9

「ただいま戻りました」

 ニケはホノカの学校へ迎えに行ってきた。ホノカは疲れているらしく帰りの道のりはいつもに増して無口で今日は半分、寝ていた。

 なんてことない毎日だ。朝はホノカを学校へ送り届け、午後まで家事を手伝ったりノリコさんの話し相手や執筆業しっぴつぎょうの相談相手になったりする。時間になればホノカを学校へ迎えに行く。ヒトの料理方法も覚えたし買い物にいいスーパーマーケットもわかっている。

 野生司大尉とリンは軍の送迎バスで通勤しているが時間が合わないときがあればついでに迎えに行く。

もはや兵士というより運転手だった。

 ニケは玄関の戸棚の所定の革トレイに車の鍵を置いた。パルを確認すると、野生司大尉とリンからそれぞれメッセージが来ていた。どうやらもうすぐ帰ってくる時間らしい。

「お嬢様、うちに帰ったときは『ただいま』というのがルールでしょう」

 ホノカをたしなめるときはあえて敬語を使った。

「だーから、お嬢様はやめてってば。別にいーでしょ。ここわたしのうち……ただいま、ママ」

 ノリコさんがリビングから顔だけを出してニコリとしている。ノリコさんは一言も話さないがホノカには十分に圧を与えることができたらしい。

「わたし、着替えてくるから」

 ホノカは足を鳴らして自室へと向かった。

 リビングからはノリコさんが見ていたテレビの音が聞こえる。カラーテレビ有色放送があるあたりさすがオーランドの中流層だと思う。地方の基地ではモノクロ白黒放送だけだったりする。ブレーメンの里に至ってはみなモノクロ白黒のテレビを見ている。そもそもそういった機械類に興味がない世代が多いというのはいちばんの理由ではある。

『生体サンプル提供! 戦場で戦えないあなたも連邦コモンウェルスに貢献するチャンス! あなたの協力で強化兵が1人コピーできます。なお生体提供は1年に一回まで。献血手帳をお忘れなく』

連邦コモンウェルスに奉仕! 仕事がある? 家庭がある? 問題ありません。予備役制度では年に1週間、優秀な教官のもと訓練します。そして軍務省お墨付きの経歴を手に入れよう!』

 夕方のワイドショーのあいまに挟まっている公共広告放送が流れている。連邦コモンウェルス50億の人々の協力の上にテウヘルとの戦線が維持されている。アレンブルグの戦闘が始まって以降、この手の広告が増えている。

 ニュースでは戦況が一応、伝えられている。しかしラーヤタイ陥落でさえ1週間遅れのニュースだった。情報がどこまで正しいかわからないし、アレンブルグ防衛戦はひどい数の死者数だったがそこに強化兵は含まれていない。とはいえアレンブルグから300里以上離れたオーランドに危険が及ぶとは考えづらいせいか市民生活から戦争への危機感は肌感覚では感じ得ない。

 夕食用のスープを煮込みながらヘラでかき混ぜている時、再び玄関のドアが開いた。

「ただいま」

 野生司大尉とリンが帰ってきた。そしてニケの背後に足音を立ててリンが急接近した。

「こら、今は火を使っているんだから危ないだろう」

 ニケは後ろを振り返らずに言った。体重の軽い、しかし規則正しい足取りは兵士の癖だった。

「みてみて、みて!」

「今日はやけに嬉しそうだな」

 ちらり──リンは大切そうに茶封筒を持っている。

「お給金!」

 そういえばもう月末か。

「よかったな。仕事をがんばったからな」

「うんうんうん! いろいろ覚えたもん。電話もタイプライターもワープロだって使えるし、書類だって誰よりも速く届けられるんだよ。軍務省は悪い人もいるけどいい人だって多いんだよ!」

「がんばったんだな」

「そーだよ、がんばったんだよ」

 ニケは火を止め鍋に蓋をするとクルりと振り返った。そこにはまだリンがいてじっと何かを待っていた。じっとまっすぐな赤みがかった瞳にニケの姿が写っている。

 つと、ニケはリンの頭をぽんぽんと叩いてやった。色素の薄い髪がさらさらと流れて左右非対称アシメの赤い髪が揺れた。ホノカと同じシャンプーとトリートメントを使っているおかげで金属質に似た輝きがあった。しかし頭頂部のアホ毛はどうなでつけても倒れてくれない。

「えへへへ」

 満足したらしくリンはホノカと同じ自室に足早に向かった──こんなことがお気に入りなのだろうか。しかし現金で賃金が支払われるのは珍しい。さらにいえば強化兵は賃金は無いはずだが。

 入れ替わるようにして野生司大尉がやってきた。すでにラフな部屋着に着替えている。

「おつかれさまです、大尉」

「あはは。たしかに疲れたが家に帰ると途端に元気になるよ。これ、今月の給料だ。こっちに異動して初めてになるね」

 上司兼家主の野生司大尉はニケに茶封筒を渡した。こちらは現金ではなく振込を終えた代紙だいしだけだった。

「リンにも給与が支払われるのですか」

「あーまぁ、大きい声では言えんが、あれは給与ではなくワシの副官を務めるにあたって出る政務補助手当だ。それといくばくかワシの“小遣い”も加味している。リン君の働きには助けられているから当然の賃金だよ。お金の計算とか使い方とかは君からいろいろ教えてやってくれ」

「はい、わかりました。しかし自分の給与ですがやはり家賃や生活費はいくらか支払ったほうが。車の燃料代も大尉の財布から出ていますし」

「いやいや、あの狭い部屋ひとつだけで家賃は取れんよ。オーランドでの生活も慣れが必要だろう。買い揃えなければならないものもある。護衛ばかりのつまらない生活の代わりだと思って」

「自分は、他の部隊に異動しようとは思いませんが。もしかしてここに留めるために良くしてくれているんでしょうか」

 野生司大尉の返答までやや間があった。

「あはは、さすが聡明なブレーメンの洞察力だ。手厳しい。君には嘘はつけんな。あははは」

 たしかに野生司大尉は嘘をついていない。本意が2つも3つもあるせいで真意が見抜けない。結局また誤魔化ごまかされたままになってしまった。

 野生司大尉が冷蔵庫から缶ビールを1つ取り出し、テレビを点けチャンネルのダイアルをまわしソファにどかりと座った。するとリンとホノカが連れ立って現れた。ホノカはじぃっとニケが手に持っている紙を見ている。

 わかっている──内弁慶のホノカ。日常的な会話ができるというほど親密になれていない。しかし感情が顔に現れやすい。たぶん父親譲りの素質だろう。

「これ、見たいのか? 給料が支払われたって紙だ」

 ホノカはニケににじり寄るとまじまじと給与の代紙をのぞきこんだ。

「うっわ。すごい金額。こんなにたくさんもらえるの?」

「まあ、多くは無いし少なくもないが。ホノカのお父さんの方がはるかにたくさんもらっているよ」

 ふたりして野生司大尉を見たが、「払うのも多いんだよ―」と缶ビールを片手に返事があった。

「みんなちゃんと仕事しているのね」

「ホノカだってあと何年かしたら仕事をするだろう? そうなったら軍人の下っ端な俺よりもずっと良い給料がもらえるさ」

「わかんないよ。仕事なんて」

「お金は欲しいだろ。ヒトはたいていそうだ。というかいずれそうなる」

「うん、たぶん」

 ホノカはその背後に立つノリコさんの威圧を感じてびくりと体を震わせた。

「あなたがお金のことを心配しなくていいのよ、ホノカ。宿題はもうしたの? 塾の課題は?」

「もう、ママ、ぜんぶやったってば」

 ホノカは不機嫌そうに丁寧に編み上げたサイドテールの髪を振り回して野生司大尉の隣へ歩き去った。

「すみません、自分がこれを見せたので」

「あらあらあら、あなたのせいじゃないのよ。それよりも明日はどこかにでかけたら? こっちに来てからずっとうちにいたでしょ。リンちゃんも休みなんだし、ふたりでどこかに行ってきたら? いいわよね、マサシあなた? ビールは飲んでいいけれど自分で洗って干しておいて。来週は資源ごみの回収日なんだから」

 野生司大尉はソファの上でだらりとした姿勢をぴしゃりと正して応えた。

「しかし自分は警護が任務ですし。リンとそろって外出するのも……」

「あらあら、あたくしたちだって自分の身は自分で守れるんですよ」

「そのとおり」空き缶を洗いにキッチンへ来た野生司大尉も同調した。「もっとも、悪者を撃つのはワシよりノリコのほうが上手いかもしれないが」

「ええそうね。マサシあなたを盾に悪者をやっつけてあげるわ」

 冗談ともつかない夫婦の会話だった。

 ニケは夕食の皿の用意を手伝っているリンに訊いてみた。

「どこか行きたいところはあるか?」

「うーん、ニケと一緒なのは楽しいけど。でもよくわかんないな。休みの日って体を休めるものでしょ、ふつう」

 世を知らない強化兵らしい返事だった。

「ホノカと同じことをしたらいい。あれが普通・・の暮らしだ」

「でもホノカちゃん、休みの日もジュク? へ行ってお勉強してるよ。あとお部屋で漫画を読んでる。すっごいよ。なぜか男の人がみんな服を着てな……」

「あわわわわわわわわわわわ! ソレ以上言わないで!」

 ニケとリンの間にホノカが飛び込んだ。

「ホノカも外出したいのか?」

「う、いや、わたしは、いい。塾も宿題もあるし。あとリンちゃん、わたしはそーゆーのは読んでないから」

「えー嘘だはダメだよ、ホノカちゃん」

「う、嘘というか、言っちゃだめなの。そーゆーのは言っちゃだめ」

 リンはぽかんと考えていたが、ややしばらくして合点がてんがいったらしい。

 ニケは休日の過ごし方について考えを巡らせてみたが具体的には思い浮かばなかった。軍警察の先輩は勤務がない日はたいてい宿舎の門限ギリギリまで飲み歩いていた。ニケを見つけては無理やり連れ回したり、宿舎までわざわざ電話をかけて呼び出したりした。そして酔うと喧嘩っ早い先輩の代わりにチンピラと立ち回り、げーげー吐いている先輩に水を買ってきてやっていた。

 ニケはそういう休日の過ごし方しか知らなかった。さすがにリンを連れて酒場に行くわけにもいかず。

「ホノカは勉強や塾がなかったらどこ行きたい?」

「普通にモールに友達と行くけど」

「モールに行ってから?」

「普通にぶらぶらしたり、ショッピングしたり、本屋に入ったり。そんな感じ。普通でしょ」

 普通──なかなかに重い言葉だった。しかしそばで話を聞いていたリンはすでに興味津々だった。

 翌朝。

 朝のルーティーンは普段どおりだった。ニケが起きた頃にはすでにリンは走りに出ていた。野生司大尉と娘のホノカはそろって朝寝坊。ニケはリンが帰ってきてからノリコさんと簡単な朝食を摂った。リンはショッピングモールについてのあれこれをノリコさんに訊いていたが、

「あら、リンちゃん。そういえばその服じゃあ、お買い物はできないわねぇ」

 リンの服装は軍用のカーキ色の作業服兼戦闘服に黒のタンクトップだけだった。たしかにこの姿で民間施設に入ったら浮いてしまうだろう。

 ノリコさんはリンを連れてホノカの部屋へ入った。そしてしばらくしてから眠気眼ねむけまなこのホノカといっしょにリビングルームに戻ってきた。

 リンは紺色のワンピースに毛糸のマフラーを巻いている。さらにニット帽をかぶりハンドバッグを抱えている。どこかで見たことのある装いだったが、いつの日かホノカが休みの日に着ていた服だった。キョトンとしているリン本人以上にノリコさんが乗り気だった。

「やっぱりかわいいわね。無駄な贅肉が無くてしゅっとしているから何を着たって似合うわ。身長はホノカかちゃんよりもすこーし高いからサイズが合うかどうか心配だったけど。これなら靴も大丈夫そうね。どう、リンちゃん? きごこちは?」

「うーん。なんだか足がスースーします。パンツが見えちゃいそう。あと、なんだか胸のあたりが窮屈」

 すると親子が顔を見合わせた。

「あらあら、ホノカちゃんはダイエットだ―なんて言ってちゃんと食べないから」

「ママに似ただけだもん」

 お互いに頑固なところはやはり親子だと思わせた。その隣でリンは窮屈そうに服の裾を撫でている。

「たぶん、筋肉だろうなぁ」

 ニケが遠くから眺めながら言った。そうしてやっと親子の議論が収まった。

 強化兵として一般人と同じ体格でも強靭な筋肉や骨がある。ライフルを担いで走り回れるのだから、さらに余計に筋肉もついている。

 ニケとリンが外出するときまで野生司大尉は起きてこなかった。家の近くでバスに乗り、駅で別のバスに乗り継いでさらに30分をかけてショッピングモールに着いた。

 建物の全景は一目見ただけでは捉えられないほど大きかった。巨大な看板とアドバルーンが青空に浮かび、出入り口は絶え間なく左側歩行で人が流れている。駐車場はほぼ満車で、出口まで列ができていた。ノリコさんが車ではなくバスを勧めてくれたのはこのあたりが理由らしかった。

 ショッピングモールの内部は巨大な谷を思わせた。上下2階に分かれたフロアが緩いを描いてどこまでも続いている。カップルや子供の手を引く家族連ればかりだった。

「うっわー広い! 広いよ! ねぇ、ニケ、見てみて、魚が泳いでるよ。食べられるのかな。おいしいのかな」

「それは観賞用だ。鱗やヒレに色がついているだろう?」

 透明な円形水槽の前でリンがしゃがんでまじまじと小魚を観察している。ニケもその後ろに立って暖かく見守った。

 心がうわつかないと言ったら嘘になる。非日常の空間に来たら目に飛び込んでくるさまざまな色や形に惑わされ目移りし、心地よい疲れに浸ることができる。ヒトはその短い人生を充実させる様々な方法を知っている。

 リンは子どもたちに混じって魚を見ていたが、その子どもたちが3回入れ替わる間、飽きずに見ていた。ヒトの心を純粋培養したら彼女のような純真さになるのだろう。

「服は、まず好きな種類やデザインを見つける。そして自分似合いそうなサイズを選んで試着する。腕を振ったりしゃがんだりして動きやすいかとかを確認する。そして買う」

 ニケはリンと横に並んで服の小売店が並んでいるエリアを歩きながら教えてやった。リンはずっと辺りをきょろきょろと見ていたが聞き耳は立ててくれているようだった。

「服のお店、こんなにたくさん。どれも同じじゃないの?」

「男性用、女性用、子供用、カジュアルな服、礼服、スポーツ用品、あとは小物類とか」

「どうしてそんなにたくさん着飾るのかな」

「どうして、って言われてもなぁ」

 たぶんすぐに答えられる人はいないだろう。ブレーメンはヒトほど多彩な服を着ない。似た形の羽織で手作りな分、縫い目や家紋の刺繍が異なるぐらいだ。しかし大人たちは体に掘った入れ墨で個性や戦歴を誇示し、人それぞれまったく別の文様だった。

「リンはどんな服がいい?」

「うーん。わかんない。どれでもいいと思うけど。あそこのお店はどう?」

「あそこはもっと小さい子ども用の服だ。6才くらいの」

「あたし、6才だけど」

「見た目が大切なんだ。見た目が」

 ニケは、リンが服を買う店を決めあぐねている間に、ささっと自分用の服を買い足した。パーカーとカーゴパンツを2着ずつ。軍装と同じ機能性重視だがカーキ色の軍用パンツより街中に馴染む色合いだった。ホノカやノリコさんを警護するならこちらのほうが隣にいて目立ちすぎないでいい。

 結局、全ての服屋を見て回った上で、ホノカと同じ世代の少女たちのいる店に入った。そして暇そうなの店員をひとり捕まえてリンの服を適当に選んでもらった。

「じゃーん!」

 リンは試着室のカーテンを勢いよく開き、腰に手を当ててポーズを取った。

「いま流行りの服ですよ」店員は営業スマイルを浮かべた。「とてもお元気な性格で溌剌はつらつとしたイメージから、ホットパンツにカラフルなTシャツ、ハイカットのスニーカーを合わせてみました。彼氏さん、いかがですか?」

「俺が? いや彼氏じゃない。同僚か? 一応」

「すみません、つい、お似合いだったので。へへへ」店員はまんざらでもないようで、「なにかスポーツをなさっているんですか? すごく引き締まっていますね。にこりとした笑顔もかわいいですし、きっとあっちの服も合うと思いますよ。選んできますね」

 財布の紐が緩いと思われたのだろうか、さらに店員は2種類の組み合わせをリンに着せた。デニムのズボンや色が鮮やかなノースリーブ、あるいは少し大人びたセーターなどだった。

 しかしニケは、リンがずっとニットの帽子を外さないことに気がついた。どの服装でも必ず深く被っている。髪の下でちらりと見え隠れするのは黄色い強化兵の識別タグだった。

 結局、リンが選んだのは最初に着ていたホットパンツとTシャツ、スニーカーだった。レジで意気揚々と初任給を全てそれに使った。わずかに足りなかったのでその部分はニケが代わりに払ってあげた。

「これが楽しーっていう休日の過ごし方なのかな」

 リンはニケに買ってもらったアイスクリームをベンチに座って食べながらぽつんとつぶやいた。そして楽しそうに歩く同じ年頃の少女たちを目で追っていた。リンの隣でニケは服屋のロゴが入った紙袋を代わりに抱えてあげていた。

「買い物が楽しくなかったか?」

「ううん、そーじゃなくて。楽しかったんだけどね」

 リンはニット帽の上から強化兵の識別タグに触れた。

「あたしね、がんばって働いたお金で服を買って、なんだかよくわからない気持ち、ってのがあるの。これが楽しいっていう気持ちなのかな。普通の気持ちなのかな」

「初めての事だらけだから戸惑うことも無理ないけど。もう一度また来たい、って思えるなら楽しかったんじゃないか」

「うん、また来たい。たぶん」

「たぶん、か」

 圧縮知育を受けた実年齢6才とはいえ、一般人に混ざった一般の暮らしという普通は強化兵にとっては酷な現実だった。戦うために生まれ戦うための役割を与えられ戦うために生きてきた。そこには常に命令があり行動があり目標があった。徒然つれずれな楽しさ、という概念は彼女の中に無かったはずだった。

「ニケといっしょなら、たぶん。また来たい」

「1人じゃ不安なのか」

「へへへへ、たぶん」

 リンはサクサクっとアイスクリームのコーンを食べ終えた。

「ほかにどこか行きたいところとか買いたいものとかあるか?」

「さっきのでお金がなくなっちゃった」

「遠慮なく言えよ。さっき銀行で多めに下ろしておいたから」

 するとリンは、買い物袋で両手がふさがったニケの腹部をペタペタと撫で始めた。他の通行人の視線が痛い。

「あの拳銃、もってないの?」

「ああ。家の金庫に入れてきた。携帯許可証と軍人証があれば警察も文句は言わないだろうが……民間施設に持って入るわけにもいかないだろう。警備員もいるし、ここでは必要ない」

 それに悪漢に襲われたとしても軟弱なヒト相手なら素手でもなんとかなる。

「あれって特別な拳銃なんでしょ」

「どこにでもある骨董品の拳銃だ。特別といえば特別だけれど」

 6年前 ブレーメンの里を去る時の幼なじみの横顔が思い出された。彼女が渡してくれた骨董品の拳銃。「絶対に探しに行くから」そういえば彼女はそんなことを言っていた。

「あたしもほしいなぁ、拳銃」

「どうして?」

「なんだか、かっこいいじゃん。それに軍務省で副官をしてる兵士はみんな腰に拳銃サイドアームを持ってんだよう。あたしも大尉の副官だからほしいなぁ、って。どこにあるのかな。銃砲屋さん」

 リンは歯を見せて笑った。やっと垣間見せた本音だった。

「銃か。いつか買いたいって言うとは思っていたけど、ここにはない。もっと旧市街の方か3桁区の郊外にいけば手頃な店があると思う」

 正式な銃の所持は、たくさんの書類を警察署に届けて許可を得る。それができないたぐいの人々はたくさんの賄賂を渡して密売ルートを頼るしか無い。どのみち近所の街角にある、という店ではなかった。野生司大尉が引っ越しのときに用意してくれた銃の許可証があるので拳銃くらいなら買えるはずだ。

 ニケは官品の腕時計で時間を確認した。3桁区まで行って帰る時間はまだある。2人はショッピングモールを出て最寄りの地下鉄駅へ向かった。

 同心円状のオーランドの外へ向かうルートはこの地下鉄に頼るしか無かった。ニケは切符の買い方をリンに教えながらホームで地下鉄が来るのを待った。他の乗客は2桁区と3桁区を行き来するみすぼらしい身なりの労働者ばかりだった。昼間から酒気を帯び、アルコールか薬物かで足取りが定かではない者もいる。

 地下鉄の中でさすがのリンもトンネルばかりの風景を眺めることはなかった。疲れから寝てしまっている労働者を興味深そうに見たあとでニケに視線を移した。そもそも地下鉄は郊外と2桁区を移動する大量の労働者を移送するために作られた。ラッシュアワーともなれば座ることさえできない。

 列車は途中の駅で停車して新たな乗客を拾いながら、1時間ほどで3桁区の地下鉄駅に到着した。あてもなくここまで着たが、駅員に尋ねたら幸いにも近所に銃砲店があるらしかった。

「うわぁ、なんだか。ぼろぼろ」

 地下鉄の駅の階段を駆け登ったあと、リンの素直な感想だった。背の低い建物たちの壁は飾り材が剥がれ落ちて煤けたレンガがむき出しになっている。公衆電話は怪しげな金融会社の張り紙や落書きだらけで話している間は背後に気をつけなければ誰かに襲われそうだった。狭い道路を過積載気味のディーゼルトラックが煤塵ばいじんを吹き出して走っている。

「こっちだろう」

 ニケは電柱に記された番地と、駅員に教えてもらった通りの番号を比べならが歩いた。今日は天気は晴れだったが近くの工場の煙突から出た黒い煙が頭上を覆っていた。

「本当に、ここ、オーランドなの?」

「3桁区の大半は工場と軍の駐屯地と、あとはスラムだ。オーランドの居住許可証は普通もらえない。市民権がないからこうした管理外の郊外に住むしかないんだ。正規の住人は5000万人らしいけど実際の人数はそれ以上だろうな」

「でもそれって悪いことだよね。ルールを守らなきゃいけないって」

「そうでもしないと仕事にありつけないんだろう。俺は詳しくは知らない。でも何気なく暮らしている野生司のうす一家はオーランドでも恵まれたほうだ」

 違法に居住し違法な条件で働き、そして違法な仕事に手を染めてしまう。軍警察の先輩から教えてもらったヒトの社会の実情だった。「どう思う? ブレーメンのお前から見て」そう訊かれたがわからないと答えた。当時はあるがままを受け入れざるを得なかった。批評する暇なんて無かった。

 2人は通りから一歩路地へ入った。番地はここであっているが看板などは出ていなかった。代わりにそれらしき店──ショーウィンドウに古風な上下二連式の猟銃が飾ってある店があった。入り口は半地下で店内には薄暗い電灯がひとつだけ灯っている。

 重い木のドアを押して入ると頭上で鈴が鳴った。店内のショーケースには民生品の弾丸や散弾銃が並んでいるが賑わっている店、というふうではなかった。

「いらっしゃい。なにかご用かね」

 店の奥の工房から初老の老人が現れた。かぎ鼻に小さな老眼鏡を掛けている。職人らしい革のエプロンを脱いで店のカウンターに置き、油の染みた手を布巾ウエスで拭いている。

 店主の目は胡乱うろんだった。3桁区に似つかわしくない小綺麗な服装の若い男女が買い物袋を抱えているのだから無理はなかった。

「あの、すみません!」リンは遠慮なく透き通った声質で言った。「銃のお店ですか。もしかして八五式とかあるんですか」

 とたんに店主の眉間にシワが寄った

「んなもの、あるわけないがね。軍用ライフルが欲しいならギャングでも当たってくれや。金さえ積めば何でも買えるだろうて」

 すかさず2人の間にニケが割って入った。

「彼女が使う拳銃を見せてほしい。35口径で予算は4万。許可証なら持っている」

 ニケは軍人証を見せたが店主は鼻で笑った。

「んなもん、ここいらじゃ意味ないさね。偽造証なんてだれでも買える。必要なのは金だけだ」

「非正規品は困る。シリアル番号付きの正規品が欲しい」

「ふん、まじめだねえ、兄ちゃん……その目。あんたブレーメンか。ほぉん、珍しいこともあるもんだ。まあいいさ。ちょいと待ってな」

 店主は鍵をジャラジャラと鳴らして店のショーケースを開けて化粧箱に入った新品の拳銃をいくつか持ち出した。

「その予算ならこの3つさね。どれも新品で正規品。おっとお嬢ちゃん、油が付いてるから、布巾ウエスを使いな」

 店のカウンター3つの回転式拳銃リボルバーが並べられた。どれも銃身が短く肉厚だった。リンは見比べながら持ち替えて真面目に考えている。

「で、兄さんは買わんのかい」

「俺は自分のを持ってる」

「ほうん。軍人なら拳銃なんて支給されるんじゃないのか?」

「それは指揮官だけ。俺のはアモイ九八。シリアル番号は忘れたがかなり古いモデルだ」

「カカカ、なかなか渋い趣味だねぇ」

「モノは古いが軍の弾丸を私費で買うことができる。威力も十分だし困ってはいない」

「預けてくれたら3日とかからず整備できる。社外品サードパーティー製の予備部品も発注から1週間で届ける」

「覚えておくよ」

「あんたらは軍人かい?」店主が興味本位でニケに訪ねた。「デートで銃を買いに来た」

「彼女は同僚だ。俺たちは第2師団で今はオーランドで働いてる」

「なーんでまた拳銃なんて」

 店主の胡乱な目が、リンの被っているニット帽の下の黄色い識別タグを捉えた。

「さあ。新たな自我の芽生え、ってやつじゃないのか。拳銃なんてテウヘルには通用しないから本来は必要のないもの。持たないよりマシというだけだ」

「ま、ここオーランドじゃ敵は犬っころじゃなくてヒトだろうしな。ケケケケ」

 店主は下品に笑っている。

「ヒトなら銃なんて使わなくてもなんとかなる」ニケが真顔で答えるとさすがの店主も黙った。「おっさんはブレーメンを知っているのか? 一般人はブレーメンに興味がないと思っていた」

「まあ、知ってるというか知らされているというか。ともかく緑の目ぇしたのがブレーメンだってのは知っている」

「若草色だ」

 緑の目、はテウヘルの緑の鮮血を連想しそうになるので嫌だった。

 その時、店の扉が乱雑に開け放たれてガラの悪い2人の若い男が入店した。大股で店主に詰め寄る。

「ちょっと、あたしが今選んでるんだから。ルールを守ってよ」

 しかし男たちはリンの抗議を意に返さず店主にがんをつけた。

「おやじぃ、今月分の支払いがまだだぜぇ」

「馬鹿野郎、もう払っただろうが」

「利子だよ利子。まだ利子が足りねぇじゃねぇか」

 頭の悪そうな男が言った。この分だと利子が何たるかも理解してなさそうだった。

「失礼ながら」ニケが助け舟に入った。「借金なら払うべきだろう」

「そうじゃない。こいつらはギャングだ。事あるごとに金を巻き上げようとする。さもないと店を破壊されてしまう」

「おお? 聞き捨てならねぇな。誰がギャングだって? 俺たぁちはみすぼらしいジジィに金を貸してやってるユーリョー企業じゃねの」

 しかし取り立て屋の眼前にニケが立ちふさがった。

「自分は軍警察にいたので法律も一通り暗記しました読みました。借金について申し立てがある場合は民事裁判所へ。さもないと私刑は脅迫罪が成立します」

「なっんだと、ガキぃが!」

 だめだ。話の聞けないヒトのパターンだ。致命的に頭が悪い。

「自分たちは軍人ですが、現行犯なら逮捕権もあります。違法行為はそのくらいにしてください」

 軍警察にいた頃に習った前口上まえこうじょうだった。大抵の市民ならここまで言えば違法行為も諦めるのだが、男の顔は真っ赤に血が登っていた。そしてポケットに突っ込んだ手が慣れたようにジャックナイフを握っていた。その刃先をまっすぐニケに突き出した。

 しかしニケは予備動作なしに左手で男のナイフを握っている手を受け止めた。その手を握りしめるとジャックナイフはぽとりと床に落ちた。男は手の甲が押しつぶされて苦痛に顔を歪めている。ここにヒトの神経が集約していることは知っている。

「障害未遂、でしょうか。普通のヒト相手だったなら」

 こざかしい。こんな稚拙な攻撃が通用するわけがない。もしこんな無礼を普通のブレーメンに働いていたら、すでに男の片腕は剣を使うまでもなく引きちぎられていただろうに。

 背後で──男の仲間は尻ポケットから拳銃を取り出そうとしていたが、その安全装置を解除する以前にリンの手刀を喉元に食らって床でもだえていた。

 ギャングの取り立て屋は一目散に逃げ去った。床に落ちていた銃とナイフを店主に預けた。

「余計なお世話だったか」

「いやぁ、とんでもねぇ。助かったさね。最近、新興のギャングが暴れまくっているせいで場末のギャングたちも上納金のためにあちこち金を取り立ててやがる。だがまあ取り立てに失敗してギャングのメンツを潰したからにはあの2人は歯か指を……まあいい。あんたらには関係ないことさね。でお嬢ちゃんも強いんだね」

 リンはニコリと笑っている。格闘術なら胸か気管を狙うが強化兵が本気で一般人の胸を叩いていたら死んでいたに違いない。彼女なりの気遣いだった。

「さ、気を取り直して商売に戻ろう。好きなものを選んでくれ」

 リンは鈍い光を反射する回転式拳銃リボルバーを選んだ。グリップは硬いゴム製で指の力をかけやすいように指の形に湾曲している。

「これください!」

「そいつぁ、シングルアクションで引き金が硬いが、お嬢ちゃんなら扱えるだろう。持っていきな。ギャングから救ってくれたんだ」

 しかしニケは相応の金額の紙幣をカウンターに置いた。

「物には金を払う。これがヒトのルールだろう」

「ああ、まあ、そうだな。じゃあ、別のサービスだ。35口径用のスピードローダーをおまけにつけよう。アルミニウム削り出しで剛性も高い。あと試し撃ちに使う鉄製銃弾鉄チンとメンテナンスキットも。そうそうマフィアの幹部の依頼で調合した強装弾もおまけしよう」

 店主の言う“おまけ”がカウンターの上に積み上がっていく。それらを麻の袋に入れて渡してくれた。

「おじさん、いい人だね。あたしリンっていうんだ! こっちはニケ」

 リンは手を出して店主と握手した。

「俺ぁ別に名乗るほどのものじゃねぇが。鉄砲屋のジジィでいいさね」

 鉄砲屋のジジィは照れくさそうに握手を返した。

 店を出たリンの足取りは今日一番に軽かった。

「さ、帰るぞ。思ったよりいっぱい買ったな」

 ニケはモールの紙袋を両手に抱え、リンは麻袋を肩に掛けた。

「ねぇ、ニケ。あっちには何があるのかな」

 リンの指差す先はオーランドの外周だった。バラックが異臭のするドブ川に沿って並んでいる。

「スラム。警察もあまりこっちへは来ない。存在するが誰しもが存在を忘れている地域だ」

「あたし、見てみたい。ね、いいでしょ」

 ニケは唸った。昼の時間帯だとオーランド中央へ向かう地下鉄の本数はあまりない。

「少し見て回るだけだぞ」

「へへへ。ありがと。あたしね、兵士じゃん、強化兵じゃん。でも誰のために戦ってるのかぼんやりとしかわかんないんだ。だからさ、オーランドの人たちをもっともっと見たいの」

 リンを先頭に地下鉄駅と反対方向へ歩みを進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る