第27話 弟と酒を飲む 飲めるはずもないのに…
母屋の縁側に座っている。今日は朝から、ジャァジャァ降りの雨。黙って、屋根をツタって落ちてくる雨の雫を眺めている久志の姿があった。そんな天気であるから、ツリーハウス造りは休みにした。
季節も、八月に入った頃。子供達が夏休みに入っている事もあり、作業の手も多く、順調に進んでいた。
縁側に座る久志の頭が、ボーとしてくる。急に睡魔に襲われた。目蓋が重たくて仕方がない。必死に睡魔と闘うが、一瞬の油断で、目を閉じてしまう。次に、目蓋を開いた時には、周りの空気と云うか、雰囲気が変わっていた。言葉では、うまく表せないが、身体が今にも浮き上がりそうな感覚。周りの風景も、雨が降っている筈なのに、久志の視界には、雨の雫が見えない。昼間であるのに、薄暗くも感じる。
頭を傾げる久志は、おかしいと思いながらも、立ち上がろうとはせず、その場に座っている。なぜか、その場から動こうという気持ちにはなれないでいた。すると、目の前に、見に覚えのない久志の同じぐらいの年恰好の初老の男性が現れる。
“ニカッ!”そんな笑みを浮かべて、一升瓶を片手に、歩み寄ってくる。驚きはしている久志は、表情も変えず、そんな初老の男性を見つめていた。
“ドサッ!”男性は、一升瓶を縁側に置いて、隣に腰を下ろした。久志は胡坐、男性は履物を履いたまま、縁側に座り、見慣れた庭を、しばらく眺めていた。
<京介か>しばらくして、久志は当たり前の様に、そんな言葉を口にする。
(兄さん、よくわかったね。)
笑みを浮かべながら、久志の横顔に視線を向ける。
「何で、老人なんよ。」
(たまにはね。)
久志も、京介の方に視線を向ける。久志は今、夢の中にいる事を受け入れる。枕元に、京介が現れているのだと確信した。いつもは、あの頃の姿、子供のままなのに、京介が言う通り気まぐれなのか、何か意味でもあるのか、そんな事を考えてしまう。
(今日は、兄ちゃんと、飲もうと思ったと。子供の姿のままやと、飲めんやろ。)
続け様に、笑みを浮かべながら、そんな言葉を口にする京介。いつの間にか、二人の間には、二つの湯呑みが置かれていた。
<用意がいいな>吹きだし気味の久志が、そんな言葉を発した。一升瓶の蓋を開けて、それぞれの湯呑みに、日本酒を注ぐ京介。どことなく、楽しそうに見える。
生まれて初めて、兄弟が酒を飲み交わす。現実ではない世界ではあるが、妙な気分になってくる。心なしか、庭が明るくなったように見え出した。
(兄ちゃん、この家も変わらんね。あそこで、兄ちゃんと並んで寝てた。)
湯呑みを口に運びながらも視線を、母屋の方に向ける。
「…、そうか、覚えているか、お前、寝相悪くてな。お前に、蹴っ飛ばされて、何回、夜中に目が覚めたか。」
(えぇ、そうやったん、全然、覚えとらんね。)
「当たり前だろ。お前、寝てたんだから…」
そんな会話をしながら、お互い、表情が緩んでいる。照れくさそうに、何の蟠りもなく、微笑んでいた。
(兄ちゃん、僕、ずっと、こうやって、兄ちゃんと、お酒を飲みたかったとよ。だって、兄ちゃん、楽しそうに、お酒を飲んどるの見とるやろ。ええなぁ、ずっと思とった。)
久志の表情が、一瞬止まる。罪悪感が、身体を覆い被さろうとした瞬間、京介の言葉が続いた。
(兄ちゃん、違うよ。僕がいいなぁと思たんは、僕も、兄ちゃんと飲みたいと願ったってこと。変な風に、とらへんでね。)
京介の言葉に、無性に腹が立ってしまう。心を見空かれている事に、上からモノを言われているようで、ムキになってしまう。
「なんだ、それ!」
(それなら、ええんやけど…)
「私と、飲みたいなら、今みたいに、出てくれば、良いじゃないか。」
(それがねぇ、そう簡単ではないんだがね。兄ちゃんの方のタイミングというか、気持ちというか、ねぇ…)
少し感情的に、言葉を口にしてしまう久志に対して、意味深な言葉でつなげる。
「京介よ。今日は、酒を飲みにだけ現れたんじゃないんだろ。」
しばらく、会話が途絶える。湯呑みの酒を二杯ほど、飲み進めた久志が、そんな言葉を発した。
(鋭かね。ちょっとね。気になったもんやから、出てきてみたと。)
京介も、湯呑み酒を口に運んでいる。ホロ酔い気分の弟の姿が瞳に映った。
(この前、祥子にゆうとったやろ。秘密基地の場所で、この町を捨てたってよ。)
京介は、続け様にそんな言葉を口にする。
<言ったよ>すぐさま、返答をする。正直、祥子にそんな事を言ったのか覚えていない。でも、久志の中には、この生まれ育った町を捨てたと云う思いは、ずっと抱いていた。だから、考える事なく、言い切った。
(悲しか事ばぁ言わんと、兄さんは、町を捨てとらんよ。現に、こうやって戻って来とるやろ。)
京介の声のトーンが落ちる。母親の事もそうであるが、生まれ育ったこの町を捨てたと云う気持ちを持ってもらいたくはない。
「京介、私は、この町を捨てたのよ。捨てて、自分の夢を追ってしまった。この町を出た時、ここには、もう私の居場所が無くなったんだよ。」
久志の声のトーンも落ちていた。本音の部分でもある。京介だから、弟と酒を飲み交わしている。何十年も、心に抱いていた想いを、素直に言葉にできる。
(じゃあ、兄さん、僕の事を否定するとね。僕と過ごした十年間を、否定するとね!)
今度は、久志の事を睨みつける。目尻が吊りあがり、怖い表情を浮かべる京介。湯呑の中の酒が、波打っていた。
「私は、そんな事を言っていないだろ。只…」
言葉が止まってしまう。言いたい言葉が出てこない。
(ただ、なんね。兄さんは、いつもそうや。全部、自分で背負い込んで、僕の事は、誰も悪くはなか。単なる事故や。事故やっとよ、わかとるね。)
京介の髪の毛が、逆立っていく。怒りと云うか、兄を慕う弟の気持ちが、マグマの様に込み上げてくる。
「京介、私は、この町に居たくなかったのだよ。居たくないから、[映画を撮る]と云う夢を抱いたんだと思う。」
酒の入った湯呑みを口に運びながら、遠くを見つめ出す。
(じゃあ、なんね。東京に出て、工事現場のバイトをしながら、映画の制作会社の面接。正規に雇ってもらったと思ったら、ピンク映画助監督。助監督は名ばかりの雑用係。歯を食いしばって頑張ってきたのは、あれはなんね。やりたくもないものに、あれだけ頑張れるとね、兄ちゃん!)
思いがけない京介の言葉。確かに、久志は、自分の映画を撮るために血を吐く様な努力をしてきた。
(兄ちゃんは、映画撮る為に東京へ出たんや。故郷を捨てたわけはなか。こっちの世界で、兄ちゃんの事、俺の自慢やっとよ。)
力強い言葉に、久志は何も言えなくなる。しかし、懐かしさも感じてしまう。こうやって、言い争いをしていた子供の頃の事を、思い出していた。京介は、いつも正論を口にしていた。いい加減であった久志は、そんな京介の並べる言葉に、今みたいに黙ってしまっていた。そんな時は、いつも話しをはぐらかせていた。
「お前は、酒乱か。それに、お前は俺のストーカーか。」
そんな言葉が、自然に出てくる。京介は、久志の横顔を一点だけを凝視する。すると、ツボにはまったのか、ゲラゲラと笑い出す。
(わっはは、ストーカーって…面白いよ。確かにそうやね。俺は、兄ちゃんのストーカーか。)
腹を抱えながら、そんな言葉を発している。張りつめた重たい空気が、一気に和やかになっていく。
久志は、京介の言葉を真剣に受け止めていた。美香と云う少女の存在を理由にして、秘密基地と云うツリーハウスを造り始めた。あの場所を、自分の居場所として思ってもいいのかもしれないと考えた時、京介が、こんな言葉を口にする。
(兄さん、いいんだよ。)
京介の口角が上がる笑みが、瞳に映った。もう言葉はいらなかった。二人の楽しい酒盛りは続いていく。久志の夢の世界に、居続けていた。
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