中宮様の腹心

「はあ……」

 自らの局の中で、ため息をつきました。


 最近、同僚の女房方が、よそよそしい気がします。穿ち過ぎなのかもしれませんが、『中宮様は、なぜ、あの新入りを贔屓なさるのかしら』と怪しまれて陰口を言われている気がするのです。そのようなことを考えていると、先日のことを思い出し、びくびくしてしまって。情けないことながら、気分が優れないなどと言い訳をして、御召しがあってもすぐに局へ下がらせていただく日々です。

 このような有り様でも、中宮様は、こちらが申し訳なくなる程に細やかな気遣いを施してくださいます。それもあり、局に籠もりがちなわたくしに向けられる視線は厳しさを増す一方。そのせいで、ますます顔を出しづらくなっていくのです。



❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿



「とう、藤式部……」

 局へさがって行った姿を追うようにつぶやく。

 わたしのお気に入りの女房であり、同時に可愛い妹でもある藤式部は、最近元気がない。慣れない生活が、心や体にきてしまったのかしら。

「心配だわ……」

 新しい歌集にも反応してくれなくなった。

「……悩んでも仕方がないわね」

 事情を知らないことには、どうしようもならないもの。



✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀



「式部殿。少し良いかしら〜?」

 いらっしゃったのは、中納言様でした。中宮様の腹心女房のひとりです。

 わたくしは彼女を、自らの局に招き入れます。

「どうされました? 中納言様」

 座ったまま見上げるわたくしに、中納言様は困ったように眉を下げます。

「その呼び方は、いささか居心地悪いわね〜。まるで、あたし自身が官職についてるみたいよ。せめて、中納言の君とでも呼んでちょうだい?」

「す、すみません。中納言の君」

 そのようなことをお気になさるなんて。不思議なこだわりをお持ちの方なのでしょうか。

 おっとりと微笑む顔は、世の基準で見れば、美人だとは言えません。しかしながら、ゆるやかに波打つ茶色い髪は豪奢で華やか、ぱっちりとした目は明るく愛嬌があります。

 少しだけ緊張を忘れて、まじまじと見入ってしまいましたが、

「ええっと、何か御用ですか?」

 中納言の君が局を訪ねて来られるなど、初めてです。

「ふふ。話が逸れてしまったわね~」

 中納言の君はゆったりとした物腰を保ったまま、単刀直入におっしゃいました。

「中宮様の御召しよ~。ふたりで話したいことがあるのですって〜」

 びくっと、反射的に身体が震えてしまいます。

「大丈夫?」

 目ざとく気付いた中納言の君が、ふと表情を曇らせました。

「ええ、何ともございません」

 主からの御召しを嫌がるなど、あってはならないことです。内心を悟らせぬよう、ことさら声を平坦にします。

「中納言の君。ありがとうございます。中宮様からの伝言を承りました」

「そう」

「参ります。我が主のもとへ」

 中納言の君が先触れに出てくださるのを見送って、わたくしは支度を始めました。



❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿



「いらっしゃい、桃子とうし

「中宮様」

 かたわらで非難めいた声を出す小宰相様に向かって、中宮様は悪びれず首をかしげなさいます。

「あら。『藤式部』だから、略して『とうし』なのよ。問題ないでしょ」

「……わかりました。そういうことに、いたしますよ」

 小宰相様は、深々と溜息をついた後、退出して行かれました。


「さて。桃子」

「はい、中宮様」

 珍しく笑みを消した中宮様が、わたくしの顔を覗き込みなさいます。

「何があったのか、教えて」

「……はい?」

「何か悩んでいるのでしょう? まだ馴染めていないの? それとも、誰かに何か、ひどいことでもされた?」

 ……中宮様は、本気でおっしゃっているのでしょうか。原因に心当たりがない、と? あり得ません、よね……

「どうしたの? 桃子、言いづらいのかしら。大丈夫よ。ここにはわたしとあなたしかいないもの」

 中宮様がわたくしに向けなさる目には、心配の色しかございません。

「……中宮様は、何ひとつ、わかってらっしゃらない」

 低い、呻くような呟きが漏れてしまいました。まずい、と思いますが、勢いのままに言葉を吐き出してしまいます。

「本当に心配してくださるなら、わたくしと二人きりになろうとなど、なさらないでくださいませ!」

 恐る恐る顔を上げると、中宮様は目を見開いていらっしゃいました。盛り上がってくる透明な玉を見て、我に返ると共に、心苦しさが膨れます。

 再び顔を俯向け、

「申し訳ありません。そろそろ、さがらせていただいてもよろしいでしょうか」

 早口で退出を願い申し上げると、

「……わかったわ。来てくれてありがとう」

 いつもよりいささか低い声で許しをくださいました。


 わたくしは、そそくさと、逃げるように局に帰るしかありませんでした。



✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀



 ……やってしまい、ました。此度の非礼、第三者のいない場のこととはいえ、許されることではないでしょう。

 わたくしは、辞めさせられるのでしょうか。居心地が悪い場から離れられて気は楽になるかもしれませんが、お父様にご迷惑をおかけしてしまいます。

 背後で、ふわりと御簾が揺れる気配がしました。びくりと肩を上げて固まると、

「……大丈夫?」

降ってきた声は、中納言の君のものでした。

「ああはい、いえ……」

 言葉を濁すわたくしに膝でにじり寄るようにして、中納言の君は背後から目の前へと回り込んできます。そして、わたくしの手を取ってくださいました。

「畏れ多い、という気持ちには、あたしも覚えがあるわ~」

「そう、なのですか」

 畏れ多い、ですか。中納言の君には、お見通しだったのですね。

 彼女の手は、よく見ると、貴族の娘らしからぬ働き者の様相です。後宮内にいる他の多くの女性たちが持つ、傷を知らぬ真っ白でたおやかな手とはかなり違います。

 しかしわたくしには、温もりと優しさに満ちたその手が、他の誰のものより尊く思われました。

「そうよ~。大きな声で言えることではないのだけれど、中宮様が大いなる信頼を寄せている式部になら、言っても大丈夫かしら?」

 そこで一息つくと、中納言の君はわたくしの耳に顔を寄せ、声を潜めて囁かれます。

「あたしは本来、後宮に入って中宮様にお仕えできるような身分の者ではないの」

 ――――え?

「中納言の君の後見は、権中納言藤原雅近ごんちゅうなごんふじわらのまさちか様でしたよね……?」

 つられて声を小さくしたわたくしの問いに、中納言の君は穏やかな態度で応じます。言うまでもなく、声は潜めたままに。

「そう。確かに、あたしの後見は雅近兄様よ」

「『兄様』ということは、兄君ではないのですか?」

「いいえ。あたしと雅近兄様に、血の繋がりはないわ。兄様はあたしを拾ってきた後、貴族としての教育を施してくださったの。それすら本来は許される身分ではないのに、さらに後宮へ上がる夢まで叶えてくれて、お膳立てもしてくれた。とってもとっても、お優しい方なの」

 中納言の君は体を離し、わたくしの顔を覗き込むように首を傾げて屈託のない笑みを見せなさいます。

「 だからこそ恩に報いる意味も込めてね、この場所で、慕わしい『兄様』の、お役に立ちたいのよ~」

 眩しい、です。上つ方から身に余るものを与えられても萎縮せず、頂いたものに相応しくあろうとする姿が。畏れ多いなどと言い訳をして気遣いすら無下にするというような、礼を失した態度をとってしまっているわたくしとは大違い。

 中納言の君から目をそらすように下を向きます。すると。

 中納言の君が、すっと自らの袖に手を入れ、何かを取り出しました。

「――?」

 白い、厚い、紙の束。それも、明らかに最高級品です。

「そして、これも」

 今度は、懐から出した――文、でしょうか。


 ――藤式部へ

筆頭女房として、私が中宮様の代わりにあなたへ仕事を与えます。その草子に何か書いて、人々を楽しませなさい。これは文才を買われた女房として、中宮様の評判を上げるための大事な役割です。励むように。――

「小宰相、様……」

 ありがたい限りです。他の方々と顔を合わせるのが難しく、だからといって何もせずに逃げてしまっているのも心苦しい。そういうわたくしの気持ちを慮ってくださったのでしょう。

「これ、実は相模の発案なのよ~」

「相模様、でございますか」

 素晴らしいです。まず、事情をご存知だったことが驚きですが。

 小宰相様、中納言の君、相模様。中宮様の腹心とも言えるこの御三方が、心を砕いてくださるなんて。

 背筋を伸ばしてすっと顔を上げる。

「お心遣い感謝いたします。ご命令、承りました。全力で成し遂げますので、この旨、お伝えいただいてもよろしいでしょうか」

  私の表情に少し目を丸くした中納言の君ですが、

「了解よ~」

 ほっとしたようにのんびりと返して、首をかしげつつ微笑んでくださいました。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る