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 巡空艦 8593号機。

 巨大な気嚢に埋まるように、四角い荷室が船体中央にあり下からは3基6門の砲塔が地上に向かって伸びていた。連邦コモンウェルスでは一般的な軍用艦で、第2師団の巡空艦大隊が保有する一隻。

 攻撃用途なら荷室いっぱいに砲弾や爆弾が詰め込まれるが今は重傷者を固定した担架が半分ほど並び、さらにその奥はコンテナが積み上がっている。中身は機密書類やテウヘルから鹵獲した武器などで届け先の住所が描き込まれている。ラチェット式ベルトで固定してあるが船体が横風で揺れるたびにぐらぐらと揺れて居心地が悪い。

 荷室の最後部──搬出用はんしゅつようスロープの近くの壁沿いの椅子にニケとリン、そして野生司のうすマサシ大尉が座っていた。

 ニケの左隣では、リンの首が危うい方向に曲がったまま寝ていた。よく食べてよく寝ている。さらに右隣では野生司大尉が電子機械を操作して書類を作っている。工作兵が使う巨大なバッテリーパックにソケットを繋いで、空のコンテナの上に機械を置いてひたすらにキーを叩いていた。

「もうすぐオーランドに到着だ。疲れたかね」

 野生司大尉はまだ精気にあふれていた。さっきまで眠気覚ましに飲んでいたルノー茶の香ばしい香りが漂ってくる。

「装輪装甲車の乗り心地に比べたら巡空艦の椅子はソファみたいなものです」

 汽車なら1週間もかかる道のりをたった20時間1日で着けた。文句は言えない。巡空艦に乗り込んだときと同じ朝日が窓から見えた。

「大尉は、その、それ・・でずっと仕事してましたけど、疲れないんですか」

「これは文字処理機ワードプロセッサ。最先端の技術さ。タイプライターよりも使いやすいし小型で便利だ。電源が必要だが、まあ軍の備品があればなんとかなるさ。こういう書類仕事がワシの仕事。“勇敢な剣より雄弁なペン”というやつさ。ブレーメンのことわざだったら何といったか」

 書類仕事──そこはかとなく感じる矛盾。ほんの昨日までは旧制ライフルを片手に陣頭指揮を執っていた。やはりただの役人とは思えない。

「箸で刀をつかむ、です」

「そうだそれだ。ブレーメンの文化や習慣は本でよく読んで理解している。まあ、実際のブレーメンがワシを理解してくれる訳ではないね。だがニケ君は、すこしヒトっぽい」

「ええ。里をでて士官学校に入ったのが11歳のときです。以来5年間はなるべくヒトの習慣で生活するようにしていますから」

「11歳で試験に士官学校の入校試験に合格するとは。君の資料を軍務省からFAXファクシミリで受け取ったときにはにわかには信じられんかった」

「筆記試験は学校で覚えた通りのことを書くだけ・・でしたし、体力試験は、普通に体を動かすだけ・・でした」

「入りたくても入れない、それが士官学校なのだがね。ゼロからヒトの習慣を取り入れるんだったら士官学校の厳しい生活も苦じゃなかったんじゃないのかね」

「ええ。そういうものなんだ、と納得していました。同期のヒトの大人たちは不満ばかり口にしていましたが。慣れないことばかりでしたが、今はヒトの生活のほうが何かと合理的でいいと思っています」

「ワシには、そうやって割り切って・・・・・いるだけにも聞こえるが。批判じゃない。だがまだ迷っている」 

 確かに野生司のうす大尉の言い方は間違っていない。ヒトの生き方を演じているだけだ。かつての先輩に夜遊びに連れ出してもらったとき──酔いつぶれた先輩の介抱やチンピラとのいざこざを収めたりする役割が多かったけれど──ヒトのように楽しめた経験は無かった。それでも、ヒトを演じていれば波風立てずヒトの社会に埋没できた。個人のよりも体裁ていさいこそ重要なのがヒトの社会だった。

「もし粗相そそうがあれば直します」

「ハハハハハ、まあ気にすることはない。ブレーメンというだけでなく君はまだ若いんだ。たくさん失敗をしてそうして大人になっていくものだ。っと少し親父臭いことを言ってしまったか」

 巡空艦が少しだけ傾いた。着陸に向けて降下しているらしい。野生司のうす大尉は文字処理機ワードプロセッサを丁寧に革のトランクにしまった。

「わぁ! ニケ、見てみて! キラッキラだよ」

 リンがいつの間にか目を覚ましていた。そして座席横の小窓から外を見ていた。眼下には5000万人のヒトが暮らす首都オーランドが広がっていた。中央の王宮から同心円状に環状鉄道の高架線路で街が区切られて街や工場がどこまでも続いている。

 地上に近づきながら、その大気が朝日を反射して光っていた。

「これは中和剤だ。昔、事故があってその時の汚染物質が海岸沿いから風に乗って流れてくるから」

  ニケははしゃぐリンを横目に見ながら説明をしてあげた。

「ほほう、ニケ君はオーランドに来たことが?」

 野生司大尉は感心したように顎をなでながら言った。

「いえ。ただそういったヒトの常識は士官学校の先輩にいろいろと教えられたので」

「なるほど。リン君も心配することはない。50年ほど前、まだワシの生まれる前だが、テウヘルを打倒しようと新型兵器が開発され大陸の西の海上で実験が進められていた。が、運搬途中に事故があってね。巨大な爆発だったらしい。当時のクレーターが西岸にまだ残っている。汚染物質はだいぶ薄くなったが念のため、毎朝 中和剤が散布されている」

「その兵器があったらテウヘルに勝てるのでは」

「知りたいかね? 軍の機密を」

「いえ、そういうわけじゃ」

「なに、機密・・というのは知ろうというものにとってはすぐに手が届く情報ということでもある。たとえ分離主義者でもこの情報をネタに連邦コモンウェルス政府に揺さぶりをかけようとは思わんだろう。あまりに巨大であまりに不安定な物質を大陸の反対側まで運ぶのは馬鹿げている。以来、研究は進んでいない。都市ひとつを消しかねない兵器なんぞワシも使いようがないとは思うね。」

 ちらり──盗み見た野生司大尉の右頬だけが一瞬だけ笑った。良い軍人を演じているのは野生司大尉もまた同じに思えた。 

「ところでその分離主義者の脅威はまだ続いているんですか? 半年前に軍警察が一斉捜査をして組織を摘発したはずですが」

「君の資料で読んだよ。半年前はオーゼンゼ市の強化兵工場襲撃事件のあの場にいたそうじゃないか。憲兵軍警察の都市防衛隊で」

「ええ、まあ」

 爆発──閃光──敵と味方どちらからともつかない赤い血。そして先輩のうめき声「たす……けて」

「軍警察が分離主義者たちの摘発をしている。あちら方面には知り合いが少ないが……連中はひとつの組織というわけではなく思想集団のようなものだ。リーダーはおらず武器を流すもの、売るもの、使うもののそれぞれの意思が偶然に合致したテロリズムというわけだ」

「複雑ですね。テウヘルならもっと簡単だ」

「いかにも。あとこれはワシの予想だが、よもや強化兵の製造工場を守った兵士というのは君かね。警備員数名の殉職者は出したが、これは手柄だと思うがね」

「ええ。ただ闇雲に、襲ってくるヒトを、ただただ殺し続けました。別に誇れるようなことではありません」

 興奮した群衆──まばらな服装──慣れない手付きで銃を握る手──斃れた先輩の最期「たす……けて」──そして赤い血に染まる両手。

「すまない、また余計なことを言ってしまったようだ」

「いえ。ただ、今回オーランドに戻されたのは、もしかして分離主義者と関係が?」

 野生司大尉がやや驚いた顔を見せた。リンも仕事の話となってそばで聞き耳を立てている。

「ワシが、分離主義者を? いやいや、あれは軍警察、憲兵の仕事だ。ワシはあくまで第2師団の小間使いであり各師団との調整役であり、先進技術認証委員会という肩書だけの役職だよ」

 肩書だけ? 最初は明かされなかった情報だった。

「軍務省に着いたら話そうと思っていたのだが、まあいいだろう。君たちにはワシの副官とそしてワシの家族を護衛する任務を任せようと思っている。リン君がワシの副官でニケ君が家族の護衛だ」

 拍子抜け──前線からもっとも遠い地で戦いとはもっとも縁のない役職。

「護衛が必要ということはオーランドの治安が悪化しているのですか」

「いやいや、そう身構えることはない、ニケ君。たしかに治安は良い方ではないが警察も軍警察もよく治安を守ってくれている。が、ときおり軍関係者を狙った分離主義者たちの襲撃がある。だからワシもオーランドに残した家族のために護衛を申請していたのだが──尉官ではなかなか許可が降りなくてな。副官ないし秘書というのはよくある慣例だがさすがにブレーメンを付き従わせると軍務省内の政治的に体裁が保てない。なあに、ワシの世界で一番大切なものをブレーメンが守ってくれるんだ。この上ない安心感というものじゃないか。ハハハ」

 ニケのとなりでリンが大仰な言葉を並べて指令を受諾していた。たぶん本人も何をされるかはわかっていない。

 そして、野生司大尉の口から聞かされた滞りのない言葉たち。慣例上も軍規上も、常識においても一分いちぶ すきもない論理ゲーム。

「自分は少し。驚いています。あの戦闘後の急な人事異動でオーランドへ」

「ふむ、そうかね? 部隊再編成中の人員、とくに戦闘経験のある強化兵とブレーメンはどの部隊でも喉から手が出るほど欲しいものだ。それをやや先に先手を打っただけのこと」

 まるで手のひらの上で踊らされているかのように、叩けば叩くほど体裁の整った答えがこぼれ落ちてくる。

「しかし自分は部隊指揮や近接戦闘は理解していますが、警務についてはあまり。しかも自分ひとりで。ふつう警務は小隊の人数で対応するものでしょう」

「なに、ブレーメンだったら一騎当千と思うが」

「ご子息を守れるかどうか」

だ。とびきり美しい娘だ」

 野生司大尉はごそごそと内ポケットを探り、財布からモノクロ写真を取り出した。

「こっちが娘のホノカ、そしてこっちが妻のノリコだ。ホノカは、どうだ? 美しい娘だろう」

「ええ、美麗衆目びれいしゅうもく、才覚にあふれる女性です」

 やや沈黙が続いた。轟々と巡空艦のエンジン音が聞こえた。野生司大尉は口をへの字に曲げると丁寧に財布に家族写真を戻した。

「悪くない世辞せじだ」

「そう言うように習いましたから」

「だが、美しいだろ? 君と同い年だ」

 野生司大尉の娘は、目付きの鋭さは母親譲りらしい。しかし髪質や顔のパーツは父親譲りを思わせた。

「すみません、自分はブレーメンですので」

 ヒトに惹かれることはない。ブレーメンとヒトは外見が似ているだけでつがい・・・になることはない。そもそも生物学的に違う生き物だ。

「まあ、護衛といっても娘の学校への送り迎え、家で妻を守り、外出する際はなるべく付き添うようにと、そのくらいさ。別段、危機が迫っているというわけでもない。万が一の保険だよ。ギャングも分離主義者も頭数だけが揃った素人集団だ。君なら鎧袖一触、やっつけられるさ」

「……わかりました」

「ふむ、納得出来ないかね」

「いえ。自分もリンと同じです。任務ならば全力で対応します」

 要領はつかめている。必要とあらばヒトだって殺せる。以前やったのと同じだ。

 問題は、やはり野生司大尉の真意だ。何もかもが急すぎる。書類上は問題がないとしても、大尉の受け答えに滞りが無いにしても。あるいは大尉は本心を話している。だからこそ疑ってかかることができない。本心だが真意が見えない。

 巡空艦は徐々に浮力を下げつつ軍務省敷地の駐機場に降り立った。周囲では負傷者を軍病院へ搬送するための救急車、物資を運ぶフォークリフト、トラックやクレーン車が待機していた。後部ハッチが開くと同時に野生司のうす大尉を先頭に、荷役の兵士とすれ違ってテクテクと歩道へ歩いていった。

「さて今後軍務省に来る機会もあるだろうから、簡単に説明しよう。敷地は広い。オーランドの“1桁区”にあって小さな町ほどもある。たとえブレーメンの健脚をもってしても移動に時間がかかる。敷地の縦方向と横方向それぞれに電力バストロリーバスが走っているからそれを使うと良い」

 野生司大尉が手を振るとちょうどやってきた電力バストロリーバスが減速した。

「“1桁区”ですか」

「ハハ、あくまで俗称だがね。あそこの丘に尖塔と丸屋根の建物が見えるだろう。あれがおうがおわします王宮だ。王宮を中心に、貴族院、政府機関、高貴な方々の邸宅が並ぶのが1桁区。1区から9区まである。ワシの家や市民向けの設備があるのが2桁区。10区から99区まである、といいたいところだが実数はそこまで多くはない。そしてその外側が3桁区。工場や駐屯地があるが、多くは非正規市民が住む治安の悪い地域だ。ギャングが警察よりも幅を利かせて分離主義者も潜伏している。たとえブレーメンでも近づかない方がいい」

 巡空艦から見た景色通りだった。同心円状に環状鉄道がそれぞれの区域を区別している。円状に移動する手段は豊富だが同心円の内側へ向かう手段は少ない。さすが連邦コモンウェルスの首都オーランドだけあって混沌の中にルールを敷き従わせるのがヒトのやり方。そのやり方にニケは違和感さえ抱かなくなった。

 3人がトロリーバスに乗り込むとすぐに発車した。ニケは野生司大尉に言われたように拳銃はあえて見えるように上着の裾をずらした。銃器の所持は可能だが隠し持つと違法になるとのことだった。

 15分ほどトロリーバスに揺られて野生司大尉の合図で下車した。質素な5階建ての建物で、正面の出入り口は軍人だけでなく“訪問者”のタグを首から下げた市民の姿も見えた。1階の窓口へ行き、大尉はその奥にいる女性と書類の束を交換し合った。

「さて、今から君たちの正式な移籍手続きを済ませてくる。それとオーランドの居住許可証付きの身分証明書と、基地と一緒に燃えてしまった君たちの軍人証の再発行。ふむ、いろいろやるべきことあるがコネを頼ってあらかた発行は済ませているが、小一時間ほどかかるはずだ。ロビーの椅子で待っていてくれたまえ。もし腹が空いたなら2つ隣のビルで軽食やお茶が買える。散歩してきたっていい。終わったらパル・・で……ああ、まだ持っていなかったね。後で渡そう」

 野生司大尉は早口でそう告げると上階の階段を軽やかな足取りで登っていった。

「なんだか、わくわくするね!」

 リンがはしゃぐのはいつものことだったが、ニケも多少同意せざるを得なかった。オーランドの活況はテレビをとおしてしか知ることができなかった。ヒトが大勢いて、軍属のブレーメンも戦場にいないときはたいていオーランドに住んでいる。

 先輩から教わったことは──オーランドに住めるのは上流階級かギャングの構成員だけだ、ということだった。連邦コモンウェルスに23ある州の州都ならまだしも人口過密ぎみなオーランドの居住許可なんてそうそう降りるものじゃない。だとしたら野生司大尉の言う“コネ”というのはただの役人じゃなさそうだった。

「あらあら、かわいい兵隊さんね」

 窓口の女性が声をかけてきた。どうやら朝早いせいで窓口業務はまだ暇らしい。

「ニケ、よかったね、かわいいってさ」

「俺じゃない。リンのことだ」

 そういって窓口の前に立たせてやった。リンの身長では窓口の小テーブルがやや高すぎる。

「おはよう。ここって堅苦しい軍人ばかりでしょ。あなたみたいな子がいると華やかになるんだけどねぇ。あ、飴ちゃん食べる?」

 窓口の女性は、その背後の上司の目を盗んでリンに小さく手を振った。

「えへへへ。あまーい」

 リンはこの上ない笑顔で戻ってきた。濃い食紅で青く染められた飴で、リンの舌まで青くなっていた。

「半日は口の中が青くなるやつだぞ、それ」

「おいしーからいーの」

 リンはぺたんと、開いていたベンチに座った。飴をなめながら足をぶらつかせている。しかし左耳の識別タグが横髪の隙間から見え隠れしていた。一見すると子供なのだが、テウヘルのバイタルポイントを的確に撃ち抜ける狙撃手マークスマンとは思えない。

「もし腹が空いてるなら食べに行こうか? 多少の現金なら持ってる」

「ううん、大丈夫。待っていよ」

 ニケもリンの横に座って、窓口を訪れるヒトの流れを眺めた。ちらりと聞こえてくる会話から退官後の年金の受け取りや職業斡旋の目的で来た市民が多かった。手取り足取りはゆるやかで静かに秩序だって自分の順番を待っている。

 前線で100年ぶりのテウヘルの侵攻が始まったということで、もう少し緊張や混乱が見られると思っていたが、市民は日常通りの行動規則に従っているように見えた。これこそがヒトのルール。互いに尊重しているたったひとつの調整機構。

 隣りに座ったリンがうつらうつら・・・・・・・し始めているとき、野生司大尉が戻ってきた。両腕で束のような書類が入った茶封筒を抱えていた。

「おまたせ」

 どさりと置いた書類の中から2冊の手帳をそれぞれニケとリンに渡した。赤い合皮のカバーでオーランドの徽章きしょうが表紙に押印されている。

 「これが君たちの身分証だ。中に軍人証、居住証明書、クラス2までの銃器所持許可証が入っている。銀行通帳だけはさすがに本人じゃなきゃ再発行はできないらしい。この身分証を持って後日、近所の支店に自分で行ってくれたまえ」

「こんな短時間でここまで用意できるなんて」

「なに、オーランドで大切なのはコネとツテと“袖の下”さ。勇敢な剣より雄弁なペン、と言うこともできる。パル・・は家についたら渡そう。ノリコ……妻に電話をして用意してもらっている」

 野生司大尉はポケットから手のひらに収まりそうな通信機器を出してみせた。256字までの数字を固定回線から送ることができるという個別無線電波受信機パルだった。ただオーゼンゼの基地営内は持ち込み禁止だったしラーヤタイにいたっては圏外だった。もっとも、連絡を取り合う相手はいない。ニケの脳裏に一瞬だけ里で別れた幼なじみの顔がよぎったが、もうそれは過去のことだった。

「先進技術にんしょー委員会。うわぁ、初めて見る文字だ」

 リンが身分証に刻まれた文字に目を細めた。

「先進技術認証委員会。つまりは軍民問わず、戦術、戦略的な進歩につながる先進技術を探し出し採用コミットするのがワシの仕事だ」

「しかし、この前に肩書だけの仕事だ、と」

「まあ、まあそういうことだ。歩きながら話そう。トロリーバスを逃すとしばらく待たねばならない」

 3人はロビーを出るとトロリーバスに乗り込んだ。トロリーバスの軌道はまっすぐ軍務省の入り口につながっており、すぐ上に環状鉄道駅もあった。1桁区をぐるりと囲む鉄道の高架が2桁区とを物理的に遮断している。

 同心円状に区切られたヒトの街。どれも同じヒトに見えるのに、どうして区別をするのだろうか。あるいは同じだからこそ階層という差を付けることで自尊心を保つのか。

 鉄道駅の前のロータリーでタクシーの順番を待ちながら野生司大尉は話を再開した。

「先進技術認証委員会とは、しかしここ100年、公式・・には大規模なテウヘルの侵攻は無かった。だから次第に実際の業務が減りついには書類上の存在になってしまった。ワシは一兵卒上がりで仕事の無い部署に配置され退官を言外に促されてはいるが、すべきことはなくはない」

「矛盾ですね」

「軍務省内には3つの政治的な勢力がある。北方方面隊、中央方面隊、南方方面隊、つまりは第1、第2、第3師団というわけだがそれぞれが利権争いをしている。利権とはつまり、師団が駐屯している各州政府との癒着だったり、軍のフロント企業の権益であったり、その他もろもろの天下りと賄賂の分配と、そういうのだ。そして師団長の中から次期宰相さいしょうが選ばれる。だから省のお偉方は常に背中を警戒している、というわけだ。一方のワシは一兵卒上がりだからお偉方からは安心して使える駒と思われている。だから出張が多い。連邦コモンウェルス各地の駐屯地の代理の査察やら監査やら。ラーヤタイを訪れたのも帳簿の監査のためだった。形式的な作業だがね。何かと旨味のない仕事だが、ワシはこの立場を大いに利用しようと思っている」

「先程おっしゃったコネとツテですか」

 野生司大尉は肩をすくめたが、否定はしなかった。

「軍務省の軍閥を越えて知り合いや友人もいる。各駐屯地や民間にも知り合いがいる。軍閥と学歴がモノを言うオーランドだが、人脈も何かと役に立つものだ」

「もしかして、自分たちを急遽引き入れたのも、そのためでしょうか」

 沈黙──しかしややあって野生司大尉はニコリと笑った。

「さあ、タクシーが来た。いよいよ自宅に帰られる。ワシも数日の休暇を取ったからゆっくりできるぞ」

 ごまかされた──それが大尉の真意だったということか。

 大尉はタクシーの助手席に乗り込みうちまでの道案内をした。片側3車線の大通りをしばらく道になりに進んだ。周囲の景色はオフィスビルがデパートの群れに変わり、そして次第に建物の背が低くなって住宅ばかりが建ち並ぶ地区に来た。道幅はだいぶ狭くなり交通量も少なくなった。

 交差点の一番目を引く看板は軍務省から出されたものだった。曰く『献血へ行こう! 血を捧げ兵士を支えよう 今ならトートバッグをプレゼント ※強化兵用の遺伝子サンプル提供は年に1度だけです』 名前の知らない女優が軍服のコスプレをして眩しい笑顔を振りまいている。

 街角の売店では宝くじの発売締め切り間近で市民が列を作っていた。当たる確率は0に等しいのだが庶民はその確率を狙って宝くじを買い増している。税金だけでは賄えない軍事費を確保するための政策だということには誰も知ろうとしていない。

 後部座席の左側で、リンは終始窓に額を付けて景色を眺めていた。何気ない広告看板や人気料理店に並ぶ人々を興味深く眺めている。生産されて生まれてこのかた、基地と戦場しか見てこなかったはずだからどれも新鮮なはずだった。

 その姿がニケの過去の姿と重なった。ブレーメンの里とヒトの街の風景はまるで違う。初めての事だらけで戸惑い、しかしそれらをあるがままに受け入れてきた。疑問や違和感を抱いていては知らない世界で暮らせない。

 タクシーは1時間ほどをかけて、似た形の戸建住宅が並ぶ地区に来て止まった。野生司大尉は何枚かの紙幣を渡し、気前よくお釣りは受け取らなかった。

 野生司大尉の自宅は中流階層の一般家庭、という風合いだった。黄色いパステルカラーの壁色だが2階は薄い青色をして、屋根は白だった。よくある建売住宅でこのあたり一帯の家々は同じ形と同じ間取りだった。軍務省勤めとはいえ上級将校というわけではないから、この家を買うだけでもそうとう苦労しただろう。

 芝生がきれいに揃った小さい庭を横切り、白いペンキが塗られたドアを叩いた。すると時間を置かずに内側からドアが開かれた。現れたのは柔和な笑顔を浮かべたの婦人だった。

「あら、おかえりなさい。今朝オーランドに着いたのでしょう?」

「ああ。3日ほど休暇をもらった。出張・・が長引いてすまなかったね」

「いいんですよ。大変なお仕事なのだから。それでそちらのおふたりが電話で話してたお客さんね」

 野生司大尉は横に並んではにかんだ・・・・・

「妻のノリコだ。っとリン君、そう律儀に敬礼なんてしなくていい。今は仕事じゃないんだから」

 ノリコさんは一歩進み出てニケとリンに握手した。背は野生司大尉より少し低いくらいだったが背筋がまっすぐと伸び大樹のように安定した佇まいだった。

「はじめまして。家族が増えるなんて嬉しいわ。緊張しないで自分の家だと思ってくれていいのよ。あら、あたくしったらいけない。こんなところで立ち話なんかして。ほら、入って。お茶とお菓子を用意しているの。あなた、部屋は掃除したから重いものの移動はお願いね」

 よく頭が回る──野生司大尉以上に。そしてノリコさんは野生司大尉にテキパキと指示を与えた。家の中では彼女が一番のボスらしい。典型的なヒトの家庭だった。

 室内は神経質なまでに掃除が行き届き、リビングは何かの意匠に沿ったようにソファがテレビを中心に配置され、窓際のよく日光が当たる位置に青々とした観葉植物が飾られている。ふたりは埃っぽい戦闘服のままだったがノリコさんは特に気にする様子もなかった。

 ニケは手伝いを申し出たが固く断られた。ソファにリンと並んで座っていると、ノリコさんは湯気の立つティーカップと焼き菓子をお盆に載せて戻ってきた。

「あたくしはね、軍人の妻としてお仕事・・・が大変だということはわかっているつもりよ。あなたたちもいろいろ大変だったでしょう。でもここではゆっくりしてね。それを罪だとは思わず。休むこともいい仕事をする上で大切でしょ」

 市民にとって軍人といえば、盲目的に崇拝するか兵役で酷い目に遭ったと恨み節を述べるか、だいたいそのどちらかの印象を持たれていた。あるいはテウヘルとの戦線を維持する軍事費のための重税で私腹を肥やしている集団という反感だった。しかしノリコさんの態度はそのどれでもなかった。

「しかし、自分は大尉のご家族を護衛する役目のために来ました」

「あら、あたくしたちを守ってくださるの? それは嬉しいわねぇ。夫の心配はきっとホノカのことね。学校に車で送り届けろ、だなんて。普段はバスなのだけどそれじゃ不安みたい。あたくし? あたくしは自分の身は自分で守れるわ」

 ノリコさんは視線を壁の棚に並んでいるトロフィーに向けられた。ニケは目を凝らしてそこに刻まれた文字を読み取った。

「クレー射撃ですか。どれも優勝や準優勝ですね」

「あら、あんな遠くの小さい文字が見えるのね。本当にブレーメンなのね」ノリコさんはにっこりと笑った。「射撃競技だけでなく銃身を切り詰めた散弾銃で近接戦闘も習ってるの。家を守る女のたしなみね。おふたりと腕前を比べてみる?」

「軍では散弾銃は扱わないのでたぶん、奥様には負けますよ」

「あらやだ、奥様だなんて。ふつうに“ノリコさん”でいいの……あら、リンちゃん、ここは家だから自由に話してもいいのよ」

 リンは手を上げたまま硬直していたがすぐにおどけた表情で話し始めた。

「あたしはライフル射撃なら4町の距離から標的に当てられます。へへへ、散弾銃もおもしろそう。一発玉スラグ弾もありますか!」

「ええ、あるわよ。あたくしの銃を貸してあげるので今度一緒にいきましょう。夫のお仕事なんて休んじゃえばいいのよ」

 すると家の上階から大きな物音が響いた。ややあってから大きなボール箱を抱えて野生司大尉が階段を降りてきた。ボール箱を屋外のガレージまで運ぶと再び上階へ登った。

「あの、俺、やっぱり手伝います」

「いいの。あなたはお客さんなの。とりあえず今日はね。あなたの部屋を準備しているの。少し狭いし今はマットレスしかないけど、来週にはベッドが届くはずよ。リンちゃんのお部屋はホノカと一緒ね」

「そういえばお嬢さんは?」

「あらやだお嬢さんだなんて。どこにでもいる普通の女の子よ。今ホノカは部屋で勉強すると言っていたけど……高校2年生なの。あなたと同い年ね。ちょっと恥ずかしがってるのよ」

 自己紹介で年齢までは言わなかったはずだが──たぶん野生司大尉が調べ上げた上でノリコさんに電話で伝えていたのだろう。

 ノリコさんは階段登り口で上に向けて声を張り上げた──おとなしい所作の割には声量が大きかった。

「あなた、ホノカと一緒に降りてきてくれない? ホノカ、新しく一緒に住むんだからちゃんと挨拶をしなさい!」

 誰も拒否は許さないという盤石な構えだった。

「なんだか」リンがぼそりとニケの耳元でつぶやいた。「厳しい人だね」

「家族も組織と同じだ。誰かが強くなきゃまとまらない。ヒトの社会なら、家長かちょう とは別に母親か祖母の意向が優先されるらしい」

 “先輩”の言葉の受け売りではあるが──たぶん合っている。

「ニケの家族も?」

「父親が優先だった。まあブレーメンの剣技を受け継ぐ家庭なら単純な強さで家長が決まる。剣技の修練は両親とも厳しかった。毎日立ち上がれなくなるくらい修練があった」

「ブレーメンが疲れ果てる修練?」

「ああ」

 全て過去の出来事。家族のいない寂しさと血反吐を吐くような修練が無くなった安心感が表裏一体で時折交互に思い出された。

 ニコニコのノリコさんとやや困った表情の野生司大尉──その後ろに隠れるようにして影の薄い少女がやってきた。

「はじめ、まして。ホノカ、です」

 マサシの写真で見た姿より一回り成長していた。両親の形質を程よく受け継いだ顔立ちと髪質の少女だったが性格はどちらにも似ていないようだ。おとなしめな色のワンピースの前で両手を固く握っていた。リンがニコニコして手を振ってみたがそちらを見ようとせず、しかし時々ニケやリンを見てはすぐに視線をそらしていた。

「さて家族が集ったわけだが」ホノカをノリコさんの隣に座らせて、野生司大尉が口を開いた。「家族が増えた。ニケ君とリン君だ。見ての通りふたりは軍人でワシの新しい部下だ。リン君はワシの仕事の補佐を、ニケ君は明日からホノカの学校の送り迎えをお願いしようと思っている。ニケ君、運転は習ったね?」

「はい。基地で装甲トラックの運転を習いました。乗用車も、おなじアタマ工業製ならなんとかなるかと」

「軽油エンジンに吸気ターボ付き。まだローンを払っているから傷つけないでおくれよ」

 ニケは野生司大尉から革のキーホルダーが着いた鍵を受け取った。

「防弾性能はどの程度ですか?」

「ハッハッハ、民間用の乗用車だよ。だがブレーメンの君がいれば安心さ」

 ニケは視線を鍵から娘のホノカへ移した。乗用車の外装は紙みたいなものなのにそれで守れるのだろうか。

「パパっ!」声を張り上げたのはホノカだった。母親譲りの声量だった。「わたしはバスで大丈夫だって。友達だってみんなバスで学校に行っているのにどうしてわたしだけ特別扱いなの?」

「それはホノカが特別だからだよ」

「それに男の子と一緒なんて! 一緒に住むなんて……ありえないんですけど」

 言葉は次第に尻すぼみに消えていった。ホノカはニケを2回チラリと横目で見た。

「まだ彼氏もできたことのないホノカには刺激が強いかしら。ホホホ」

 ノリコさんは冗談めかして言った。

「関係ないでしょ! ママ」

「あらあら。困った子ね」

 おそらくノリコさんの失言だが──ニケは言わないでおいた。

「年ごろの子が異性を遠ざける、というヒトの習性は理解しています。しかし自分はブレーメンです。ヒトとは生物学的に異なるのでお嬢様はあまり緊張しなくても大丈夫ですよ」

 ニケは淡々と感想を述べた。しかし顔を真赤にしたホノカは完全に拗ねてしまい、階段を蹴るように上がって自室に閉じこもってしまった。

「あらあだお嬢様だなんて。よくある思春期の子よ。しかも内弁慶うちべんけいで……身内にだけ強気で他の人には内気になるという意味ね。変なところばかりが頑固なのよ。いったい誰に似たのかしらね」

 ノリコさんはあっけらかんと笑っていた。その後ろで野生司大尉がじろっとノリコを見ていた。

「しかし、お嬢様が気にされるのなら自分は近所に部屋を借りますよ」

「うんうん、いい気遣いだが」野生司大尉が口を開いた。「オーランドの2桁区は常に住宅不足だ。単身者用アパートなんて空いていないしどこも高い。君の給金の大半を住宅に費やすのはもったいないだろう。それに一緒に住んでいる方が家族を守る上では好都合だ」

 野生司大尉の答弁は相変わらず論理武装が突き詰められていた。たぶん、これも巡空艦の中で考えていた言葉なのだろう。

「そう、大丈夫よ。あの子だってそのうちに慣れるだろうし。リンちゃんみたいに明るい子が一緒にいたほうがあの子にとっていいことだおろうから。あ、そうそう。お部屋が足りなくてね。リンちゃんはホノカと同じ部屋ね。あの子、朝はいつも遅いから軍隊式に起こしちゃっていいから」

 リンはぽかんと考えを巡らせていたが、

「では日の出とともに起床ラッパを吹いてランニングに行きましょうか」

 しごく真面目な返答──野生司大尉とノリコは笑っていた。

「そうだわ。忘れていたわ」ノリコはボール紙の箱をニケとリンに渡した。「はいこれ。個別無線電波受信機パルよ。今どきみんな使ってるわ。夫に言われてね。朝イチで量販店に行って来たの」

 箱の中には手のひらに収まるサイズの機械と乾電池が1本、取扱説明書と保証書の書類、そして野生司一家それぞれの電話番号が箱の蓋に記されていた。パルには小さい液晶画面があり1列の数列が表示できるようになっていた。

「ニケ君はもう知っているだろうけどリン君は初めてだろうね。これは電話から個人のパルへ数列を送ることができるんだ。電話は、家の電話でも公衆電話でもいい。メッセージごとに数列を決めておけば簡単なやり取りができる、というわけだ」

「軍の通信で使う符牒暗号ふちょうあんごうのようなものでしょうか」

「ハハハ、それはパルス信号だろう。もう少し単純なものだよ。語呂合わせだったり待ち合わせの時間だったり。ま、いずれ使うようになるさ。さて、ワシはニケ君が使う部屋の片付けをしなきゃならん」

「あ、やっぱり自分も手伝います」



「ふぅ、やっと片付いたね。銃の手入れなんて目隠ししてでもできるのに、部屋の掃除となったらどうも要領が悪い。さ、お茶でも飲もう。ワシの部屋で待っていてくれ」

 野生司大尉はくたびれた表情を隠すように1階のキッチンへ向かった。階下からは女衆の楽しげな笑い声が聞こえてくる。リンもだいぶ打ち解けたみたいだった。ホノカについてはまだおとなしいようである。

 元は物置だった、ニケにあてがわれた部屋。部屋と言っても3歩も歩けば壁に当たるくらい狭いが寝起きするだけなら十分だった。事実、私物もかばんひとつしか無い。

 多少散らかっていても気にはしないのだが、清潔さを善とするノリコさんの指示は厳格で片付けを徹底的にした。士官学校時代の教官を彷彿とさせる厳しさだったが、あくまで合理的で軍人のしごき・・・ような理不尽さは無かった。

 隣の野生司大尉の書斎もまた狭い個室だった。壁に天井まで届く本棚が備え付けられ、軍事関連の書籍がぎっしりと詰まっていた。小ぶりな書斎机しょさいづくえは、顔を上げたら唯一大陸タオナム地図が見え戦線や戦地を表す赤いピンがいくつか刺してあった。

「あれだけ徹底的に掃除をしたんだ。妻もさすがに文句は言わなかったよ。ま、荷物を移動させたガレージの整理が残っているがそれはまた今度だ」

 野生司大尉は盆の上で茶器にお茶をふたつ注ぐと、ひとつをニケに手渡して書斎のイスに座った。ニケも相対するように踏み台スツールに腰掛けた。

「すごい数の本ですね。ここで戦略研究を?」

「研究というほどのことでもない。これは単なるワシの趣味さ」

 野生司大尉は壁の大陸地図の赤いピンを移動させた。“壁”と記された唯一大陸タオナムの東西を分けるボトルネックの分水嶺からアレンブルグ市にピンを突き刺した。

 “壁”より東側のテウヘルの領域は地形すら一切記入されていないまっさらな状態だった。一方の連邦コモンウェルスの領域は23の州とオーランドが鉄道や高速道路で網の目状に結合しさながら蜘蛛の糸だった。それらの州境を野生司大尉の手書きでそれぞれ第1師団、第2師団、第3師団と領域が分かれていた。

「どの本も戦史研究ばかりですが……これは空想科学読本SF小説ですか。これ、子供向けの本ですけど」

「ハハハ、君だってまだ子どもだろう」野生司大尉ははにかんだ・・・・・。「戦術だの戦史だのというものは、つまりは常識だ。軍の資料館に行けば詳しく分かるし士官学校出なら皆、学んだことだ。おそらくはテウヘルもそうだ。だがワシらに必要なのは常識を打ち破るアイデアだ。まあ、地面を掘り進める戦車、というのは流石に閉口したが……これなんておすすめだ」

 野生司大尉は1冊の小説をニケに手渡した。どぎつい色使いの表紙と比較的平易な文字で書かれた小説だった。

「食い破れ、緋菊号!」

 ニケはなんとも小っ恥ずかしいタイトルを読み上げた。

「装甲艦で敵の前線を突破し、敵地奥で橋頭堡きょうとうほを築くという話だ。艦といっても空に浮いている方じゃない。海の艦艇だ。テウヘルの戦術が甘く描写されているが、まあ、素人の作家が考えたにしてはよく練られている」

「上陸作戦ですか。戦史では連邦コモンウェルスもテウヘルも何度か実施していますか、大抵は揚陸艦が沿岸砲の餌食になったり、波や海流に流されたり、あとは兵站が伸び切ってしまい大した侵攻にならなかった過去があります」

「いかにも。だが、敵地の奥深くへ急襲し橋頭堡きょうとうほを確保するというアイデアはなかなか上手いと思うがね」

「方法が問題です」

「ブレーメンがいても、かね」

「ええ。ブレーメンは協働作戦に向きません。あくまで点にすぎません。戦士であっても兵士じゃありません。点での戦いに勝てたとしてもそれを線、面につなげるのは不可能です。なにより死なないわけじゃない。地図を見てもわかるんですが、獣人テウヘルとの境界線より先は地図がない。戦略拠点もわからないのに攻めようがない」

「ふむ。平均的な士官と同じ感想だ。だがそれじゃだめだ。常識を打ち破るアイデアが必要なのだよ」

 ニケはヒトの社会に出てきた6年間、常識を習ってきた。社会にはルールがありヒトはルールに沿って行動するし沿うことが求められる。奇抜さというのは悪目立ちしそして潰される運命にある。

 軍務省の政治力学りきがくだって同じだろうに。

「そういえば君の資料は読ませてもらった。半分の期間で士官学校を卒業して憲兵大隊の軍警察、オーゼンゼの都市防衛隊に配属されたようだね。特例中の特例だから階級は軍曹ではあるが。ふむ、なんと優秀な。一兵卒のワシに比べたら順風満帆なエリートコースだ」

 脳裏にちらつく残響──「たす……けて」

「ええ。特例ばかりでした。義務教育は終わっていたので入学が許可されました。体力試験も並の大人以上だったので許可されました。11のときです」

「5年前か。兵役前のヒトじゃブレーメンにはかなわないだろうな。1日行軍は士官学校でもあるだろう。どうだった?」

「ええ、ありました。教官に『1日、走ればいいのですね』と言ったせいで一般兵の倍の荷物を持つことになりましたが。ブレーメンの里の修練に比べたらどれもぬるいものばかりでした」

「ブレーメンは無尽蔵の体力と反射神経と、そして驚くべき身体能力がある」

「しかし自分はそれでも中途半端な存在です。本来は形式的な短刀であれ、剣技を受け継いだ剣であれブレーメンは皆オリハルコンの剣聖剣を携えて、それがいわば触媒としてブレーメン本来の力を発揮します。自分はそれらを持たないので力の出力には上限があります。先日のラーヤタイの戦いでも正直な所ぎりぎりでした。あれ以上戦っていたら自分の体力も限界だったかもしれません」

「どこかで、手に入らないのかね?」

「いいえ。親が刀鍛冶に依頼を出し成人の義アウ・ヘゲナを通じて子に剣を授けます。自分は両親が滑落死し成人の義アウ・ヘゲナを催せませんでした。それは大人になれない子どもと同義で、ブレーメンの里で居場所がありませんでした。とはいえヒトの社会に出てもう6年です。もう戻る気はありません。ヒトのルールにのっとって生きることを選びましたから」

「しかしその顔を見るに、まだ割り切れてないと見えるがね」

 野生司大尉の忖度ない意見だった。目を合わせないまま湯気の立つお茶をすすっている。

「ブレーメンの里は閉鎖的で排他的で、住みにくいところです。しかしヒトの社会に出てわかったのはやはり俺はブレーメンだということです。どうしてもヒトの風習を批判的に見てしまう──すみません、悪意があるわけではありません。自分は軍警察の先輩からヒトの社会での身の処し方を色々と教えてもらいました。体裁だけうまく保っていればヒトの社会に馴染めるのだ、と。自分はその体裁というものが万人に対する嘘のように感じてしまいます」

「別に構わないんじゃないのかね」野生司大尉はあっけらかんとしていた。「体裁を保つ、ということはそれが大人になるということさ、ブレーメンの少年。誰だって複数の“顔”を持ち合わせている。ワシだったら、家に帰れば父親の顔、職場に出ればお偉いさん方の使いっぱしりの顔、街なかでは中央勤めの軍人に見られる。そして今は、ただのオッサンの顔さ。つまらない人生から学んだ蘊蓄うんちくを語るだけのね。君がブレーメンの顔、ヒトの顔、兵士の顔をそれぞれ持ち合わせていてもそれは悪いことじゃない。単に君が成長したということさ」

「ありがとうございます、大尉。すこし気分が楽になりました」

「礼には及ばんよ。男と男の会話だ。気にすることはない」

 野生司大尉はコトッと書斎机にティーカップを置いた。ニケも人肌に冷めたお茶に口をつけた。僅かな甘みとその後でゆるい苦味が浮かんでくる味だった。

「オーランドには馴染めそうかね? 君の言うルールをもっとも体現している都市だ」

「ええ。おそらく。護衛の任務は問題ありません。しかしお嬢様の護衛はリンが、自分が大尉の補佐官になるかと思いました。まだ自分はお嬢様に煙たがられているようで」

「それは、ハハハ、いろいろ理由がある。まず軍務省内の面目めんもくでブレーメンを副官に連れていたらなにかと角が立つ。どんな不正を働いてブレーメンを手に入れたのか、とね。君のその若草色の瞳は、軍人なら誰でもブレーメンの外見的な特徴だと知っている。そして、ワシにとっていちばん大切なのは家族でありいちばん大切なものをいちばん強い手札の近くに置くというのは、論理的だろう。君が剣を持たない不完全なブレーメン、というのは分かっているがヒトわれわれよりはるかに強力なんだ。給金については心配しないでくれ。書類上は先進技術認証委員会所属の軍曹で規定通り給金が支払われる。前線じゃないから危険手当がつかずに目減りするだろうけれど。家賃は無料タダで構わんよ。ハハハ」

「俺には、大尉の目的がわからない」

 野生司大尉からつんとした視線を感じた。しかしすぐにどこにでもいる普通の父親の“顔”になっていた。手をそっと伸ばして唯一大陸タオナム地図の黄色いピンが1つだけ刺された“壁”を指さした。

「“壁”に行ったことは?」

「いえ。アレンブルグやラーヤタイよりもさらに100里も先です。テウヘルの領域が近く空中要塞も常に徘徊しています。あれの威力はもう散々味わいました」

「かつてここで大規模な衝突があった。22年前だ」

「そんなはずは……そんな記録はどこにも」

「非公式戦闘六六〇三。テウヘル空中要塞への偵察とあわよくば破壊しようという作戦だった。ワシが入隊してすぐの出来事だった。ふむ、砲兵と偵察部隊とその護衛の歩兵あとは補給部隊とその予備で1個大隊で。今思えば無謀な作戦だったがワシはなにも疑問を抱かなかった。結局生きて帰れたのはワシひとりだった。テウヘルとの戦いの過酷さや当時配備が始まったばかりの第3世代型強化兵が捨て駒にされるのを見てきた。そして色々見てきた。“壁”というが、実際は大陸南部の山脈から北へ流れる大河とその両岸に広がるブレーメンの遺跡群が広がっている」

「ブレーメンの──」

「何か、知っているかね?」

「いえ。ブレーメンには過去の記録がありません。というか文字で記録を残す習慣が無いので。祖父母の名前すら知りませんし」

「そうか」野生司大尉は少し寂しそうな顔をした。「あの戦闘は軍中枢や近衛大隊にとってみれば不都合だったらしく、ワシの証言は根拠なしと印を押され資料室の奥深くにしまわれてしまった。ワシが一兵卒ながら軍務省にいるのも、ワシが軍にとって不本意な行動を取らないよう監視するためだろうな」

 野生司大尉の言葉1つひとつに含みがあった。どちらとも推察できる余地が残っており、一方でその具体的な真実を聞かれるまでは話さないという意思でもあった。空気の読み合い──ニケが学んだ処世術の1つ。

「クーデター、ですか」

「はっはっは。軍閥政治はたしかに嫌いだ。ブレーメンの言葉で言うなら“トゥイ”か」

「かなり下品な言葉ですね」

「だが野心、と思われてしまう目標が無いといえば嘘になる。その行為は、しかし連邦コモンウェルスに利益をもたらすと、ワシは信じている」

「俺とリンを引き入れたのも?」

「たしかに。優秀な従軍歴のある強化兵は各師団、各大隊でひっぱりだこだしブレーメンともなればなおさらだ。アレンブルグの一件で軍務省が対応に追われている中でちょろまかしたわけだ。これが役所軍人としての“顔”だ。だがワシも一人の父親として、娘と歳がいくばくも変わらぬ兵士が戦場で散っていくのは未だに慣れないことだ。君たちふたりを前線から引き離したことに私情が無かったといえば嘘になる。偽善と笑ってくれても構わない。事実なのだからね」

「そう、ですか」

 一瞬だけ6年前に亡くなった父親の面影と重なった。剣技には一切の妥協を許さない厳しい父親だったが日に日に成長していくに連れて褒める機会も増えていった。厳しい修練の目的も強いブレーメンを息子に引き継がせようという一心だったはず。

 野生司大尉は大陸の地図をつと指さした。

「机上戦略については」

「はい。士官学校でいくつか勉強しました」

「今後の獣人テウヘルとの戦線はどう推移すると思う?」

「北部回廊が実質的に唯一の手段です。ただアレンブルグはロンボク運河で東西に分かれています。東岸の防衛もさることながら運河自体が防壁なので攻略には数ヶ月はかかるはずです。大陸中部の砂漠と荒野は、獣人テウヘルの扱う多脚戦車では踏破に時間がかかりすぎてしまい、遮蔽物のない砂漠では第2師団の巡空艦の餌食になってしまう。南部は大部分が山岳地帯でそのうち東側一帯はブレーメンの中でもかなり粗野で野蛮な部族が住んでいます。空中要塞の助けがあったとしても大して進撃ができないまま撃退されるでしょう。西側のブレーメンの部族──自分の出身地のブレーメンは比較的温厚ですが獣人テウヘルが領域に侵入しようものなら各剣技団が面白がって狩るでしょう。そして首を並べる。倒した敵の首を数えるのには時間がかかるので一箇所に並んで積み上げてその腐敗臭の強弱で勝敗を決めます。ただヒトのように勝ち負けが重要なのではなく、戦い力を比べそれを肴に一晩中祝宴をあげて騒ぎます。それがブレーメン」

「ふむ。ワシが読んだ本とは実態が離れているような。まるで戦闘民族だ。もうすこし素朴な文化かと思っていた。」

「文化かどうかは、自分もわかりませんが。戦いの本能には従順に従いますよ」

「君たちが味方で良かったよ。ブレーメンの居住地を含む南部第3師団も強力な軍団だ。古い坑道を要塞化している。地下に町や工廠こうしょうまで備えている。守りについては完璧な部隊だ」

獣人テウヘルが北部回廊を一点集中するのは理にかなっています。アレンブルグさえ突破できれば少なくとも海を背に進撃することができます」

「さすが洞察力の鋭いブレーメン。君がまだ解せないというワシの野心だが、ふむ、その存在は素直に認めよう。だがおうの名の下に誓うが、ワシは連邦コモンウェルスのために働くと誓っている。君に不利益が被ることはないよ」

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