第16話 約束 スーパーカブ

「よし、間に合うな。」

久志は、自分の腕時計に視線を向けて、こんな言葉を発した。

「美香ちゃん、まだ、学校の時間だろ。今から戻るよ。」

そんな言葉を発する久志に対して、しかめっ面をする美香。

「えぇ~、今から…今日は、もういいじゃん。」

「今、約束したばかりだろ。美香ちゃん。私も、明日からの段取りがあるから、今日は帰るよ。」

美香は、この興奮を萎ませたくはなかった。学校に行くという現実を、もうちょっと忘れていたかった。自分のわがままに、鋭い目つきで睨み返される久志に対して、安心している自分に気付くと、笑みを浮かべていた。

「はァイ。わかりました。行きますよ。」

憎まれ口をたたく美香であるが、そんな姿がかわいく思えてくる久志。自分が娘を持ったら、こんな感じになるのだろうか。

「じゃあ、おじさんが、カブで送ってあげるよ。」

久志は、そんな言葉を口にして、素早くハシゴを降りていく。

「待って。私も行く。」

久志に続き、ハシゴに手を掛ける美香を、木の下で待っている久志の姿。美香が落ちないように、下から見守っていた。そして、秘密基地の広場を後にする二人。山道を降りて、スーパーカブの前。

「ほら、被りな。」

一つしかないヘルメットを美香に被せてやる。顎紐が緩まないようにしっかりと締めると、美香を後ろに乗せて、カブは走り出す。

美香は、不思議な感じを覚える。正直、学校には行きたくない。でも、今朝まで抱いていた感情とは、別なものが芽生え始めていた。怖かった、恐ろしかった、恐怖というモノが、全身を襲い、身体を硬直させていた。でも、今は単なる嫌だと、いう感情だけである。だるいから、行きたくない。ただ、それだけが感情しかなかった。憑き物が取れたように、全身が軽くなっている。カブに跨るこの場で、立ち上がり、両手を左右に広げたい。そんな衝動に駆られるぐらい、美香は正面を見つめていた。

美香が怖がらない様に、ゆったりとした速度で、カブを走らせている。こんな清々しい気分になったのは、いつ振りであろう。初夏の青空の下、緑の香りを乗せて六月の風が、久志の全身に当たり流れている。美香の【先の見えない不安】。久志の【先へ進めないもどかしさ】が重なり合い、ちょっとした明るい明日が見え始めていた。



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