第30話 映画
田舎の田んぼに、トンボの姿が見え始め、帰省する若者達の姿が見え始めた頃。久志達のツリーハウス造りも、順調に進み、その中には、もちろん美香の姿もあった。お盆と云う時期、町は、いつもよりも賑やかになる。久志にとって、十年以上振りに、故郷で、お盆の季節を過ごしていた。そんな時の夕飯の後の事。母屋の長方形のちゃぶ台で、書きものをしていた。映画雑誌の仕事。ここ一カ月以上も、ツリーハウスに力を入れていた久志。仕事が、溜まっていた。
「お兄ちゃん、お茶でも入れようか。」
新宅の家事が、落ち着いたのだろう。そんな言葉と一緒に、母屋に顔を出す妹の祥子。
「おお、ありがとう、お茶じゃなくて、コーヒーにしてくれ。」
原稿用紙に向かって、万年筆を持ち、手を動かせながら、そんな言葉を発する久志の姿に、何か、新鮮さを感じている祥子。記憶する久志の姿は、赤いトラクターに乗って農作業をする兄貴であった。
<わかった>祥子の元気のいい声が、久志の耳に入ってくる。久志は集中を欠かさず、原稿用紙と闘っていた。
メガホンは撮っていなくても、しっかりと映画に関する仕事はしている。自分のやりたい事が、仕事としてやっていける幸せは忘れていない。実家の家業を捨ててまで、東京に飛び出した。自分の中では、決死の覚悟で上京した。やっとの事で、映画という分野で、飯が食っていける様になった。あの時の決意を、忘れてはいなかった。
<久志、ちょっといいね>祥子が、コーヒーを入れている時、母親の千鶴子が姿を現した。
久志は、手に持つ万年筆の動きを止め、声のする方向、縁側に視線を向ける。
丁度、コーヒーを入れ終わった祥子が、湯気のたつマグカップをお盆の上に置き、台所から現れた。
「あら、祥子もおったんね。」
少し驚いた様子の千鶴子。仕事を邪魔された久志は、黙って睨み気味になっていた。
「母さん、お兄ちゃん、今仕事ばァ、しとるとよ。」
「あぁ、いいよ祥子。なんだよ、母さん。」
久志のそんな言葉で、千鶴子は、縁側から履物を脱ぎ、部屋に足を進める。
「母さん、熱いお茶でいいよね。」
<ああ、ありがと>久志の正面に座る千鶴子に対して、久志は、ちゃぶ台の上のものを片づけ始める。
「で、なんですか。母さん。」
「お前、最近、変なもの、造っているらしいね。」
<変なものって>意味ありげなもの言い方をする千鶴子に、眉をピクつく。
「お前が、何をしようが、お前の勝手やが、あんまり、目立たん様にせんと。」
嫌な記憶が蘇える。子供の頃から感じていたもの。この時代の人間がそうなのか。この土地の風潮なのか。目立つ事をすれば、町中の噂になる。噂になると云う事は、事実事に尾びれが付いてくる。噂には、尾びれと云うものがつきものである。
(目立つ事ばァ、したらあかん)
久志は、子供の頃から、そんな言葉を口にする両親が、嫌いであった。子供と云うのは、目立つ事をしたいわけではない。自分のやりたい事をしていれば、自然に目立ってしまう事があると云うだけである。
<はぁ!>一層、久志の目つきが鋭くなる。
「母さん、何、言ってんの。俺は、町の許可、地主の許可は、キチンと取ってツリーハウスを造っているんだ。母さんに、文句言われる筋合いはない!」
目の前のちゃぶ台を叩く勢いで、目を吊りあげて、そんな言葉を怒鳴る。台所にいる祥子は、急須から、お茶を入れてる所、湯呑みから、少しお茶をこぼしてしまう。
「お兄ちゃん、何、大声出しとるとね。ご近所さんに聞こえるやろ。」
そんな言葉を発しながら、部屋に入ってくる祥子にも、イラっとしてしまう久志。まるで、子供の頃言われていた、千鶴子の口調に似ていたからだ。
「祥子、お前、ご近所さんって、隣の家まで、どれくらい離れているんだ。周りは、田んぼばっかりだろうよ。」
つい、祥子にも、そんな言葉で怒鳴ってしまう。
”シーン!”一瞬にして、重たい空気が流れてしまう。こんな状況のきっかけになった千鶴子は、何も言葉を口にしようとしない。黙っている母親、千鶴子を睨みつけている久志は、ふと、ある言葉が頭に浮かんだ。
(これじゃあ、いつもと一緒である。本来、この帰郷の目的、母と仲良くする為である。ツリーハウス造りに夢中になり、母の事は二の次になっている)
「わしは、そんな事いっとるとじゃないとよ。」
久志が、そんな事を考えていると、黙っていた千鶴子が、口を開く。
「久志が造っているのは、京介と造った秘密基地やろ。」
千鶴子の言葉に、ハッとする久志。京介との秘密事であった【秘密基地】の事を知っていた事に驚く。
<知っていたのか>一瞬、千鶴子から目を逸らし、そんな言葉を口にする。
「毎日、服を汚して帰ってきて、何やら、楽しそうにしている我が子を見ていて、知らんわけなかろう。」
(あちゃぁ!)という言葉を心の中で叫び、自分の右手で頭を抱える。そして、千鶴子の口は止まらない。
「わしが言いたいのは、お前の本業はなんねと云う事や。うちの家業まで捨てて、東京へ、映画を、夢を追いかけたんやろ。なんばしとる。」
「別に、母さんに言われなくても、わかっているよ。」
秘密基地のくだりから、千鶴子の勢いに押されている。そして、想像もしていなかった話の内容に、久志の表情は俯き加減となっていた。
「わかっとらん、お前は!お前が、ツリーハウスとやらを造っているのには、理由があっとやろ。その事ばァ、わしが何も言う事はなか。何で、本業の映画がばァ、撮らんやと言ってとる。」
<…>久志は、ついに、言葉が出なくなっていた。千鶴子の言葉が、胸を突いた。
「十年以上も、映画を撮らんで、何をやっとる。厭らしい映画はともかく、外国で、賞を取ったのは、良かった。わしの子供がこんな作品を…」
千鶴子の軽い息子自慢が始まる。当の本人の前でしているのは、少し滑稽ではあるが、千鶴子の表情が、穏やかになっていた。
千鶴子の部屋には、久志が関わった全作品のビデオがあるのを、祥子は知っていた。もちろん、ピンク映画時代のものもあった。手紙を書いても、電話をしても、無しの飛礫だった久志。自分の息子が元気である術を知るには、作品のエンドローグに流れる【霧崎久志】のネームだけであった。
「…、わしの自慢やった。成功したお前が、テレビに出た時は、手を叩いたもんばい。お前が、ここにいてくれる事はうれしい。しかし、沈んだままのお前ばァ見ているのは、哀しいか。老い先短いわしに、もう一度夢ばァ、見せてくれんね。」
<母さん>千鶴子は、久志の作品を(夢)という表現をした。久志は、正直にうれしく思う。
「お兄ちゃん、母さんは、別に、責めているわけと違うとよ。」
久志が沈みゆく姿と、千鶴子の言葉が、連動しているのを見て、そんな言葉を入れる祥子。
<ただ…>祥子が、そんな言葉を発した時、久志は、右の掌を軽く上げて、祥子の言葉を止める。
「祥子、いいよ。母さんの言う通りだよ。」
久志は、千鶴子の言葉を、素直に受け入れた。そして、初めて、母親千鶴子の、本音を聞いた様な気がした。いや、自分が耳を傾けていなかっただけかもしれない。京介が他界したあの日から、自分の殻に閉じ籠り、母親の言葉を聞こうとしなかっただけなのかもしれない。京介が、ここに導いてくれたのは、千鶴子のこの言葉を聞かせる為だったのかと考え始める。
「母さん、私は、道楽で、ツリーハウスを造っているわけじゃないよ。自分の居場所を作る為、しいては、自分を見つめ返す為なんよ。うまく説明できんけど、見ていてくれないか、もう少し、待っていてくれないか。」
千鶴子と同様、心からの本音を言葉にする。ツリーハウスを造り終えれば、前に進める様な気がしていた。十年振りにメガホンを撮ってみようと考えていた。
十年間、悶え苦しんだ。映画に対しての情熱を失っていた。言葉では、うまく言い表せないが、賞を撮った作品以上のものは撮れないと思ったのは事実。そう思ってしまった事で、全く足が止まってしまう。前進しか考えていなかった、前を見る事しか、考えていなかった。立ち止まり、後ろを振り向いた時、足を前に進める事が怖くなる。自分は、これでいいのかと考えてしまっていた。
「沈んだままか…母さんには、私の事、そう映っていたのか。」
先程の千鶴子の言葉を思い出して、そんな事を口にする。この十年間、自問自答する自分が、母親の目には、沈んでいる様に見えていたのかと思うと、悲しくも感じてしまう。
「久志、わしは別に…」
<いいよ>久志の発した言葉に、慌てて、何かを言おうとするのを、軽く止めた。
「母さんが言う通り、私は沈んでいたと思うよ。現に、メガホン撮ってないしね。でも、近いうちに、映画撮るよ。」
千鶴子の瞳を見つめて、静かにそんな言葉を断言した。故郷に戻ってきて、一カ月と半月の日々が流れていた。想像もしていなかった出会い、思ってもいなかった故郷への仮住、忘れてしまっていた故郷への想いが、失っていた情熱に火をつけていた。ゆったりとではあるが、頭の中に、撮りたい映像がまとまりかけていた。
「そうね。お前が、そういうなら、わしは、何も言わん。余計な事ばァ、言ってもうたな。久志。」
千鶴子は、そんな言葉を口にすると、曲がった腰を上げた。縁側に向かう千鶴子の後ろ身を見つめている。まだまだ、言葉を交わさなくてはいけないと思う。今日からは、自分から言葉を交わそうと考える。母親千鶴子の後ろ身を見つめながら、そんな事を思っていた。あの日から、千鶴子との溝が深くなっていた。今回の帰郷で、深い溝が、少しずつではあるが埋まっていた。溝が埋まり終わるまだ、もう、しばらくの時間が必要になるとは思う。しかし、千鶴子の後ろ身を見つめる久志には、もう溝の底が見えていた。
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