第8話 母親の裏腹な思い
その日の夕刻。まだ、日が沈み切っていない風景の中、母屋の方が騒がしくなっている。千鶴子は、忙しく動きまくっている。
長方形のちゃぶ台と正方形のちゃぶ台を二つ並べて、普段使わない母屋の台所で、その場を千鶴子が仕切っていた。
「お母さん、どけんしたと、今日は…」
学校から帰ってきた祥子の長女利美の目に入ってきた情景に、驚いている。母親の祥子に、そんな言葉を掛けるが、何も言葉が返ってこない。仏間に広げられているちゃぶ台二つの上には、祝い事でしか見られない、田舎料理が並べられていた。
「何、今日は、なんのお祝いなん…」
立ったまま、呆然としている利美が、そんな言葉を呟いている。正月、お盆などのお祝いの席でしか見られない光景に、利美は戸惑っていた。今日の事は何を知らされていないし、言われた記憶もない。
「利美、帰ってきてたんね。そこで、ボーとしとらんで、はよう、手伝いんしゃい。」
ボーとしているように見えたのだろう。そんな利美の姿を見つけた祥子は、忙しなく動きながら、そんな言葉を掛ける。利美は、何が何だか分からないまま、二人に合流してしまう。
「祥子!」
「なん!」
「久志は、甘めが好きやから、わかとる。」
「えっ、そうなん。」
母屋の台所は土間になっている。窯場も、まだ残っている土間の台所で、祥子は出し巻き玉子を巻いていた。久志が家を出て行ったのが、祥子が十八の時、久志の好みなど、知らなくて当たり前であろう。
「もう、巻いているやん、どげんしよ。早く言ってよ。」
祥子は、とにかく、巻き途中の出し巻きを巻いてしまう。そして、味付けをやり直す。千鶴子は、火場の前から離れなれないでいる。
「祥子!」
「次は、なんね。」
「久志は、どげんしたと。」
「昌幸さんと、カシワ。」
千鶴子と祥子の言葉が、激しく飛び合い、母屋の土間は戦場になっていた。
(かしわ)という言葉が聞き慣れないと思うが、この土地の郷土料理である。鶏をその場で絞めてもらい、刺身として食す。久志とこの家の家長である昌幸は、近くの鶏農家に(かしわ)を買い求めに出ていた。
「じゃあ、ビールとかお酒はあっとね。」
「それも、昌幸さんに頼んである。」
「そうね、あとは…」
張り切りすぎるほど張り切っている祖母の姿を、何もわからないまま、見つめている。何から、手をつけていいか、わからないほど、土間の台所はピリピリしていた。
「利美、これ出来上がっているから、皿に盛って、運んどいて…」
「はい!」
目の前の二人の雰囲気にのまれ、手伝わなければいけないように思えてくる。何も聞かされないまま、利美も戦場に入ってしまった。
「利美ちゃん、ばあちゃん、畑から野菜とってくるけん、窯の火見とってな。」
しばらくして、千鶴子はそんな言葉を残して、姿を消した。利美は、千鶴子がいなくなった事で、ピリピリ加減が柔らかくなっていく。
「ふぅう、しんど。母さんも、あんなに文句言ってといて、お兄ちゃんの為に張りきっ
とるんやから…」
独り言なのか、思わず、そんな言葉を発してしまう。利美には、さっきから気になっていたワード(久志・お兄ちゃん)、誰の事なのであろう。
<誰なん、久志って!>
胸の内で、そんな言葉を叫んでしまう。
「利美、窯のマキ、ちょっと、抑えといて、お婆ちゃん、うるさいから…」
子供の頃は、この土間の台所で使っていた。千鶴子が、窯で炊く米の火加減は、身体に染みるほど教えられている。
「お母さん、ひさしって、誰なん。今日はどげんしたと。」
利美は、思い切って聞いてみる。千鶴子が居なくなった事で、母親のピリピリ加減も和らいできたのを、感じ取ったのだろう。
十数年前の父親の葬式に帰ってきて以来、顔を出していない久志。利美は、赤ちゃんと呼ばれる年頃であった。記憶にないのは当然であろう。
「何、ゆうちょっとね。いつも、年賀状や手紙来るやろ。東京に住んでいるお母さんのお兄ちゃん。」
利美にとっては叔父さんになる。知っている事が当たり前のように、言葉を口にするが、この場合、知らなくて当たり前である。
「なんね、正月にお前達にお年玉、送ってくれとるやろ。」
利美の表情を見て、そんな言葉を続ける。子供にとって、誰から貰おうが、お年玉はお年玉である。誰から貰ったかなんて、覚えていない。
「知らんよ。私は…」
「まあ、しょうがなかね。あんたがお兄ちゃんに逢ったのは、まだ、赤ん坊やったからね。」
祥子の子供達の中で、久志の記憶があるのは、長男の賢二だけで、かろうじて、二男の孝も覚えているかもしれない。とにかく、末っ子の利美には久志の記憶はなかった。
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