第5話 テラゾラス
ナッツが叩いた場所の床が、濁った深緑色に変色する。
その変色した部分が、水面に映る魚影のように、スルスルとジェーマインに近寄っていった。
この変色した影に触れれば、即効性の猛毒に侵される。
魔王ともなると、毒防御・無効化ていどの防御魔法は、常時発動しているはずだが、ジェーマインは足元に迫った毒の床から、ふわりと飛びのいた。
いくら無効化できると言っても、触れないで済むなら、おぞましいものには触れたくないと言うのが心理である。
その隙に、壁際まで転がったナッツは、なんとか立ち上がった。
ナッツは、手をついた壁に、幾つもの杖が掛けられていることに気付いた。
ただの杖であるはずがない。間違いなく、魔法の力が宿る杖である。
使えるか!?
ナッツは女神像が彫られた杖に手を当てた。
その瞬間、ゾワリと悪寒が走った。
驚いて手を引っ込め、掌に『紋様』を組み直してから、再び触れる。
強烈な悪寒は防げない。
女神の杖だけではなく、鬼面の杖、ねじれた杖、双竜の杖、宝玉の杖……、どれも触れるだけで、脱力し、精神が蝕まれそうになる。
呪われているのだ。強引に使えば、麻痺、混乱、行動停止など、とんでもないことになるはずであった。
「まあ、当然だよな」
ナッツは呪いの杖が掛けられた壁から離れる。
ジェーマインが、執拗に追いかけてくる毒の床を焼き払ったところであった。
「お前の攻撃は、つまらぬな」
ナッツに視線を向けたジェーマインは、指先で呪印を結び、魔法の発動ワードを口にした。
「螺角」
「がッ!」
凄まじい衝撃がナッツを正面から襲い、内臓を大きく捩じりながら背中に抜けた。
ハンクに防御力アップの魔法をかけてもらっていなければ、心臓も肺も胃も、ズタズタに捩じり潰されて、即死していたかも知れない。
しかし、それでも衝撃は強烈で、内臓を硫酸の炎で炙られるような激痛に、ナッツの意識は飛びそうになった。
待て待て、気絶はマズイ!
意識を保て!
ナッツは自身を叱責し、目を見開き、ジェーマインの立つ場所を確認した。
毒の床が焼失したため、転がっている三体の甲冑まで、あと一歩の位置に留まっている。
「レイジング・インパクト!」
ハンスが破邪の剣で衝撃波を放ち、ジェーマインは、その一歩を移動した。
それを見届けたナッツの背に、ブヨブヨとしたゼリー状のものが触れた。
そのままナッツは、そのゼリー状の物体に全身を包まれた。
ナッツの視界が水中に入ったように揺れる。
揺れる視界の中で、ジェーマインは、甲冑の前に立っていた。
「かりそめの眠りから覚めなさい。その人を捕らえるのです」
耳元で囁くような甘い声がし、ナッツはゾクリとした。
召喚士、リーザ・キストナーの声である。
リーザは、ナッツへ語りかけたのではない。
すでに召喚していた二体の付喪神へ命じたのだ。
付喪神は、古い道具などに依代にする精霊とも妖怪とも言われている。
依代にした道具に同化、または憑依して操る。
リーザは召喚した二体の付喪神を甲冑に憑依させていたのだ。
見えない糸で引っ張られたように立ち上がった二体の甲冑は、ジェーマインに抱きつき、その動きを止めようとした。
「傀儡か!」
ジェーマインが意識を向けると、それだけで甲冑は吹き飛んだ。
しかし、その間に、ハンクとエルシャが、左右からジェーマインに接近していた。
ハンクが斬撃を放つ。
ジェーマインが右手で受ける。
エルシャが逆方向から回り込む。
「この命を贄とし、魂を黒き爆炎とする」
術の効果範囲までジェーマインに近づき、自爆呪文の詠唱が終わった。
自爆魔法特有の、急激な魔素圧の上昇が皆無であったため、ジェーマインは、この瞬間まで自爆呪文の詠唱に気づいていなかった。
気づいた瞬間、さすがに顔を強張らせた。
「きょくだいばくはつ! てらぞらす!」
舌足らずで少し甲高い声が、自爆呪文の発動ワードを叫んだ。
……何も起こらない。
当然である。テラゾラスの呪文を唱えていたのは、エルシャが胸の谷間に隠していた、オウムルンだったのだ。
この卵型で寸詰まりの体型をした変な鳥は、教えられた言葉を発するだけの召喚獣である。これも前もってリーザが召喚し、エルシャに預けていたのだ。
なんの魔力も持っていないため、テラゾラスを唱えても何も起きない。
ジェーマインの顔が歪んだ。
騙された恥辱のためではない。転がっていた三体目の甲冑の下から、細い手が素早く伸びると、黒いレイピアで、ジェーマインの脇腹を貫いたのだ。
暗殺者、シモン・ヴァルゴの一刺しである。
魔王の部屋への突入後、姿を隠したリーザが、使えそうなモノに付喪神を憑依させる。
ナッツとハンクは、憑依させたモノを確認し、その場所に魔王を誘導する。
タイミングを合わせて、付喪神を解放。
さらに、エルシャが、偽のテラゾラスで魔王の意識を引ひきつける。
シモンは最初から隠密行動をし、最適なタイミングを計って魔王を刺す。
幾つものアドリブは入ったが、ここまでは、奇跡的にも、ナッツたちの事前の打ち合わせ通りに戦いは進んでいた。
シモンの持つ黒いレイピアには、魔法防御を無効化する呪紋処理がされているため、その切っ先は、魔王の体内に深く突き刺さっている。
そして、もちろん、事前の打ち合わせは、この先も練っていたのだ。
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