第87話圭太は帰宅に少し迷い、東銀座を歩く・・・後ろから若い女性の声

圭太は、由紀を待たなかった。(由紀は懸命に机上の整理をしていたけれど)

由紀以上に、池田光子に渡された封筒の中身が気にかかっていた。

先に帰ってしまったことで、由紀が怒って愛想を尽かせば「それで良し」と思っていた。


ただ、圭太は、メトロに、そのまま乗りたくなかった。(直帰をしたくもない、複雑な気持ちだった)(要するに、由紀と関わり合うのが、面倒だった)

そのまま東銀座方面まで歩いた。


歌舞伎座の前に、岩手県の物産を扱う店があったので、何となく入った。


岩手県そのものに、思い入れがあるわけではない。

知っている人と言えば、宮沢賢治、石川啄木程度しかない。

高校生の頃、遠野村の映画を見たけれど、それほど面白いとは思わなった。

ただ、石川啄木は、好きで時々読む。


「旅の子の ふるさとに来て 眠るがに げに静かにも 冬の来しかな」

「あめつちに 我が悲しみと 月光と あまねき秋の 夜となれりけり」

「雨に濡れし 夜汽車の窓に 映りたる 山間の町の ともしびの色」


独特の純な感性と思うし、夭折が惜しまれる詩人と思う。

ただ、圭太自身には、文学も音楽も絵画も、全く才能はない。


「ジャージャー麵・・・作る気もなし、作る能力もなし」

「冷麺?食感は面白いが」

「買うとして、南部せんべいかな」


圭太は、南部せんべいを買って、岩手県物産館を出た。

「朝飯と夕食になるかな」、そんな程度の考えしかない。


ちなみに、圭太は料理の才能もない。

ずっと東京住まいで、自宅から通学通勤の生活。

食事は、全て母律子任せ。(母律子が入院したら、エネルギーゼリー中心の生活になった)


それでも、覚えたのは、珈琲と紅茶。

大学生時代、アルバイト先の純喫茶で、徹底的に仕込まれた。

珈琲も紅茶も、香りを嗅いだだけで、産地、鮮度、程度を把握できるようになった。(それも、池田商事時代に、役に立った)


少し歩いて、珈琲豆や紅茶(リーフ茶)を扱う店を見つけた。

「こんなところに・・・」(圭太は、中学生時代から、銀座に至近の月島で生活していたけれど、知らなかった)


「もしかして、緑茶もあるかもしれない」

月島のマンションには、紅茶の茶葉が、少し残っているだけ。

珈琲も緑茶も、とっくに切らしていた。

「南部せんべいに、紅茶よりは、ほうじ茶、せめて緑茶だろう」

と思ったので、入って、いろいろと見る。


買ったのは、珈琲豆3種(コロンビア、グァテマラ、キリマンジャロ)と紅茶葉2種(ダージリン、セイロン)、緑茶は川根、ほうじ茶は京都宇治のもの。


圭太が支払いを終えようとする時だった。

圭太の後ろから、若い女性の声がした。


「もしかして・・・田中圭太さんですか?」


圭太は支払いを終えて、振り返った。

「はい、田中圭太ですが、あなたは?」


若い女性は、キチンとした紺のスーツ姿。

その目に涙を潤ませている。


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