第11話 小雨

 沙希も一樹も付き合ってからはずっと一緒にいたので、公認カップルだった。特に課題でなくても連弾したり、お互いの課題曲を弾き合ったり、もちろんピアノ以外でもずっと一緒に過ごしていた。学内では二人でいることが多く、先生方からも違う楽器と組むように指示されたこともあった。室内楽の授業でついに違う楽器と演奏することになった。沙希は違う人との演奏が退屈に思えたけれど、一樹がバイオリンの学生と一緒に演奏しているのを見て驚いた。そんなにバイオリンで目立つような学生じゃなかったのに、一樹と演奏すると、素敵な音楽を作っていた。

「…どう言うこと?」

 上気した表情でバイオリンを奏でる。夢見心地なメロディに軽やかなピアノが流れる。フランクのバイオリンソナタだ。見学に来た学生はみんな、うっとりと聴いている。まるで二人の演奏会のような時間が流れた。その間、沙希は辛くて仕方がなかった。曲が終わるまでひたすら耐えた。そして自分の番になった時、今まで退屈だと思っていた演奏を変えた。相手の音を聴いて、自分の音も変えた。すると今まで退屈だったと思っていた曲が流れ出すのが見えた。チェロを抱えている後ろ姿が少し揺れた。

「すごくよかった」と一樹が言ってくれたけれど、沙希は素直に喜べなかった。

「…一樹の方がずっとよかったわよ」

「あぁ。だって、下手な演奏したら、また先生方に他の楽器と合わせろって変な圧をかけられるから。次は沙希と一緒に連弾しよう」と言って笑った。

 優しく手を取られる。さっきまで辛かった気持ちがすぐに消えてなくなった。


「わざとミスタッチしたでしょ」

「いや、ちょっとぼんやりしてた」

 学校内の選考ではわざと一樹は落ちたりする。それが腹立たしくもありつつも、愛情も感じた。あまり国内のコンクールに興味がないのか、一樹は滅多に出ないので、応援によく来てくれた。沙希が上位入賞した時は我が事のように喜んでくれる。

「一樹は卒業後はどうするの?」

「うーん。まだ決めてないけど…。沙希は?」

「私はもう少し…。大学院に行こうかなって思ってる」

「じゃあ、一緒に行こうかな」と言って、一樹は笑った。

 デートも一緒に海外ピアニストのコンサートに出かけ、学校でもピアノを弾いて、ピアノ、ピアノ、音楽、音楽。ずっと二人でいられると思っていた。夏場に行われることが多いコンクールの練習で沙希が時間を取れない時は、一樹は海外に行って、海外の先生からレッスンを受けているようだった。

「ねぇ、どうして一樹はコンクール受けないの?」

「まだ時期じゃないっていうか…。正直、必要性が分からない」

「え?」

「なんか、他の人に自分の音楽をジャッジされたくない」

 真っ直ぐな目で言う一樹に沙希は驚いてしまった。そして笑い出す。

「もう、本当に自信家ね。日本では肩書きが必要だから、何か、一つ出たらいいのに」

「先生からもそう言われてるんだけどね」

 それから三ヶ月後にあっさり一樹はコンクールで一位を獲った。聴きに行っていた沙希はピアノの音が誰とも違って、透明感のある音で驚いた。同じピアノを使っているのに、こんなに違うなんで考えられなかった。涙が自然と溢れた。


 そしてそこから少しずつ歯車が合わなくなっていった。最終学年になり、一樹はますます演奏者として磨きがかかっていく反面、沙希はスランプに陥った。あのコンクールで聴いた一樹の音がどうやっても自分には出せないからだ。

「大丈夫?」

「うん。あ、でも今日は帰るね」と言って、沙希は早退する日が続いた。

 そしてついには大学に行けなくなってしまった。一樹からの電話も出られない。一日中部屋に篭ってピアノも弾かなくなった。毎日練習していたのに。ピアノ練習をこんなにしなかった日はなかった。それがまた不安に拍車をかける。

 ついに大学の先生から電話がかかってきて、沙希は仕方なく大学へ向かった。

「どうしたの? 大学院に希望も出してたでしょう?」

「…はい。すみません」

「これ」と言って、数冊の楽譜を渡された。

 それを受け取って、バッハ、リスト、シューマン…、沙希は中を見た。一樹の字が溢れていた。

「桜木君、大学を辞めるのよ」

「え?」

「イギリスに行く見たいよ」

 沙希は驚いて、顔を上げる。

「あなたがどう考えてるか分からないけれど、…ピアノを続けるのか、続けないのか、ちゃんと自分で決めなさい」

「…はい」

 沙希は楽譜を抱えて、レッスン室を出た。曇っていた空はぽつりぽつりと雨を降らせた。廊下で一樹が立っているのが見える。沙希が来るのをどうやら待っていてくれたようだった。

「一樹…。あの」

「先生から聞いた? 沙希も一緒に行かない?」

 突然過ぎて、沙希は動けなかった。

「どうして…急に?」

「向こうは音が違うからね。空気も乾燥してるし、よく響くんだ」

「空気が乾燥…」

 一樹が何を言おうとしているのか、理解できない。

「きっと向こうだと気分も変わるし…。僕は先に行くけど、卒業してからでもいいし。どうせ後半年だし。沙希に合う先生も、部屋も探しとく」

 一方的に話されて、沙希は戸惑ってしまう。ピアノが弾けないのに、海外のことまで想像できなかった。黙っている沙希に会話を探すように一樹が言った。

「…楽譜受け取ってくれたんだ」

「あ、これ。ありがとう。…あの、私のためにイギリス行こうとしてるの?」

「沙希はどこがいい? フランス? ドイツ? どこでもいいよ」

 やはり一樹は沙希のために大学を辞めて、海外へ行こうと考えている、と分かった。

「…ピアノ辞めて。一樹について行こうかな」

「え?」

 ピアノがあるから、こんな気持ちになってしまう。嫉妬する気持ちも、絶望する気持ちも全てピアノが原因だ。それさえなければ、きっと一樹と一緒にいられる。沙希はもう何もかも手放したかった。

「結婚…してくれるの?」と一樹が聞いた。

「…そう。一樹の奥さんになりたい」

 そしたらきっと楽になれる。降り始めた雨が小雨になった。どういう理由か分からないけれど、沙希の目から涙が溢れた。

「沙希…。ピアノ…捨てられるの?」

「捨てたいの。私には無理なの。一樹みたいな…あんな音」

「僕の音が…」

 沙希は思わず顔を上げて、一樹を見た。ショックを受けている顔だった。一樹のせいでピアノが弾けなくなったなんて、言うつもりはなかったのに。一樹のせいなんかじゃない。自分の弱さが招いたことだと分かっているのに。

 しばらく沈黙が続いたが、一樹が遠くを見て、視線を外して言った。

「ピアノを弾かない君なんて…興味ない」

 冷たい声でそう言われて、沙希は弾けるように走って逃げた。一樹からの最後の言葉が耳から離れない。雨が降っていて、よかった。庇のあるところで鞄に楽譜を入れた。涙と雨が混ざっていて、沙希はしばらく校舎に体を預けて泣いた。

 一樹は沙希よりも、沙希のことを分かっていた。どんなに辛くてもピアノから離れられないということを。そうでなければ、こんなに辛く感じることはなかった。もし本当にピアノを捨てて、一樹に付いて行ったとしても、きっと沙希は一樹のピアノに苦しめられる。涙が止まらなかった。

 

 夕方、雨が去って、綺麗な夕焼けが広がった。沙希はもう一樹とは会えないんだということを理解した。家に着くと、心配そうにしていた母に「練習するね」と言った。泣き顔でひどく目を腫らしていたけれど、ピアノを弾くようになったのだ、と大分心配かけた母に伝えたかった。

 ピアノの前に座って、一樹がくれた楽譜をひろげる。余白にはいろんなことが書き込まれている。こんなに努力していた人に追いつけなくて当たり前なのに、と沙希は自分を笑った。そして最後のページを見ると、「沙希へ ずっと変わらず愛してる」と書かれていた。

 その一樹にあんな一言を言わせてしまった。きっと一樹は沙希がピアノを弾かなくても、好きでいてくれた。それも分かっている。それなのに、あんな事を言わせてしまって、沙希が離せない手を一樹から手を離してもらって、今、ピアノの前に座っている。

「もう、逃げない」

 自分が決めた事だから。あんなに好きだった人と離れてまで選んだのだから。

 

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