第9話 レベル1の戦士
家の扉を開けた途端、ニラの匂いが漂っていた。忘れずにプリンを買ってきたものの、気分は落ち込んだままだった。一樹は靴を脱ぐと、そのまま洗面所へかい手を洗うことにした。すると、桜が通り過ぎて玄関に向かったのが見えた。
「あれ?」と呟いてる声が聞こえる。
ビニール袋を持ち上げるようなカサカサと音がする。きっと玄関に置きっぱなしにしているぷりんを拾い上げたのだろう。一樹は知らない顔をして、手を洗った。そして洗面所を出たところで、二人は鉢合わせた。
「きゃあ」と悲鳴を上げて、桜は腰を抜かして、持っていたプリンを落とす。
「…大丈夫?」
「おかえりなさい」と言いながらも立ち上がるのに苦労していた。
手を差し出して、立ち上がらせる。プリンの箱は見事に逆さまになっていた。
「プリン…ごめんなさい。でも、食べますから!」と桜は拾い上げた。
「ご飯は食べた?」と聞くと、「味見だけ、しました」と真面目な顔で答える。
「味見?」
今日は待っててくれたのか、とダイニングに行くと、小さなチャーハンが一つだけお皿に乗っていた。
「…これはプリンを見越しての量なの?」
「…味見が…止まらなくて…」
申し訳なさそうに、俯いたかと思うと、キッチンに行って、またすぐに戻ってきた。
「あ、でも餃子はまだ食べてないですよ。今から焼きますから、座っててください」と言って、大きな皿に並べた餃子を見せた。
一人でチャーハンを食べる姿を想像すると、本当に面白くて少し笑ってしまった。
「あ、明るくなった。帰ってきたときは、ものすごく真っ黒なオーラでした。悪魔に魂を抜かれたみたいでしたよ」
「何それ?」
「漫画です。暇だったので携帯の漫画を読んでて、ホラー漫画が無料でたくさん読めたので」と言いながら餃子のお皿をキッチンに持っていった。
「魂抜かれた…か」
いっそ、そうなれば良いのにな、と一樹は思った。沙希に連弾もしたくないと言われてしまった。ため息を消すように、キッチンから油のはねる音が聞こえた。油のはねる音はパワーのある音で、ちょっと大丈夫か不安になって、キッチンを覗いてみた。案の定「熱」とはねた油と格闘している桜がいた。
「もう少し火を弱めたら?」
そう言って、一樹は火力を弱めて、残りの餃子をフライパンに乗せていく。
「手際いいですね。ピアニストなのに、火傷しちゃダメじゃないんですか?」
「だから火傷しないようにしてる」
全部乗せてから火力を強める。フライパンの蓋を盾のように持っている桜は「戦士レベル1です」と言ってくる。
「え?」
「後、ひのきの棒があればいいんですけど、ないのでフライ返しで戦います」と言って、フライ返しをぶんぶん振った。
驚いて、固まっていると「効き目ないですよね。レベル1なんで」としょんぼりしたように鍋の蓋とフライ返しを持った両手を下ろした。
「…よく分からないけど、そろそろその蓋が必要だとは思う」と一樹が言うと、桜は慌てて水をフライパンに流し込んで、蓋をした。
水蒸気と油が跳ねるので、一樹を後ろに庇ってくれた。レベル1かもしれないけれど立派な戦士のように。
「…そんなに弱い?」と訊きかけたが、油の音が大きくて、桜には届かなかった。
熱々の餃子を食べている姿を見て、一樹はようやく気持ちが和んだ。一生懸命、食べている桜の姿を見ていると、理屈なく癒される。ハムスターがひまわりのたねを齧っている姿を見ている飼い主の気持ちが分かる気がする。
「一樹さん、美味しくないですか? そんなことないと思うんですけど。ちっとも食べてないですよ?」と言って、また一つ口に入れている。
「熱いから、ちょっと待ってた」
桜は口に入れた餃子が熱いのか、何か言いたそうに口をはふはふと動かしてはいるけれど言葉になっていない。その姿も癒しだ。もう本当は食べなくても満足してしまいそうだった。でもせっかく作ってくれたのだから、と一樹は食べることにする。
「ニンニク抜きですから。明日のレッスンで嫌われることないです」と飲み込み終えた桜は言った。
「なるほど、考えてくれたんだ。ありがとう」
お礼を言うと、嬉しそうに笑う。不意に妻との食事を思い出した。バレエをしていた妻はほぼスープとサラダだけだった。一樹には別にご飯を用意してくれたが、サラダを見ながらご飯を食べるときの気まずさを感じるようになって、自分の分は自分で用意するから、と断ってしまった。それでも妻は何かしら用意してくれた。何が間違えていたのだろうか。きっと何もかも悪かったのだろう。
「一樹さん、美味しくないんですか?」ともう一度聞かれて、目の前の桜を見た。
桜は待てなくて先に食べてしまう癖があるけれど、あの時、感じていた気まずさ、冷えたような食事風景はなかった。
「過去一番美味しい」
「本当ですか? あんまり美味しそうな顔じゃないですけど」
「顔は元からだよ」
「違います。美味しいものを食べた時はみんなこうなるんです」と言って、また餃子を口に放り込んだ。
確かに桜は幸せそうに食べる。
「さぁ、やってみてください」と言って、餃子を口元まで持ってこられる。
仕方なく食べる。間違いなく美味しい。でも食べた後、桜を見ると難しい顔をしている。
「うーん。もう少しおいしさを感じて、表現して欲しいです」
「表現ねぇ…。あ、表現ってどうしたらできると思う?」
「え? それは自然と出てくるもんじゃないですか?」
「…自然と出てこない場合は?」
「一樹さんのことですか?」
「いや…。学生のことで…」
「先生らしいこと、ちゃんとしてるんですね。そうですねぇ。私は美味しいもの食べるのが一番の幸せですけど、…そういうものがあればいいですよね」
「一番の幸せ…か」
「今日、何か嫌なことあったんですか?」
なぜか桜に今日、あった事を話した。
「学生には良かれと思った提案を蹴られたし…。後、元恋人が職場にいるんだけど…もう一緒に連弾したくないって言われて」
「それで落ち込んでいるんですか?」
「…なんか自分の価値が全く感じられなくなった」
「元恋人とまた連弾したかったんですか?」
「…そうじゃなくて。拒絶されたのが」
「まだ好きなんですか?」
「ずっと好きだったよ」
質問を続けていた桜は最後の質問は飲み込んだようだった。
「別れた理由は…一緒にいられなくなったから」と桜の言わなかった質問に答えた。
あんなに好きだったのに、お互いに好きだったのに、一緒にいれなくなるなんて思いもしなかった。
「もう結婚もしているし、子供もいるから、今更どうこうっていう気持ちはないんだけどね」と言って、なぜか桜に話をし始めた。
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