第14話 境界線を超える


「──で? 槙くん、何の用で、電話かけてきたの、俺に」

『……用っていうか』

 年下の槙は口ごもった。


 用なんて、むろん、あるわけがない。

 「つまみ食い」っていうか、「味見」っていうか。

 特に空腹だったわけでもないのに、皿の上に、美味しそうなお菓子があったので、ちょっと食べてみた。──そんなふうに始まった、あの行為。


 そんなできごとのあとに、「用」なんか、生じるわけがない。


『蓮見さん、あのあと、うちに来なかったでしょう』

 だが、槙の言葉は、意外な方向から飛んできた。


「うん? どういう意味?」

『あの日の一週間後に、兄に会いに、蓮見さんが家に来ると思ってたんです、俺。……だから、ずっと待ってたのに』


 かなり強めの語気で続けられて、ようやくおぼろげな記憶がよみがえった。


 ──あの晩夏の日。

 紘彦に招かれて彼の家に行ったのだが、自分がまるっと一週間ぶんの日づけを間違えていたせいで、彼に会えなかった。

 そしてそのかわりに、偶然一緒になった弟のほうと、あんなことになった。


 あの日、優一がふともらした「一週間後に、家で会う約束をしていた」という言葉を、槙のほうはしっかりと記憶していて、だから「ずっと待ってたのに」という言葉が出てきたらしい。


『蓮見さんが、家に来るんだと思ってたら、来ないし。……兄貴と、どこか別の場所で会ったりするのかな、と思ってたら、そうでもないみたいだし』

 思いつめた声。おさえこんでいるのが激しい感情だから、逆に、声が押し殺されている。


「ふうん? 紘彦って、誰かと外で会うとか、いちいち家で話したりするんだ?」

『いえ、しないですけど……でも』

 槙はそこで、何かを言いあぐねたように言葉を切ったが、そのあと、強い口調で続けた。


『俺は、あなたに会いたかったんです。……だから、ずっと待ってたし、兄貴があなたに会うのかどうかも、ずっと、様子をうかがってた』

 それまで「蓮見さん」と呼んでいた槙は、そこで、ぽん、と境界線を乗り越えてこっちに来た。

 

 十七歳の彼は、優一を「あなた」という二人称で呼んだのだ。


 あの驟雨の午後のように。

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