第9話 言い争う母子
土間の台所が落ち着いた頃、久志と昌幸が
乗る軽トラックのエンジン音が、近づいてくる。
キぃー、ガっドン
母屋の前、中庭に軽トラを止めて、荷台に乗っけている買い物袋を手に取り、久志が顔を出す。縁側には、淡い光が漏れていた。薄暗くなってきた頃合い。山に太陽が、沈みかかっている。
『ただいま』
各々が、こんな言葉を発して、縁側に買ってきた物を置いて、その場で履物を脱いだ。淡い光が漏れる襖一枚開けると、とても五人家族では食べきれない夕食の品々が並んでいる。
「おいおい、誰が食べるんだよ。こんなに…」
縁側に置いた買い物袋をぶら下げて、こんな言葉を口にする久志。冷蔵庫の中身を、全て使い切ったような料理の数々に、呆れるというか、驚いてしまう。
「お兄ちゃん、独り者だから、たまに帰ってきたんだし、お母さんが、腕を振るったんよ。」
そんな言葉を口にしながら、歩み寄ってくる祥子に、手に持っている荷物を手渡す。
「そんな事、言うとやったら、食べんでもよか。」
土間の方から、千鶴子が顔を出す。久志の視線は、自然と声のする方に向いた。
「もう母さん、そんな事言わんでも…」
気まずい雰囲気を感じ取ったの、祥子がそんな言葉を口にする。
…
何も言わず、千鶴子と目を合わさず、大量の料理が並ぶちゃぶ台の前に腰を下ろす久志。
「とにかく、冷めない内に、始めましょうか。とりあえず、ビールを…」
昌幸も、この母子の事情は、わかっていた。そんな言葉で強引に始めようとする。
「お兄ちゃん、母さん、そんな事ゆうとるけど、田舎の味が懐かしいやろからって、張り切って作ったとよ。」
…
祥子のそんな言葉にも、座ったまま腕組みをして何も言葉にしない久志。そんな息子に対抗するかのように、土間から上がってくる千鶴子の姿。
「お兄さん、冷えたビールを持ってきましたよ。」
昌幸が、そんな言葉を発しなから、顔を出したが、何とも言えない空気の重さに動きが止まってしまう。久志は、妹夫婦の気遣いを感じ取っていた。母親と喧嘩をする為に、帰ってきたわけではない。自分の方から折れないという気持ちで言葉を口にする。
「昌幸君も祥子も、あっ、誰だっけ…」
利美と目が合い、右拳を縦に、額に当てる久志。三人兄弟の末っ子である利美の名前が、なかなか出てこない。
利美です。
目が合っている利美自ら、自分の名を口にする。目の前のおじは、そうだそうだと口にして、額にあった右拳を開いた左手の上に置いた。
「ごめんごめん、利美ちゃんだね。とにかく、座ろうよ。この人は、昔からこういう人だから、気にしないで食べよう。」
利美は、今から複雑な大人の事情ってものを目の当たりにする。
「久志、なんね、その物のいい草は、親も向かって言う言葉ね。」
千鶴子の事を【母さん】から【この人】になってしまっていた。こんな言い方が気に入らなかったのか、自分が無視されているように思えたのか。千鶴子は怒りを、身体全体で表す。
「じゃあ、親らしく、素直になれよ。私の為に作ってくれたんだよね。こんなにいっぱい。確かに、十数年、顔を出さんかった私が悪いんだろうよ。家業を捨てた私が、悪いんだろうよ。でもな、あんたは、親らしいか。俺の顔を見れば、文句ばっか言って、そんな家に帰ってきたいと思うか。空気を読めよ。昌幸君も祥子も、気を使ってくれているんだよ。わからんか。利美ちゃんの表情を見てみろよ。私が憎いのは分かる。嫌って程、わかっているよ。でもな、みんなの前では、気を遣わせる事をやるなよ。頼むから、少しは考えろ。」
千鶴子と久志の間には、とても深い溝がある。この二人しかわからない溝。祥子にもわからない溝があった。
<…>少し、気を荒立てているが、久志の冷静な言葉に、千鶴子はもちろん、周りの人間も言葉を挟めない。そして、まだ、久志の言葉を続ける。
「私は、あなたと喧嘩をするために帰ってきたんじゃないんだよ。あんたと言い争う為に帰ってきたんじゃぁないんよ。」
久志は、声を荒げずに、冷静に言葉にした。利美の存在が、大きかった。見に覚えのない初老の男性が、自分の祖母である千鶴子と、声を荒げ、喧嘩をしている姿など、見苦しく、みっともない光景である。
「そうかい、そうやね」
千鶴子は、ゆったりと、そんな言葉を口にすると、立ち上がり、土間の方に足が向いてる。
「母さん、ちょっと…」
土間に下りて、母屋を出て行こうとする千鶴子の後を追いかけようとする祥子。
「お兄ちゃん、言いすぎ!」
祥子は、そんな言葉を仏間に残していく。残された昌幸と利美は、この状況をどうする事も出来ないでいる。
「昌幸君も、利美ちゃんも、すまんな。」
そんな中、久志は、二人に向かって頭を下げる。
長女の利美は、正直、目の前の叔父、久志に驚いていた。記憶にない、ほぼ初対面に近い男性に戸惑っている。
「もう、お兄ちゃん…あんな事、言わんでも…」
しばらくして、祥子が母屋に顔を見せる。
「お母さん、もう、へそ曲げて蒲団被ってもうた。」
すいません、久志は頭を下げた。疲れきった表情の祥子に、深々と頭を下げた。
「お兄ちゃん、やめてよ。もういいよ、食事にしよ。」
そんな言葉を、祥子を口にして、ドサッとちゃぶ台の前に座りこむ。
<ちょっと、待って!>突然、利美がそんな声を上げる。
「ちょっと、おかしくない。なんで、お婆ちゃんが、あんな事言われないけんの。」
続けて、そんなキツイ言葉を発していた。利美にとって、優しいお婆ちゃんである。初対面に近い久志より、身近である千鶴子の事を味方する発言。
「利美、何ゆうの。この子は…」
突然の娘の発言に、思わずこんな言葉を口にしてしまう祥子。
「だって、お母さん…」
「いいの、大人の話なの。あんたは黙っとき…。ごめんね、お兄ちゃん。」
久志の事を、チラ見しながら、こんな言葉を発する。
「いいよ。祥子。そうか、そうなるな。私は、悪者になってしまうわな。」
そんな言葉を口にしながら、利美の顔を見つめ出す久志。さすが、千鶴子を擁護した孫である。そんな久志の視線にも、目を逸らさず、反対に睨みつけられる勢い。
「じゃあ、利美ちゃん、一つ聞くぞ。この家は、君にとって、どんな所だい。」
久志は、落ち着いてゆったりとそんな言葉を、利美に投げかけた。そんな問いかけに、少し考え込むと、こんな言葉を口にした。
「帰る場所。戻れる場所。」
「ほぉ、そう来たか。なかなか文学的だね、利美ちゃん。」
来年、中学三年になる利美。なかなか重たい言葉を、この場で言葉として、返してくる。もうこの空間は、久志と利美のものになっている。お互いの隣にいる両親、昌幸と祥子は生唾を飲んでいた。
「私は、この家で、生まれ育った。利美ちゃんも一緒だよね。」
<はい>久志のゆったりとした口調。標準語のイントネーションが、耳に馴染んできたのか、素直に返事をする利美。
「君にとっては、この家が、居心地がよく、安らげる場所なんだろうね。だから、そんな言葉が、出てくるんだと思う。でも、なぜだろう。私には、そんな言葉が出てこない。君は、なんでだと思う。」
「えっ、それは…」
久志の冷静で、穏やかな言葉に、一瞬、目を逸らしてしまう利美。キリっとしていた表情が歪んでしまう。
「同じ所で生まれ育ったのに、こうも違うんだよ。人間って、面白いね。私にとって、この家は、帰る場所じゃないだよ。どうしてだろ。利美ちゃん、そんなことについては、どう思う。そんなこと言われても、困るか、ねぇ…」
諭すような久志の言葉に、とうとう俯いてしまう利美。
大人の事情と云うのは、奥深いもの。まだ十三歳の利美には重たいようである。
…
「お兄ちゃん、もういいでしょ。利美、困った顔しているし、そんな事よりも、食べよ。昌幸さん、冷えているビール持ってきて…」
ビール瓶を抱き抱えている昌幸に、視線を向ける。祥子は、無理やり夕食の方に持っていく。久志も、心なしか、悲しそうな表情を浮かべている。姪の利美に、こんな言葉を言うつもりはなかった。思わず、口にしてしまった事に後悔をしていた。
「はい、お兄さん、どうぞ。」
ビールを勧める昌幸。千鶴子抜きの宴が始まる。本当であれば、賑やかになるはずであった。十数年振りの帰郷の宴が、静かに流れていく。
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