藤壺にて、姉妹のささめごと(弐)

 考えが甘かったようです。

「人払いを。小宰相、あなたも下がってちょうだい。ここに誰も近づけては駄目よ」

 目の前にわたくしを座らせたまま、中宮様がおっしゃいました。

「し、かし……」

 小宰相様が苦言を呈そうとします。わたくしも、すがるように小宰相様を見ました。が、中宮様は

「お、ね、が、い。わたしは、妹と過ごしたいの。姉妹が一緒に過ごしたいって思うのは、おかしいことじゃないでしょ?」

 小宰相様に囁かれます。そして

「わたしはこれから、藤式部に和歌の手ほどきをしてもらうのよ。藤式部は新入りだし、奥ゆかしいから、他の人がいると上手く教えられないかもしれないでしょ」

 わざとらしく大声で宣言なさいました。

 小宰相様は苦虫を噛み潰したように顔を思いっきりしかめ、意見を問うようにわたしへ鋭い視線を投げてきます。

 ……そのような目をされても、私にどうこうできるものではないかと。

 小宰相様はこれ見よがしにため息をつきます。そして、

「藤式部。励みなさい」

 言い置いて、他の女房方と共に退出していきました。

 中宮様の御前には、わたくしだけが残ります。


 座したまま、わたくしはじりじりと心持ち後ろへさがってみます。すると中宮様が

「緊張しなくていいのよ。わたしは妹と仲良くしたいだけだもの」

 にっこりとわたくしへ笑いかけてくださいました。しかし、目が笑っていらっしゃらないような気がいたします。まるで『逃がさない』と言われているみたいで、視線が交わったとたん、わたくしは蛇に睨まれた蛙のように固まってしまいました。

 中宮様はふふっと微笑まれ、一巻の巻物を取り出して広げなさいます。

「そ、れは……」

 わたくしは心持ち身を乗り出しました。

 上質の紙。熟成された希少な墨の匂いが、中宮様の衣に焚きしめられた香と混ざってふわりと上品に漂います。

「この歌集、一緒に読みましょう?」

 その言葉につられ、素敵な巻物に心を奪われて、わたくしは反射的に「はい」と返事をしてしまいました。

 中宮様のお側へ寄り申し上げながら、わたくしは後悔します。

 いくらなんでも単純過ぎませんか? そう思いつつ『しかし、わたくしは文才を見込まれて恐れ多くもここの女房にしていただいたのですもの。中宮様が書物を読まれる際に側に控えてお相手をするのは当然のことなのでは?』などと言い訳がましく考えてしまう自分も確かにいるのです。

「わたしね、この歌がよくわからないの。詠み人はどんな気持ちだったのかしら」

「そうでございますね――」



✿ ❀ ✿ ❀ ✿ ❀



 楽しかった、です。

 中宮様の御前を辞して自身のつぼねに帰りながら、先程までのことを思い返します。

 素敵な巻物で和歌を鑑賞して、解釈について語って。大好きな書物を前に緊張などいづこへ捨て去り、普通に楽しんでしまっていました。わたくしとしたことが、ついつい夢中になって。中宮様に、粗相などし申し上げていないでしょうか。今更ながら、心配になってしまいます。

 それでも、わたくしの解説に目を輝かせる中宮様の御姿を思い浮かべると、胸の奥が温かくなって、自ずと笑みがこぼれてしまうのです。


 緊張していましたが、後宮での生活は、意外にも良いものかもしれません。



❀ ✿ ❀ ✿ ❀ ✿



 先日の和歌講義がお気に召したご様子で、中宮様は、頻繁にわたくしと二人の時間を持ちたがられるようになりました。

 すっかり緊張が解けたわたくしは、畏れ多いことと自覚しながらも、中宮様に頼りにされることを誇らしく感じて、勤めに励んでおりました。

しかし。



 ある日。中宮様の御前を辞して局に戻っている最中のことです。


 小さな違和感に、つと足を止めます。中宮様との時間の楽しさに浮つい気持ちは、即座に吹き飛びました。

 辺りが、変に静かなのです。その代わり、近くの局全てから、あまり好意的とは言えない視線と、潜めた息遣いを感じます。

 ざざっと、血の気が引きました。

 怖い。反射的に、そう思います。

 わたくしは貴族の娘。今まで屋敷の奥でひっそりと生きてきた身。悪意の視線どころか、馴染みの者以外の視線にさらされたことすらほぼ皆無です。

 ただ、見つめられる。それだけで、今にも射殺されるのではという心地になるなんて。

 これが、後宮――――!


 やっと、自覚しました。ここが、我が国で最も豪奢で華やかながら、同時にその陰で様々な陰謀が渦巻く残酷な場所であるということを。

 わたくしは、本当に、この場所でやっていけるのでしょうか…………?

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