第4話圭太と母律子 佃島の家
定時に池田商事を出る田中圭太は、そのまま、お茶の水の病院に向かうのが日課になっている。
そのお茶の水の病院には、母律子(48歳)が入院している。
母律子が入院状態になったのは、約8カ月前。(医師から告知されたのは、全身に転移しつつある癌であり、余命1年以内と聞かされた)
圭太には、きょうだいがいない。
父隆を、中学二年の時に、交通事故で失っているので、もし母律子に「万が一のこと」があれば、天涯孤独になる。(父方も母方も、祖父母は、圭太が生まれる前に死んでおり、父隆の葬儀には、父の会社関係者と母の勤める税理士事務所関係者以外には、遠縁と言う女性が一人来ただけ、その女性も父隆とも母律子とも、血縁ではなかった)
「どうだい、今日の気分は」
圭太は、今日も、ほぼ寝たきりで目を閉じ、強い痛み止めの点滴液を流し込まれているだけの母律子に、出来るだけ、やさしい声で語りかけた。
しかし、いつもと同じ、何の返事もない。
それでも口元がわずかに動くような感じ、胸も呼吸で上下しているので、「まだ、生きている」と確認するだけ。
看護師も通りかかるが、よほどの具合悪そうな様子でなければ、話も聞かない。
少し時間をかけて、母の寝顔を見て、そのまま帰宅した。
圭太の家は、月島商店街の裏手にある、築20年ほどの3LDKマンション。
10階建ての8階にあり、隅田川もよく見える。
賃貸ではなく、購入マンション。
所有権は、母律子にある。(父隆の死に伴う相続、亡き祖父母の相続財産もあり、父隆が生きていた時、このマンションを購入した)
このマンションに移る前は、杉並にいたので、杉並の土地建物も売ったのかもしれない。
(圭太は何故、月島に移った理由は知らない、父からも母からも、何も聞かされていない)
圭太は、毎日、午後6時には、このマンションにいる。
「一人だけで住むには広すぎる」と思うけれど、「母の存命中」に処分など、面倒もあって考えづらい。
実際、母の家具、服、本も多くある。
とても、一人で整理は、面倒で、とても転居などは、考えられない。
元気がよかった、税理士事務所にいた時の母の笑顔が、夕焼けの隅田川に見える時がある。
そんな時、圭太は、母の笑顔に語り掛ける。
「苦しかったら、無理はしないでいいよ」
「逝きたい時に、逝ったらいい」
「母さんは、大変な思いをして、育ててくれて」
「今は、苦しんでいる、痛いんだろ?」
ただ、そんな声掛けも長くは続かない。
圭太自身、涙を流すことはないが、食べ物くらいは口に入れようと思う。
「万が一の時に、やつれた顔では、母に申し訳ない」
「体調を崩していれば、まともな葬式もできない」
「あの母の状態では、いつ、その時が来てもおかしくはないのだから」
実際、会社の「飲み会」なるものには、母が入院して以来、一切参加していない。
「酒酔いで、葬儀の手続きもできない」そんなことを思うと、飲み会に限らず、自宅でも一切飲むことはできない。
それと、風呂に入っている時も、病院からの緊急連絡を気にして、常にスマホのスピーカーはオン。
料理も最近は、自炊をやめた。
朝と夕に、いわゆる「エネルギーゼリー」を飲むだけ。(昼は食べない、仕事をしている)
かなり痩せたとは思うけれど、これは仕方がない。
料理の時間も、実は不安。
病院から呼び出しを受ければ、即、動かなければならない(調理中の食材や器具の片づけなど、のん気にやっている暇はない)
夜に寝る時も、常にスマホのスピーカーはオン。(そのボリュームも最大にする)
それでも不安で、2時間おきくらいに目を覚ます。
寝不足も何も、気にしてはいられない。
万が一の場合に、葬儀の手続きをして、喪主をするのは、圭太しかいない。
「誰が手伝ってくれるわけでもない」
その場合にも、会社には、迷惑をかけたくない。
だから、母の死などは公表せず、通常の「有給休暇」で、対応しようと決めている。
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