第10話 遠い遠い記憶

暗闇の中で、一人の子供が、何かを叫びながら駆けていた。上からその子供を見ている視界が、子供の視線に変わった時、私はこう叫んでいた。

京介、京介!

その時、気づく。暗闇の中、駆けていた子供が、私だという事に気付いた。

<あっ!>私は躓いてしまう。暗闇の背景が、一気に山の中の風景に変わっていく。記憶にある場所。忘れられない場所。私は、恐る恐る頭を上げた。

忘れられない、忘れてはいけない情景。首を吊っている京介の姿。木に絡まったツルに、首をひっかけ、ブラーンとぶら下がっている情景。何も出来ず、足を震わしていたあの時の自分がここにいた。

『あっ!』

仏間に蚊帳を吊っている中、久志は目を覚ました。ビッショリ寝汗で、枕が濡れている。

京介が死んでしまった理由。事故であった。久志と二人、山で遊んでいた時、木に絡まっていたツルに首をひっかけてしまい、そのまま、首を吊る状態になってしまう。白目をむいて、久志に助けを求める京介。手のひらを必死に久志に差し伸ばすが、足が震え、何も出来なかった久志。その時の情景が、夢に出てきた。

<夢か>白髪が目立つ髪をかきわけながら、そんな言葉を口にすると、京介の写真に目を向ける。

「京介、怒っているのか。」

モロクロの京介の表情。久志は起き上がり、土間の台所に足を向けた。

ジャぁー、ジャぁー…!

蛇口をひねり、頭から水を浴びる久志。【悪夢】といっていいだろう。しかし、久志は、そんなに恐怖はしていない。正直に言うと、十数年前の父親の葬式を最後に、帰郷するつもりは、この町に足を向けるつもりではなかった。まァ、次に帰郷をするのは、母親の葬式の時だろうと考えていたのである。

<お兄ちゃん、もういいんじゃないと>

<いい加減に、母さんに自分の気持ち、言いや>

この数カ月、枕元に立つ京介。子供の時の姿のままで、久志に、そう語りかける。今見た悪夢も、京介が見させたのだろう。今回の帰郷は、今日まで口に出せなかった思いを、母親に言う事が一番の目的であったのに、いつもの如く、大喧嘩をしてしまった。そんな久志に対して、京介が怒って、見せた夢だと思っている。

「フぅ~、冷たいなぁ、井戸水は…」

母屋の方は、昔ながらの井戸水を使っていた。ひんやりとした井戸水を豪快に、蛇口から、直接口に入れる。東京の水道水に慣れている久志は、久しぶりの故郷の水の味に、感慨深いものを覚える。

ブタの鼻から、黙々と煙を出している蚊取り線香の置物を手にして、縁側に向かう。まだ、外は真っ暗、月明かりに照らされた中庭を見ながら、縁側に座りこんだ。

「今日は、満月か。」

斜め前方に、満丸い月を眺めながら、そんな言葉を呟く。蚊取り線香のブタと一緒に持ってきた煙草に手を伸ばす。

ふぅ~!

煙草の煙は、思い切り肺に入れて、吐き出した。月明かりの中、久志は何を思っているのだろう。

「京介に、感謝しなくちゃな。」

もう故郷に帰るつもりなどなかった久志は、他界した京介に導かれていた。この数カ月、自分の中で自問自答をする。このまま、母親に逢わなくていいのか。もう老人の部類に入ってしまう自分は、母親と対面して、本音というものを言葉にしていない。京介の事故から、わだかまり、大きな溝を作ったままでいいのか。

<お兄ちゃん、母さんに逢ってやりや。母さんも待っているはずやから…>

枕元で、そう囁く京介の言葉が、引き金になった。

「京介、駄目かもしれない。」

満丸い月を眺めながら、そんな言葉を呟いた久志は、ぶっとい指に挟まれた煙草の灰を、蚊取り線香ブタの中に入れると、視線を中庭に向けた。

「なんね。こんなに早く…」

そんな言葉と一緒に、人影が視界に入ってく。見に覚えのあるシルエット。腰が少し曲がった、猫背のシルエット。思わず、身を乗り出し、老眼の瞳を細めて目を凝らす。

「母さん。」

月明かりの陰から、母親の千鶴子が現れる。両手を腰に置いて、ゆったりと歩いてくる。

「年寄りは、朝が早いなぁ。」

久志は、目を逸らしながら、そんな憎まれ口が、つい出てしまう。

「何ゆうとる、お前も、もうその年寄りの仲間入りやろが…」

千鶴子も負けてはいない、そんな言葉を口にして、久志の隣に座りこむ。

「母さん、京介の夢に出てきた。」

久志は、なぜか、そんな言葉を発していた。千鶴子の前で、【京介】の名前を出したのは、何十年振りであろう。

「そうかい。」

落ち着いて、そんな言葉を口にする千鶴子。まだ、日が昇っていないせいか、さっき見た悪夢のせいか、久志も落ち着いている。

「母さん、覚えているか、京介が死んだ日。母さんは、私の事を何回も、何回も殴った。<お兄ちゃんのお前がついとって、こげん事なるんか!>ってゆうて、覚えているか。」

「ああ、覚えとる。お前の頬が、真っ赤になるまで叩いた。父さんが止めに入るまで、何度もな。」

「痛かった。悲しかった。寂しかった。今でも、あの時の頬の痛み、覚えている。」

「そうかい。」

二人とも、冷静にこんな会話をしている。不思議に思う。京介が死んだあの日の事を、こんなに落ち着いて、話しが出来る自分を不思議に思う。千鶴子は、しわくちゃな自分の手の平を見つめる。

「わしの手も痛かった。後にも先にも、お前をあんなに叩いた事なかった。お前は、全然、悪くなかとに…」

千鶴子の言葉に、戸惑う久志。京介の事は事故である。運が悪く、ツルに首が引っ掛けてしまった事故であった。しかし、母親の千鶴子はそう思っていないと、ずっと、久志は思っていた。京介の死んだのは、久志のせいだと考えているとこの数十年、思い続けてきた。

「小学校五年のお前が、何も出来ないというのはわかっとったんよ、でも、あの時は、自分ばァ、止められんかった。お前には、すまないと思っとる。」

またまた、千鶴子の言葉に、戸惑ってしまう。

「あん時からやね。わしとお前の間が、こんな風になったんは…久志、お前はわしに心を許す事はなくなった。いつも、わしの事を避けている。よほど、あの時のわしが、怖かったんやろナ。」

久志の目が、月明かりの明るさに慣れてきた頃、チラリと千鶴子の顔に視線を向けると、深い皺に覆われた千鶴子の瞳から、一滴の涙らしきものが視界に入る。

「母さん、あのな…」

久志が、モノを言おうとするが、千鶴子は、言葉を続ける。母親の言葉を遮ることなく、言葉を飲み込んだ。

「お前の子供の頃は、家におる時よりも、外で遊んでいる時間の方が多かったな。何度怒鳴っても、いつも、泥んこになって帰ってくる。でも、京介の事があってからは、おとなしくなった。家に籠る時間が多くなっていった。京介の事は、事故なんよ。お前に手を挙げた事が、お前を変えてしもうた。わしが、悪いんやろナ。わしが…」

周りが暗く、素直になれたのか。自分が、言わなければいけない事を…千鶴子の方が、折れてくれた。ずっと、口に出来なかった事を、胸の内を言葉にする。

久志は、言葉に詰まってしまう。視線を千鶴子に向けたまま、言葉が止まった。吸いかけていた煙草の灰はフィルターの所まで燃えていた。久志が、蚊取り線香のブタに煙草の吸い殻を捨てている間に、千鶴子は立ち上がっていた。

「よっこらせ、そろそろ、祥子ばァ起きてくる頃やね。朝御飯の支度を行くとするかねぇ。」

骨と皮のシワシワの指で涙を拭う仕草、しわがれた声を発して、久志に背を向けた。

そんな千鶴子の姿を目で追いかける事も、なかなか言葉が出てこない。

「久志、朝御飯、食べるやろ。」

「ああ、後で行くな。」

やっと出た言葉が、これであった。千鶴子の腰に、両手を添えた後ろ身。千鶴子は、背を向けたまま手を振る。そんな母親に向かって、久志はこんな言葉を口にする。

「母さん、しばらく世話になるわぁ。よろしくな。」

二、三日で、東京に帰るつもりでいた久志の心境が変化する。他界した京介が導いてくれた今回の帰郷。姪の利美が言っていた。この家が帰れる場所になるのかもしれないと考え始めていた。

久志の視界に、だいだい色が染まり始める。山々の線がはっきりと見え出した。こんな故郷の景色。この朝の風景を見るのは何十年振りであろう。小皺が目立つ目じりから、一滴の涙が流れる。五十数年生きてきた証の皺が、曲線を作る。清々しい朝日が、久志を照らしていた。


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