第6話圭太の本当の「退職理由」と母の容態の急変

田中圭太自身、人事部長宮崎保にも会長の池田聡にも、何の嫌悪感を持っていたのではない。

ただ、会長付秘書については、職務を果たせないと考えたから、辞表を出したのである。

本当の理由は言えなかった。


「会長付秘書は、夜の接待対応が多い、帰宅時間も一定ではありえない」

「もし、夜の接待の時に、母の容態が急変したら、どうすればいいのか」

「場を壊すから、会長に申し訳ない、接待相手には言えない、言うべきではない」

「もちろん、会社には言えない、あくまでも個人的理由で、申し訳なさ過ぎる」

「母が万が一の時に駆け付け、葬儀の対応をするのは、自分しかいないのだから」


圭太は、丸の内駅から、メトロに乗った。

たまたま空いていた座席に座り、ため息をつく。

一旦、月島の家に帰ろうと思う。

母が入院するお茶の水の病院には、午後に行こうと思った。


「当分は、仕事もない」

「いつどうなるのかわからないから、求職活動も無理か」

「死ぬのを待つわけではないが、今の状態では、心配で何もできない」


月島の駅から自宅に帰る途中に、母律子が勤めていた税理士事務所がある。

「葬式になったら、連絡をするべきだろうか」


そう思ったけれど、連絡はしないことにした。

「皆、忙しく仕事をしているはず」

「少なくとも感染症拡大の時期、家族葬が基本」

「だから、誰にも知らせず、俺だけで葬儀をするのがベスト」


午前11時には自宅に入った。

午前9時の人事異動発表から、2時間である。


「気楽になったような、申し訳ないような」

「しかし、この方法しかなかった」


スマホを見ると、かなりの着信。

総務や人事、秘書室からも入っている。

しかし、圭太は返信しないことにした。

「会長命の人事に背いた以上は、懲戒解雇しかない」

「懲戒解雇の俺が、話をする資格はない」


スマホはテーブルに置き、父の葬儀の時の香典帳や、葬儀社からの見積書、請求書、領収書を見る。

本当は、寺にいくら使ったかを知りたいが、何も領収書はない。

「戒名料と葬儀料かな」

「多くて、計100万か、よくわからん」

「それと、俺は結婚する予定もない」

「俺が死んだら、誰が葬式をするのか・・・」

「どうせ、孤独死で、役所がするのかな」

「寺も永代供養でいくらになるのか」

「そこまで供養もいらないか、俺の時は」


いろいろ考えていると、時計は、正午。

「腹も減らない」

「ゼリーも飽きているが」


圭太は、結局、昼食は食べない。

スーツを脱ぎ、普段着に着替えた。


「まずは、母さんの見舞い」

「それと、寺との事前相談」

「葬儀社にも、一言連絡したほうがいいだろうか」


そんなことを思いながら、ただ、母の見舞いをするだけの生活が3日続いた。


4日目の午後1時に、「その時」が来た。


自宅を出て、お茶の水の病院に行こうと、月島の駅まで歩き、駅近くになった時、スマホが鳴った。

お茶の水の病院からだった。

「息子さんの田中圭太さんですか?看護師の清水です」

「あの・・・お母様の律子さんの呼吸が非常に弱くなっておりまして」


圭太は、必死に、心を落ち着けた。

「わかりました、今から伺います」


メトロは諦めた。

のん気に電車は待てなかった。(たとえ、3,4分であっても)(乗り換えも面倒だった)


そのまま、目の前に停まっていたタクシーに飛び乗った。

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