第10話 温かい手
女の子は病院が嫌いだった。匂いも嫌だし、注射も嫌いだ。薬も何種類も飲まなきゃいけないのも、本当に辛い。でも毎日、お見舞いに来てくれるお母さんには申し訳ないからきちんと言うことをきいている。でも窮屈だ。空は窓で四角く切り取られているし、外の空気も吸えない。
そんな時、夜中に男の子とトイレで知り合った。こっそりラジオを二人で聴いた。そんな経験、普通に家にいたらできない事だった。あれから非常階段で十分だけ一緒にラジオを聞くことにしている。夜の十時…十分だけ。番組のオープニングしか聞けないけど、それでもよかった。
「お母さん、ラジオが欲しい」
「ラジオ?」
「うん…。入院長いから」
母が悲しそうに微笑む顔を見たくなくて、窓の景色を眺めて言った。
沙希は今日、一樹にひどいことを言った事を自覚している。本当は自分より今でもずっと素敵な演奏をするのを知っているのに、もう連弾したくない、と言ってしまった。でも連弾している時に見せてくれた優しさや、一瞬合う視線がきっとあの頃とは違っている。
「お母さん…私もピアノしたい」
お風呂上がりの愛娘の髪を乾かしているところだった。タオルで艶々の髪の毛を軽く拭く。
「…ピアノ?」
「うん。私も弾きたい」
「…どうして?」
「だって、ママ、ピアノ、弾いてるの綺麗だから」
沙希はまだ腕にすっぽり収まる小さな娘をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう」
本当はピアノなんて娘にさせたくなかった。どれほどのものを犠牲にしなければいけないか、そしてその結果、一樹を失うことになってしまった事をずっと後悔していた。でもそうするしかなかった。
「ただいま」と声がして、夫が帰ってきた。
夫は医師で、若い頃は海外でボランティアとして働いていたから、体も大きくて、何より温かい心の持ち主だった。そんな人柄も好きになった理由だった。
「パパー」と言って、娘が濡れた髪のまま走っていく。
娘をすぐに抱き上げて、微笑んでくれた。
「お帰りなさい」
何不自由なく、幸せな暮らしだ。一樹に再び連絡を取ろうなんて思いもしなかったのに、まさか一樹の妻が大学生と心中するということになるなんて、思いもしなかった。そして一切の活動を休止していることを知って、連絡を取らずにはいられなかった。音大の恩師も心配していたというのもある。もちろん海外で有名になっていたのだから、講師として呼びたいという気持ちもあったのかもしれない。久しぶりにあった一樹は精彩を欠くどころか、心が死んでいるようだった。
「ご飯、用意するね」と言ったのは夫だった。
夫は仕事もしながら、晩御飯も作ってくれる。
「君は働いてる上に、子育てもしてくれてるんだから」と言って、嫌な顔一つしない。
娘のご飯は先に済ませていて、沙希が寝かしつけている間に、ご飯を作ってくれる。うっかり一緒に寝ている時はしばらくすると、起こしに来てくれる。
「疲れてるんだったら、シャワー済ませてからご飯作るけど…。ちょっと一緒に寝てきたら?」
顔色を読まれたようで、沙希は慌てて頷いた。
「ちょっと忙しかったから」
娘を呼んで、髪をドライヤーで乾かす。しなやかな髪を触っていると、この子もいつか恋をするのだろうか、と思うと、胸が詰まってしまう。どうか辛い恋をしないで欲しい、と思いながらも、それは難しい事だと沙希が一番知っていた。
小さいノック音がしたと思って目を開ける。案の定、娘と眠ってしまっていた。すやすや眠っている娘の側を離れて、扉を開けた。
「ごめん。起こした? お腹空いてない?」
「…ううん。ありがとう。練習もしなきゃいけないし」
沙希は急に目の前の夫に抱きついた。夫の匂いは一樹とは違うけれど、ものすごく安心する。
「何か、あった?」と聞きながら優しく背中を撫でてくれる。
「ううん。本当に疲れただけ」
「そう? 今日は沙希の好きなシチューを作ったから」
「嬉しい」
(一樹は私を救ってくれたけど…、私には一樹を救えない)
そのことがどれほど、悲しいか、でもそれは夫には言えなかった。夫の手がとても温かかったから。
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