8

車は10間ほどの距離を進んだ後、再び停車した。朝はこの先の交差点がボトルネックになっていて慢性的な渋滞を引き起こしていた。

 左を確認──気だるそうなオヤジが運転するピックアップトラック。右を確認──右折待ちの乗用車で中で化粧をしている妙齢の婦人が運転している。交差点には警官が立ち、交通違反や事故が無いように見張っている。警ら・・の警官は銃を持っていないが事件が起きれば軍警察がすぐにやってくる。

 ギャングや分離主義者の襲撃は起きそうにもない穏やかないつもの朝。

 ニケは右腰のホルスターに触れた。私物の拳銃がそこに収められている。ブレーメンの里を出る時、幼なじみから贈られた自動拳銃だった。旧式で軍用拳銃に比べれば威力があるものの装弾数はたった7発。しかし薄いので携帯性はよかった。

 赤信号の間、道路の中央の車線はバス専用で路線バスが他の車輌を置き去って交差点を超えていく。バス優先レーンは渋滞発生の原因ではあるが輸送効率を考えたら妥当な処置だった。

 ニケはバックミラーで後席をみやった。ホノカが教科書を読みながらちらちらと腕時計を確認している。白の襦袢ブラウスに紺のはかまの装いは普段の彼女と変わらない地味な風合いだった。斜めにかけた緑色のたすきで学年を表していた。2年生と言っていたから緑色は2年生という意味なのだろう。

「だから早く出てくださいといったでしょう、お嬢様」

「もう、だからお嬢様は止めてっていったでしょ。もう!」

「しかし上官の娘さんで警護対象なのでお嬢様かと」

「普通に呼んでくれて大丈夫だから」

「早起きできないのか、ホノカ」

 ややぶっきらぼうすぎたか。リンにはよく言われる。目付きが悪い上に心がこもっていない、と。

 ホノカは顔を両手で覆って黙ってしまった。

「怒った?」

 しかしホノカからの返事はない。ホノカの視線の先は、優先レーンをスイスイと走るバスだった。

「あっちに乗るはずだった」

「まあそうねないで」

「拗ねてなんてないんだから!」

 ホノカは再び教科書に顔をうずめてしまった。

 やっと信号が切り替わった。そしてギリギで交差点を突破して、ふたたび次の渋滞で停止した。この調子だと今日も遅刻だろう。4日も経つというのにホノカはまだ早く起きれない。同室のリンは日の出とともに起床し家の周りを1ブロックほど走り、シャワーを浴び、そしてホノカを起こすという甲斐性かいしょうを見せているがそれでもホノカは起きれない。

 その髪の複雑な網目模様さえ諦めればいいのに。後頭部の両サイドから硬く結ばれた三つ編みが伸び、さらの上半分を束ねて輪を作っている。どういう意味があるのか知らないが彼女にとってそれがアイデンティティらしい。

 そういえばこんな形の触覚のある巨大昆蟲がブレーメンの里にいたな、とバックミラーを見ながら思い出した。

「勉強はたのしい?」

「普通」

 適当な話題だと思ったが不発に終わった。

「あの、その、ニケ……君は学校に行きたいとか思わないの?」

「学校? いや別に。行く必要もないから」

 ニケは車を滑らかに発進させながら言った。

「でもだって、まだ16歳でしょ。普通は学校に行くよね。いつから軍隊に?」

「11歳で士官学校に」

「あう、そう。事情があるのかな。ごめんね。変なことを聞いちゃって」

 違和感──なにかお互いに勘違いしている部分があるような。

「ああ、ホノカの言いたいことはわかった」以前にも同じような会話を“先輩”としたことがある。「ブレーメンは10歳で学校が終わるんだ。たぶん今ホノカが読んでいるソレも、もう習ったことがある」

「でもこれ、数学の微分だよ。9歳や10歳の子が分かるようなものじゃ」

「微分は数値の変化率、だったか。ヒトは何に使うかもわからない理論を作り出しているが、算術は論理的で理にかなっていて面白かった。

「面白い?」

「ああ。パズル、みたいな。教科書を読めば分かるし一度見れば覚えられる。それがブレーメンだ。俺も最初は不思議だったがヒトとはすこし頭の造りが違う。というかそもそも生物学的には違う生き物だしな」

「じゃあ、すっごい賢いってことだよね。だったら大学とか超有名な研究者とかそういうのになれるのに」

 かつての先輩と同じ反応。そして適切な答えも先輩と話して決めていた。

「賢いかどうかは、その知識が使えるかどうか、ということじゃないか? その点で言えばヒトのほうが賢い。ブレーメンの里に電気が通ったのは両親の世代からだし、テレビも俺が生まれた頃に初めて見れるようになった。ブレーメンは知識を取り入れることはできてもそれを使おうとは思わないんだ。その上興味が無いことは考えようともしない。なぜだろうな。俺はあまり考えたことがないけど大勢のブレーメンは変化を嫌うんだと思う」

「うう、なんだかもったない気がする。せっかく頭がいいのに」

「ホノカは、勉強して何をしたいんだ? 目的とか目標とか」

「わかんないよ。そんなもの。勉強してテストを受けていい点だったらママやパパに褒めてもらえる。ちゃんとしなきゃって。ただそれだけ。みんなちゃんとしてるに。リンちゃんもニケ……君もちゃんとしてるのに」

「そう気を張らなくて良いんじゃないのか? まあヒトの学校というのはよくわからないから軍の先輩の話だけれど、友だちと遊んで悪さをして叱られて、そうやって卒業するものかと思うが」

「なにそれ、不良じゃないの」

「たしかに、先輩は不良タイプだった」

 それでも、頭の回転と体が丈夫さだけが取り柄だったニケに不良の先輩はヒトの社会の生き方を教えてくれた。あんなあっけない死は彼に似合わないのに。

 車は学校の門を過ぎ校庭の横の来賓用駐車場に駐車した。ニケは車を降りていつか映画で見たような執事のように、後部ドアを開けてやった。

「いいから。自分で開けられるから。じゃあまた夕方に」

 ホノカは目も合わさずにさっさと学校の昇降口へ足早に歩き去ってしまった。朝のホームルーム中のけだるそうな生徒たちが窓からこちらを見下ろしている。

 まるで籠の中の鶏。初日にこの学校に来て思ったことだった。中流層家庭出身の生徒たちが狭い教室に押し込まれ一方的な知識を学ぶ。しかしヒトの頭脳では覚えられるのは1割程度らしい。

 ブレーメンの里には闘鶏の習慣があった。半年かけて鶏を育て、戦わせ、負けたらその鶏を食べてしまう。より強い個体を遺す合理的な遊びではあるが、本来 野を駆ける生き物を籠の中に閉じ込めて恣意的しいてきな生き方を強いる。ヒトの子どもたちが籠に閉じ込められた鶏と重なって見えた。卒業したら選別を受けてヒトの社会という胃袋に飲み込まれてしまう。

 帰りの道のりはラッシュアワーが終わったこともありスムーズだった。学校の敷地はぐるりと壁と有刺鉄線に囲まれている。出入り口のガードマンも22口径だが拳銃を携えている。こと校内でホノカに危険が及ぶということはなさそうだった。

 車をガレージに戻すと庭でノリコさんが洗濯物を干していた。

「あら、お疲れ様。運転が上手なのね。あたくしは後ろ向き駐車が苦手なの」

「ありがとうございます。士官学校の空き時間に自動車やトラックの運転も習いましたから」

「空き時間? 士官学校は勉強と訓練詰めと思っていたけど頭がいいのね。ぜひホノカにも勉強を教えてあげてね。ニケ君、銀行へはもう行ったの?」

「はい。昨日に。来週までに書留かきどめで通帳が届くそうです。思ったよりも預金額が溜まっていました。基地暮らし営内だと使うことがないので」

「あらあら、それはよかったわね。お金はあって困るものじゃないから」

「やはり自分もいくらかの家賃を払うべきかと」

「もらえないわよ」ノリコさんはにこりと笑って反論を許さなかった。「あたくしもいくらか稼ぎがあるし、それにニケ君は食事だってほとんど摂らないじゃないの。もしかして口に合わないかしら?」

「いえ、ブレーメンはヒトほど食事量が必要ないだけです。とても美味しいです。奥様、もし仕事があるなら続きの家事を手伝いましょうか」

「あらあら、ふふふ。“ノリコさん”でいいわよ。催促したみたいで申し訳ないわね。じゃ手を洗ってきたら洗濯物を干すのと、シャツのアイロンがけと掃除機がけをお願いできるかしら。あ、ホノカの下着は外じゃなくてホノカの部屋に干してね。男の子だけどブレーメンだから大丈夫でしょ」

「ええ、問題ありません」

「うーん、それはそれで残念ね」

「はぁ……」

 意図がわからない。

「終わったらお茶でも飲みましょう」

 テキパキと簡潔に指示を与えて、ノリコさんは屋内に戻った。

 籠いっぱいの洗濯物を干し、ホノカと野生司大尉のシャツにアイロンを掛け、部屋の掃除を終えた頃には昼にだいぶ近くなっていた。それでも昼食にはまだ早い時間だった。

 リビングで、ノリコさんはカーペットの上に座り、テーブルの上のタイプライターを叩いていた。テーブルにはぎっしりと書類や写真が並べてある。小気味よいキーの打突音と改行をするときの金属音が鳴っている。

「ノリコさん、作業が完了しました」

 タイプライターを叩く指先がピタリと止まり、ノリコさんが顔を上げた。

「あらあら、お疲れ様。やっぱりアイロンがけは軍人さんに任すのが一番ね」

「ええ。営内では毎日のことだったので。お茶、淹れますよ。ルノー茶でいいですか?」

「ありがとう。そうね、今日はアガモール茶にしましょう。右上の戸棚の赤い缶に入っているわ。じゃああたくしはお菓子を用意するわね。頂いたお菓子があるの」

 ニケは急須に茶葉を入れ、ポットに用意されていたお湯を注いだ。茶葉を蒸らしている間に盆にカップを2つ並べた。お茶一式をテーブルに持っていくころには、ノリコさんはテーブルの上を片付けてしまい、クッキーの缶を開けていた。

「お仕事は順調ですか?」

 ニケの方から切り出してみた。

「あらやだ、仕事ってほどのことではないわよ。ちょっと他人ひとよりも物書きが得意ってだけ。『主婦の友』って月刊雑誌、知ってるかしら? 知らないわよね。社会のニュースや事件を調べてあたくしなりに解釈して投稿しているの。昔の友達が編集部にいてね。紙面が余ってるって言うんで試しに書いてみたら好評で。だから毎月、締切が近くなるといつもこうなの」

「いわゆる記者ですか」

「ううん、物書きライターよ。記者のように中立になりすぎずかといって偏執へんしつせず、小難しいことも楽しく読めるように。あとはそうね、軍人の妻として夫を待ち娘を育てる心構えなんてのも交えて。読者に近い存在だから読者も読みやすいのよ」

「忙しいんですね」

「でもあなたたちが来てくれてちょっと楽できそうなの。家の仕事はあなたがしてくれるし、リンちゃんはあの人の食生活を気にしてくれたりホノカの話し相手になってあげたり。そうそう、このクッキーをどうぞ、食べて。お向かいの奥様にいただいたの」

「ええ、おいしいです」

 動物油脂ラードがしっかりと練り込まれたクッキーだった。ヤシアウコーク砂糖も多く常温でも長く保存できそうな印象だった。甘い4号戦闘糧食と言った印象だった。

「それでね、その奥様に陶芸教室にも誘われているの。ニケ君は陶芸、したことあるかしら」

「素焼きくらいなら。里ではある程度の日用品は自作していましたから」

「いいじゃない。いっしょに行きましょう。おばちゃんばっかりだけど」

「護衛ならば、同行します」

「あらあら、そう身構えなくていいのよ」

 そういえば──まだホルスターに拳銃が収まったままだった。

「すみません、銃をしまってきます」

「気にしないわ」ノリコさんは意に介さずお茶を飲んでいる。「もう少しお湯の温度が低いほうがさっぱりとしたの香りが出ていいかもしれないわね。あまり気構えないでちょうだい。趣味というのは日々起こる嫌なことを一旦忘れて没頭するためにあるの。あなたがしたいと思えばしてもいいし、したくないと思えばしなくてもいい。どうかしら?」

「では、ご一緒に。自分も趣味の物作りの機会はなかったので、いい機会かと思います」

 ノリコさんはパチンと指を弾いた。

「じゃあニケ君の分も申し込んでおくわね」

 ノリコさんは立ち上がって柱の横の電話の受話器を持ち上げた。それと同時にニケのパルが鳴ってメッセージの着信を知らせた。

 家族全員の番号は暗記してある。小さな液晶画面に出た番号はリンのだった。そして羅列された数列は文字を数字に変換したものだった。数列から文字への変換表も一読して暗記している。

『あたし いいへいし』

 話の脈絡がわからない──帰ったら聞いてみよう。とめどなく話が出てきそうだけれど。

「申込みはできたわ。来週から、近所の文化センターで。でもあたくしの護衛ばかりじゃつまらないんじゃないかしら。もっと自由に動きたくないの?」

「いいえ。護衛も待機も軍隊の仕事ですから。お気になさらず。しかしオーランドは治安が悪いのでしょうか」

「うーん、そうねぇ。悪いともいいとも言えないかもしれないわね」

 ノリコさんの返答は野生司大尉とほとんど同じだった。

「分離主義者が潜伏していたりギャングもいるとか」

「あたくしが知っているのはテレビのニュースくらいよ。将校の家族が誘拐された、とか違法な銃器が発見された、とか。あとは夜遅い時間に1人で歩かないとかそういうもの。オーランドは4000万人……5000万だったかしら。ともかくたくさん住んでいるのだから犯罪に遭わない努力はできても結局は運次第。とはいえあなたがホノカと一緒にいてくれるのは親として安心よ」

「ならばこの仕事も意義あるものと思います軍人にとって市民が安心して暮らせることこそが目標なので」

 やや陳腐だっただろうか。士官学校の模範的な精神論だった。実際はおうや市民への忠誠心よりも出世欲に満ちた同期のほうが多かったが。

「できることなら、ホノカのことを一生・・、見守ってくれてもいいのだけれど」

「まあ、任務ならそうしますが」

「ふふふふふふ。あなたもまだ若いのね」

 ノリコさんは意味深に微笑んだ。

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