第5話人事異動発表と圭太の辞表

年度末まで二週間、恒例の人事異動発表の日、池田商事に二つの驚くべき事が起こった。

その一つは、秘書室と総務課に関わる人事だった。


「え?あの田中圭太が秘書室?それも会長付秘書だと?」

「総務はどうなるの?圭太君なしで決算ができるの?」

「会長付秘書って、超エリートだよ、あちこちの大物と直接話もできて」

「うん、将来の幹部候補生の筆頭」

「え?エースの鈴木亮は・・・名前がない」

「据え置きなの?田中圭太に抜かれたってこと?」

「あの地味な、仕事はできるけれど完全5時退社の圭太に?」

「営業トップが、事務に負けたってこと?」

「うん、エースの鈴木亮は、顔を真っ赤にして、荒れているみたい」


そして、もう一つの驚くべき事は、「田中圭太が、辞表を提出した」というもの。

「圭太が人事部長と長い話」

「人事部長は、必死に圭太を止めているらしい」

「圭太は、この人事は受けられないと、辞表を人事部長の前に置いたまま」

「圭太は会長命令の人事を受けられない以上、辞職すると、曲げない」

「でも圭太君の理由は?」

「いや・・・一身上の理由とだけ」

「人事部長も困っているみたい」

「それはそうだよ、圭太君がいなくなれば、総務も困るし、会長付秘書もいなくなる」

「圭太君の穴を埋める人も、前任者を戻しただけ。ミスが多いから飛ばした人だよ」

「会長付け秘書の前任者は、大阪支社の幹部として、ご栄転だから・・・行かないと、両方困るよ」


しかし、田中圭太は、人事部長の前に長居をしなかった。

「会長命の人事異動に背いた以上、懲戒解雇でかまいません」

「退職金も3月の給与も結構です、あてにはしません」

そのまま、総務課に戻り、簡単に「退社の挨拶」。


総務部長、総務課長、総務係長が、田中圭太を留めようと、詰め寄ったけれど、圭太の意思は変わらなかった。

山本美紀も佐藤絵里も泣いて、圭太に迫ったけれど、圭太は笑って首を横に振るだけ。

机の中にも、ロッカーの中にも私物はなく、そのまま「退社」して行った。


人事部長宮崎保は、田中圭太の辞表提出と退社を、会長池田聡に、直接会長室に出向いて伝えた。

「意思は固く、止められませんでした」

「理由は、言いませんでした、一身上の理由とだけ」

「申し訳ありません、早速次の会長付秘書の人事を検討します」

(その時点で、人事部長宮崎の頭に浮かんだのは営業のエース鈴木亮だった)

(鈴木亮なら、社内でも、営業相手でも、評価が高い)

(会長付秘書なら、田中圭太以上に、適任と思っていた)


しかし、会長池田聡は、厳しい顔。

「田中圭太の退社は、認められん」

「彼こそ、この池田商事の柱石となる男」

「彼が嫌と言っても、連れ戻せ」

「それがお前の仕事、人事部の仕事だ」


ここで人事部長宮崎保は。「エースの鈴木亮」を考えた。

「会長、どうして、あの田中圭太にばかり、こだわるのですか?」

「確かに、総務の、経理の仕事は抜群、しかし地味に過ぎます」

「田中圭太が去ったとしても、鈴木亮がいますよ」

「彼なら、人当たりも接客も素晴らしい、何しろ、会話が上手です」

「財界、官僚相手の接待も、任せられるのでは?」


会長池田聡は、人事部長の提案を、「フン」と笑い飛ばす。

「お前は、そんなことで、人事をしているのか?」

「鈴木亮の問題を知らないのか?」

「あいつこそ、時限爆弾、やめてもらいたいのは鈴木亮だ」

「もう少し、社内の評判、表も裏もよく聞け」


人事部長宮崎保は、足元がグラグラと揺れるような感じ。

途方に暮れている。

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