうか?」

平野芳香は、その顔を赤らめた。

元々、色白、顔は少女時代の愛らしさを残している。


「ようやく、就職できましたので、お母様に報告をしたくて」

「何度もスマホに電話しているのですが、最近、全くつながらなくて」


圭太は、返事の前に、いろいろと考える。

要するに、父の事故の後、母律子は、この平野芳香と関係を持ち続けていた。

おそらく、母律子特有のやさしさからの「なぐさめ、激励」と察した。

しかし、平野芳香がショックを受けるとはいえ、隠し通せるものではない。


圭太は、やわらかな顔のまま、事実を告げた。

「先日、亡くなりました」

「長らく入院をしていた病院で」


平野芳香は、(圭太の予想通り)、顔を潤ませた。

「え・・・入院を?3月の初めにも、お電話しました」

「お元気そうな声で・・・励ましてくれて」

「入院なんて、一言も・・・」


圭太は、大声で泣き出しそうな平野芳香を、手で抑えた。

「とにかく、そういう事情です」

「母には、平野さんにお逢いしたことを、報告しておきます」

「お気をつけてお帰りください」

そのまま支払いを済ませて、店を出ようとしたけれど、平野芳香は圭太の後を追った。


「せめて、お線香をあげさせてください」

「それと、もう一つお話がありますので」


圭太は、この平野芳香を拒む気には、ならなかった。

「よろしかったら、父にもご就職の報告を」


平野芳香は、涙をあふれさせたまま、歩き出す。

圭太は、平野芳香の足取りが不安。

見守りながら、ゆっくり目に一緒に歩くことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る