10

 ぼろぼろな公衆電話の受話器を耳に付け、ニケは電話の向こうのノリコさんに報告した。

『あらあらあら、じゃあ夕飯は食べてくるのね』

「はい、たぶん間に合わないと思うので。すみません」

『いいのよー。あなたたちはホノカと違って大人なんだし。危ない人に会ってもそのほうが“治安が良くなりそう”だし。なんて。あらやだあたくしったら。ほほほほほ』

 すでにギャングを撃退したことは伏せておいた。

 リンはドブ川のコンクリートの法面のりめんに座って、淀んだ水面で水切りを遊んでいる子どもたちを見ていた。薄いコンクリート片を投げて川の反対側まで届くかどうか競争をしている。他愛無たあいない遊び。子どもたちは一様に色のかすれた服と短パンに、すり減ったサンダルを履いている。

 子どもたちはニケとリンの姿を見つけるとどこかへ一目散に走り去ってしまった。

「リン、あまり川べりに近づくとモンスターに引きずり込まれるぞ」

「ははは、なにそれ。あたし、知ってるよ。そう言うのキョークンっていうんでしょ。子どもに危ないことをさせないために」

「教訓じゃない。事実さ。オーランドはもともと水路が張り巡らされていた。が、近代以降は蓋をされて下水として利用されている。その暗がりにヒトを喰らう都市生物がいるんだ」

「うん、おもしろい。SF小説?」

「川下に食い散らかされた密輸業者の死体が流れ着いて、一応、調査をするのが軍警察の仕事のひとつだからな」

 オーランドに配属されていたというベテラン隊員の、夜勤の暇つぶしの昔話だった。決まって最後には五本腕の軟体生物が登場する。しかしどこにも根拠はないうえに話の結末が聞くたびに変わっていた。

 川べりは淀みから漂う化学物質と腐敗臭の入り混じった臭気が漂っていた。リンは川を左側に見ながら小道を歩き始めた。右側には工場や倉庫が隙間なく並び、薄暗い作業室の中で工員たちが機械じみた動きで働いていた。

 工場の区画が終わるとフェンスのない線路を隔ててスラム街が広がっていた。すすけたレンガを積み上げただけの壁に、錆びたトタン板の屋根でかろうじてヒトが住む家だとわかった。夜と朝は冷たく乾燥しているオーランドでは寝起きをするにも苦労しそうだった。小屋とも見分けがつかないあばら家の群れが線路ギリギリまで増築されている。

「リン、そろそろ戻ろう」

 しかしリンの返事は気が抜けた声だった。

 足元は舗装されていない土のままであちこちが凸凹している。水たまりで道はぬかるみ、道端には拾っても金にならないゴミが積み上がっている。羽虫が飛び交い腐った卵に似た臭いも漂っている。

 そんな環境ではあるが小さな子どもたちが走り回り、老人たちが遠くからそれを見守っていた。子どもたちの笑い声も、当てもなく歩くリンの姿を見つけるとシンと静まり、家の柱の陰に隠れてしまった。

「あたし、もしかして嫌われてる?」

「部外者が突然来たんだ。警戒されても無理はないだろう」

 ニケはリンが両手で大切に持っている木綿の袋に目を向けた。あの銃砲店でもらった袋で店名やロゴなどは袋に書いていない。銃はまだ化粧箱の中にあり、銃弾にもしっかりと封がしてあった。武器のひとつでもポケットに忍ばせておきたい治安の悪さだったがたぶん、リンにとって市民は武器を向ける対象じゃないのだろう。

 幹線道路の高架に差し掛かり、リンの手を引いて左へ曲がった。大通りに近く、比較的小綺麗に整備された区画だった。人気ひとけのない商店街が細い道に沿って続いている。ニケは、古びているが最低限の清潔さに気を配っている喫茶店が目に入った。オープンテラスに籐細工の椅子とガラスのテーブルがあった。

「リン、歩き疲れたろう。そこの喫茶店で休まないか」

「あたしは、まだ。ねぇ、あっちのほうも見てみよ」

「ケーキも買ってやるから」

 リンの目が少しだけ光った。そのスキにニケはリンの腕を引っ張って喫茶店に入った。お茶とケーキを適当に注文するとテラス席を確保した。リンは平然な顔をしていたが椅子に深く座って一息つけたようだった。

「一通り、見てきただろう。もうスラムに近づくのはやめとけよ」

「どーしてよ!」

「リンだって、知らない人が基地の中を歩いていたら落ち着かないだろう。それと同じだ。あの銃砲店でやったように、軍人だって不法行為を見つけたら逮捕できるんだ。あるいは賄賂を求めるか。そういう軍人もいるからスラムの住人は警戒するんだ」

「でもあたし、普通の服を着てるよ」

 リンは耳の黄色の識別タグに無意識に触れた。

「違う、見た目じゃない。歩き方や姿勢とかそういうのが一般人じゃないから目立つんだ」

「うぁあたし、知らなかった」

 ウェイターが盆にお茶とケーキを載せてやってきたときだけリンはシュンと静かになったが、

「あたし、思うんだ。1桁区や2桁区みたいにさ。みんなにもっときれいな家を建ててあげて、安全な仕事をして、そうしたらみんな幸せになると思うんだよね」

 なんだ、そんな事を考えていたのか。

「それでねおっきな遊園地を立ててあげるんだ。子どもたちがずっと楽しく遊べるように。あたしはまだ遊園地がよくわかんないんだけどさ。でもホノカちゃんは遊園地がとっても楽しい場所だよーって教えてくれたの」

 ふぅん。ホノカが遊園地で遊ぶような種類のヒトには見えなかったが。

「なあ、リン。今日はとりあえず帰ろう。それでまた来週末に出かける。銃の試撃だ。近くの駐屯地に行って射撃場を借りる。ノリコさんの通ってる民間の射撃場でもいい。格闘射撃もできるらしいし。今日のその服だと、焦がしたらまずいからな」

「もう。ねぇ、あたしの話聞いてた?」

「聞いてるよ。とっても」

「じゃあさ。今日見てきた人たちをどうやったら助けられるの?」

 そんなの俺の知ったことじゃない。そう返してもぐちぐちと文句を言われてしまう。

「それがヒトの作ったシステムだ」

「ルール、じゃないの」

「世の中はかねという潤滑油で回っている。どこにでもべたべたとつきまとってくる。たくさん金を得るには、良い企業で働いたり官僚になったり、あるいは事業で一発当てるか。そのためにはたくさん勉強して努力しなくちゃならない。だがさらにそのためには金が必要だ」

 リンは聞こえてくる言葉を順々に整理しようと頭を巡らせていた。

「じゃあ最初のお金が無かったら詰むよね?」

「このスラムには元手となる金がない。教育も受けられないし居住権がなければ正規職に就くのも難しい。食費も住居費もかかる。この環境じゃ病気にもなるだろう。少ない元手で大きな利益を得るにはギャングに入り違法な仕事に手を染めざるを得ない。密輸、禁制品の製造、脅迫、誘拐、強盗。アングラな仕事は、違法だからこそ需要がある」

 軍警察のころの講習で犯罪心理学というものがあり、その時の授業項目をかいつまんで思い出してみた。当時はまだヒトの心理を理解できてなかったから「どうしてヒトは分け合えないのか」と教官に質問をしたことがあった。その答えは「嫌だろう。自分のものを他人に取られてしまうのは」だった。

「ヒトは独占欲が強いんだ。だから共有するという概念はそもそも存在しない。そして獲物は努力した結果なのだから、それをタダで横取りしようとするものを心底嫌っている。リンが感じた助けようがないという感覚はそれだ。金は一方方向にしか流れない。それがヒトのシステムだ。わかった?」

「じゃあ、今日見かけた子たちも。いずれ?」

「危険な作業に従事するかギャングやそのフロント企業で働いたり。真面目で犯罪歴がないなら軍にも入れるが。今の状況じゃどのみち危険なことに変わりはない」

 リンは───しょぼくれていた。ケーキを食べる手は止まりそうになかったが、いじけて顔をあげようとしない。

 嫌われたか。事実を言っただけだが。そういえば事実をあえて言わないというのもヒトと関わる上での処世術だと先輩から教わった。純粋なリンはことだからもっと話す内容は気を使わなければならない。

「ひとつ、手段があるとすれば学校だろうな。子どもも大人も無料で学べる学校だ。知識さえあれば人生を俯瞰ふかんして設計できるしあるいは他の街に住もうという選択肢だって生まれる。他の州ならオーランドほどゴミゴミしていないからな。その元手は、そうだな篤志家とくしかがいればいいんだが。おうの一声さえあれば変わりそうな気もするが。って、リン、聞いてるのか。真面目に教えてやってるのに」

 リンの視線はニケからやや左にそれた方向に向けられていた。そこには───みすぼらしい服装の10才くらいの女の子がじぃっとリンと見つめ合っていた。髪に枯れ葉と小枝が付いたままで、くりくりとした茶色がかった大きな目がうるんでいる。

「物売りか?」

 しかし女の子は首を横に振った。

「迷子?」

 すると女の子はじっと固まったがぎこちなく首を振った。

「きっと、お腹が空いてるんだよ。ね? ケーキ食べる?」

 いつもにましてリンはニコニコだった。

「ちょ、それは俺の……まあいいか」

 女の子は一言も言葉を発さないままもぐもぐとケーキを食べ始めた。

「もっと食事らしいもののほうがいいだろう。注文してくる。リン、荷物から目を離すなよ」

 ニケが店内に入るとウェイターが遠巻きにリンと女の子を見ていた。

「なにか、子どもが食べるようなものと、あとジュースを」

「子ども向け、ねぇ。トーストとハムとチーズ。あとは柑橘のジュースならある」

「それを頼む。迷惑はかけないさ」

 ニケは紙幣を取り出し、お釣りはチップ箱に入れてやった。これで店の者も文句をいうことはないだろう。席に戻ると、女の子は先に出されたジュースを勢いよく飲んでいた。

「その様子だと、全然食事を摂っていない感じだな」

「もう、ニケ! そんな怒った目付きはダメだよ。チエちゃんがびっくりしてるでしょ」

「怒ってないし、生まれた時からこの目のままなんだか」

「大丈夫だよ、チエちゃん。ニケはね。こんな顔してるけど実は優しいし悪い人を簡単にやっつけちゃういい人なんだよ」

 余計なお世話である。

「はじめまして。リンお姉さん、ニケ……お兄さん」

 かすれた声だった。ニケはこのタイプの子どもを軍警察の頃に見たことがある。一晩中泣き叫んでいた印象だった。ただの迷子ということもあるし誘拐され自力で逃げてきたというケースもあった。最初の配属地はオーランドより小さな街オーゼンゼだったとはいえ、中核都市だったから迷子、家出、誘拐の事件は日常茶飯事だった。

「うん、えらいえらい」リンはチエの頭をなでている。「チエちゃんはいくつ? どこから来たの?」

「9、さい。アパートから来たの」

「9歳! じゃああたしよりお姉さんだね。あたし、6歳だから」

「ふぇ?」

 ニケはリンに目配せして、それ以上言わないように促した。話がややこしくなるだけだ。

 アパートということは少なくともあばら家のスラムよりはマシな生活のようだ。

「どこのアパートだ?」

 ニケは柔らかな物腰で訊いてみたがチエは目線を合わせようとしない。

「うぅ、わかんないよ。こんな遠くに来たこと無いんだもん」

 チエは涙ぐみながらもウェイターが持ってきたトーストをもぐもぐと食べている。少なくとも丸1日は迷子のようだった。

「安心して、チエちゃん。あたしたちがうちまで送ってあげるからね」

「ほんと? リンお姉さんはいい人なの?」

「そだよ! いい人だよ。」

「ごちそうさま。じゃあいっしょにうちに連れて行ってくれる?」

「うん、行こ行こ!」

 リンは嬉しそうだった。パタパタと左右非対称アシメの赤い髪が揺れている。チエの手を引きながら店から一歩目を踏み出した。そしてまだ籐細工の椅子に座ったままのニケに振り返った。

「ねぇ、アパートってどこにあるの?」

「この近くだけでも数万人が住んでいるんだ。アパートなんていくつもある」

 ニケは冷めたお茶をさっさと飲んでしまうとリンとチエに追いついた。

「アパートについて、なにか情報は無いか? 番地とかアパートの名前とか」

「うぅぅ、わかんないよ。おうちはおうちでしょ。チエ、おうちと学校しか知らないよ」

「じゃあおうちの近くに何がある? 目印みたいな」

「うーん、キョジュートーがあるよ」

「なんだ、それ?」

「ニケお兄さん、知らないの? あれだよ。いつもはもっと大きく見えるの」

 チエが指差す先には天に伸びる3つの黒い影があった。外壁が真っ黒な巨塔だった。外見がそっくりな円筒形の建造物が3本揃って立っている。それぞれが空中回廊でつながっているがいくつかは崩落してしまっているようだった。

「巨大なビルだな。高さは10丈、12、1町? 巨大すぎてわからない。2桁区からだと死角になって見えなかった」

「キョジュートーはね、危ないから近づいちゃダメってママが言うの。えっとね、悪い人とかおばけもん出るんだよ」

「ほう、おばけね」

「そうだよ。だからチエ、キョジュートーに近づかないように歩いてたらいつの間にか知らないところまで来ちゃったの」

「とりあえず犯罪に巻き込まれなくてよかった。そういえば家と学校が近いと言っていたな。小学校の名前はわかるか?」

「うんとね、サンロクハチ学校だよ」

「サンロクハチ? 学校の名前は番号だけじゃないだろう。軍事基地じゃあるまいし。サムロク……もしかして岩山サムクロック第8小学校?」

「うんそうだよ。せんせーたちはそう言ってたと思うよ」

 言葉足らず舌足らずなチエからやっと情報が引き出せた。しかし岩山サムクロックは地名を意味するだろうがブレーメンの古い言葉と同じ発音だった。単なる偶然なのか。

 リンはチエと先を歩きながら何気ない会話を楽しんでいた。オーランドに初めて来て初めて食べた美味しいもの、とかホノカが大切にしているツノカバのグッズとかの話題だった。チエもツノカバが大好きでアニメを毎週欠かさずに見ているらしかった。

 リンがパタリと立ち止まった。細い路地が幹線道路の手前で途切れてしまっていた。道路との間には背の低いコンクリートブロックしかないが片側4車線もあり中央分離帯には格子状のフェンスがあった。交通量も多くチエを背負って通れるような場所じゃなかった。

 ニケは周囲を見渡したが、落書きだらけの地下道を見て顔をしかめた。

「あっちに通れなくはないが。チエ、リンの背中におぶさったまま目を閉じていられるか」

「うん、うん。大丈夫だよ」

 リンはチエをおぶり、ニケの先導に従った。

「この先に地下道がある。向こう側に渡るための。だが、リン、その間息を止めていられるか?」

「息を? 何で──って何この臭い」

「覚醒剤。しかも粗悪なやつだ。あまり息を深く吸うんじゃないぞ」

 照明の1つもない地下道は壁に沿って毛布に包まった人影が並んでいた。どれもじっと動こうとしない。ときおり何処かから気味の悪い声が地下道に響いた。右側半分は水の浅い水路だったが水路側の壁にまでやせ細った薬物中毒患者が群れていた。

「ほんとに、ここを?」

「中毒者はまともに周りを知覚できない。触らなければどうってことはないが、急に走ったりもしないように。驚いて襲ってくるかもしれない。チエも、なるべく息を止めるんだ」

 ひどい臭いだった。どこか甘ったるくそれでいて鼻や喉の粘液を犯す毒だった。ブレーメンの薬物への抗力はヒトのそれの数倍だったが、嗅覚が鋭い分頭がクラクラする。

 焦る心を落ち着かせて、3人は足早に地下道を歩き抜けた。警戒した割にはあっけなかった。出口で大きく吸った空気がおいしかった。

「なんなの、いったい?」

 リンは目頭を抑えて頭を振っている。そのたびに赤く染めた髪がふらふらと揺れている。

「3桁区じゃよくあることだ。オーランドに限らずどの都市にもこういう危ない地域はあるんだ」

「悪い、ことなんだよね? 警察はどうするの?」

 チエがいる手前、あまり大きな声では話せなかったが、

「売人ならともかく中毒患者ああいうのは捕まえてもすぐに乱用するし病院に入れても無一文の連中に治療費は払えない。自己責任、っていうヒトのルールだ」

「なにそれ。全然、優しくないんですけど」

「余裕が無いんだ、ヒトには。心が弱く薬物に溺れるヒトに手を差し伸べられない。善意というのは余裕のある者にだけある特質だから」

 事実を淡々と述べただけだったが──リンは難しい顔をしたままだった。彼女が抱いていたヒトへの理想や思いを壊してしまっただろうか。彼女にとってヒトやその社会は守るべき尊いものだ。彼女はそう教えられ戦ってきた。

 幹線道路を隔てたエリアは低所得層向けのアパート群だった。市のゴミ収集は一応あるようで積み上がったゴミや動かなくなった車の残骸などは無い。道路、街灯、アパートの壁面はかなり古く劣化していて形を保っているだけで驚きだった。

 チエが指さした黒い巨塔もだいぶ近づき、ヒトの姿も多くなってきた。ニケは街角のドリンク・バーで2人のためにソーダを買いつつ、店主に目的の学校の場所を聞いておいた。

「もうすぐチエの学校に着くみたいだ。そこからなら歩いていけるな?」

 リンの背中におぶさったまま、チエはソーダを元気に飲んでいる。

「リンおねーちゃん、力持ちなんだね」

「へへへ、すごいでしょ。毎日運動してるんだよ」

 このふたりはずいぶん仲が良くなったみたいだった。 

 キョジュートーを右手に見ながらぐるりと歩く。あまりに巨大な建物なため近くにあると目が錯覚してしまうが、遠景のキョジュートーは位置がなかなか変わらない。

「あれがチエの小学校だ。チエ、もううちが分かるな」

「うん」

 ぴょん、とチエはリンの背中から飛び出して歩道を迷うこと無くてくてくと歩いていく。リンはその後を付いて歩いた。

 路地を曲がった先で数人の大人が話し合っている──そのうちの1人の女性へチエが駆けていった。

「ママっ!」

 感度の再会だった。チエは泣きながら母親に抱きつき、母親もわなわなと震えていた。

「ああ、ありがとございます。昨日からずっと探していて」チエの母親はリンにしきりに感謝していた。「こんな親切な人に拾ってもらえて助かりました。あの、なにかお礼を。あまり高価な物は持っていませんが」

「いやいや。そんなのはいらないですよ。なんといってもあたしは正義の味方ですから!」

 他の大人たちも一様にリンを褒めている。ニケはあまり近づかずその光景を見ていた。掛け値なしで無償の善意は存在しない地域だ。リンの無垢な善意はここの住民には理解しがたいはずだった。

 正義の味方──リンの口から聞いた初めての言葉だ。強化兵の彼女にとっては義務だけが行動の原理だった。正義なんて独善的な個性は強化兵には備わっていない。ヒトらしい個性をオーランドで手に入れるということは、これからリンもどんどん変わっていくのか。

 ニケは空を見上げた。まだ日が落ちる時間ではないのに、キョジュートーの巨大な影が辺り一帯を夕闇に落としていた。薄暗闇の中で、古びたアパートの窓々から好奇心に満ちた目が光っているのが見えた。部外者は日が落ちるより前に帰ったほうが良さそうだった。

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