第8話 深夜のラジオ
深夜のラジオが届ける曲はどんな人が聴いているのだろうか。消灯時間を過ぎて、イヤフォンを差し込んでこっそり聴いている男の子がいた。入院は慣れたとはいえ、夜中のトイレに行くのは本当に怖い。だからラジオをつけて、イヤフォンを差し込んで廊下に出る。薄明かりが見える廊下を進む時もラジオを聞いていると、少しも怖くなかった。特に今日のDJは一番好きな人だった。タカシーンと自分のことを紹介して、テンポ良く曲を流してくれる。いつか、僕もメッセージを送ってみたい。そんなことを考えながら、用を足して、トイレから出た時、誰かとぶつかって「あ」と小さく叫んだ。向こうも驚いて「きゃ」と声を上げた。
同じ階に入院している女の子だった。
「あ、何聴いてるの?」
素早くイヤフォンを見つけて訊く。男の子は周りを見回し、非常階段のところへ女の子を誘って、片方のイヤフォンを貸した。タカシーンは楽しそうに今日の出来事を語っていた。今日はサーモンを食べていると、猫が「しゃーしみ、しゃーしみ」と喋ったと話をしている。その言い方が面白くて、思わず二人は笑った。
「ひひひ、ウケる」
「ククク、おかしい」
小さな声で我慢して笑っていると、止まらなくなる。でも看護婦さんに見つかると怒られるので、女の子は「また聞かせて」と言って、イヤフォンを返した。
「うん。また夜に」と男の子は言った。
二人はこっそり部屋に戻った。「しゃーしみ、しゃーしみ」が思い出されて、女の子はベッドの中でも笑うことを我慢しなければいけなかった。
野口琳は少しイライラしていた。せっかく憧れの先生につけたと思っていたのに、どんなに練習しても何も響かないのか、「よく弾けてる」と言うだけだった。今日もレッスンを一通り終わって、同じように言われるかと思ったが、突然、一樹に「ロラン先生に習いませんか?」と言われた。
「…え?」
「技術的には文句のないレベルなので、表現を磨いてみるのに…適任かと思ってたんです。三週間ほど、日本にいるので、その間だけですけど」
「あの…僕は…足りないところがあるんでしょうか?」
「足りないって言うことは…みんなそうなんですけど。もっと豊かな音を作り上げるヒントが得られるかもしれませんよ」
まだ若い野口琳に一樹は可能性を広げたかったが、突然、立ち上がって「どうしてそれを…あなたが教えてくれないんですか?」と言った。
「…僕が?」
聞き返した時、怒ったように頭を下げて、さっさと教室を出ていった。
一樹は一人になった教室で教師を続けていいのか、考えることになった。窓を開けると、秋風が入ってきた。夏が終わると風も乾燥して冷たくなる。下を向いたら、沙希が移動しているのが見えた。
学生の頃、沙希が本当に好きだった。付き合っている人がいるとは聞いていたけれど、不思議なことに全く気にならずにアプローチを続けた。若かったからか、自分にかなりの自信があった。ピアノも難しい曲でも難なく弾きこなせた。もちろん練習は欠かせなかったが、沙希に聴いてもらえると思うと全く苦じゃなかった。沙希は綺麗で、女性らしく、いつも一樹に会うと困ったように微笑んだ。最初は相手にもしてくれなかったけれど、だんだん一緒に過ごす時間が長くなって、連弾したり、ランチを食べたりしていくうちに柔らかい笑顔を返してくれるようになった。沙希に告白した後も、一樹は特に変わりない態度で接していたけれど、しばらく会えない日が続いた。避けられているようで、嫌われたかな、と一樹は思った。
その日は家に帰るのが面倒になり、練習室を借りて一人で居残り練習をすることにした。練習を始めると没頭してしまって、時間が経つのも忘れた。流石に帰ろうと片付けた時に、外からノックされた。時間がおしてしまっただろうか、と一樹は時計を見上げる。扉を開けると沙希が立っていた。
「あ、ごめん。次、使う?」と一樹は大きく扉を開けた。
沙希は一樹を軽く押して、練習室に戻した。そしてしばらく俯いていたが、意を決したように、一樹を見た。
「あの…。別れてきたの。彼と」
震えるような声と揺れる瞳を見て、一樹は一瞬動けなくなった。
「だから…あの」
絞り出すような声を遮って、「沙希、嬉しい」と言って、一樹は沙希を抱きしめた。沙希の目から涙が溢れだすのを見る。ずっと欲しかったものが手に入った。絶対に離すつもりはない。腕の中で泣いている沙希に口づけをした。沙希は驚いたように身じろぎをして、体を離す。
「まだ、付き合うなんて言ってない」
「付き合わないの?」
一瞬、がっかりしたような気持ちになったけれど、その後、弾けるように沙希が笑った。
「自信家ね」
「今、一気に自信無くなったけど」
沙希が背伸びをして、一樹の頬にキスをした。その時の温かさを今も覚えている。
「一樹」と下にいた沙希が気づいて手を振る。一瞬、あの時に戻ったような気がした。
沙希に手を振り返して、一樹は野口琳のことを相談しようかと思い、下に降りるというジェスチャーをした。そしてすぐにレッスン室を出た。学生だった頃は沙希に会うために一段飛ばしで、階段を降りて行った。流石に今はそんなことはしないけれど、急いで下に降りた。沙希は下で待っていてくれた。
「どうしたの?」
「あ、受け持ちの学生のことで…」
「野口君?」
「うん。テクニックはあるから、もう少し表現力をつけてもらおうか、とロランのレッスンを受けないか? って言ってみたんだけど…。乗り気じゃないというか、ちょっと拗らせてしまって」
そう言うと、沙希は笑った。
「笑い事じゃないよ…。教師なんて向いてないって毎回思わさせられる」
「向いてないわよ。一樹は…演奏家だもの」
沙希と目が合う。言葉が出なかった。それで沙希を失ったと言うのに、今、自分は何をしているのだろう。
「知らない? あの子、一樹に憧れてるのよ。この大学に来たのも、あなたに教えてもらいたくて来たの。だから放り出さないであげて」
「…いや、僕なんかじゃなくて、もっと」
「前はずっと自信家だったのに」
そう言われて、一樹は何も言えなかった。昔と変わらず綺麗な沙希が目の前にいて、でももう一樹はすっかり変わってしまった自分を自覚している。
「今の一樹だったら、私…連弾だって、したくない」
「それは…辛いな」
沙希は「もういいんじゃないかな。忘れても」と言って、背中を向けて去っていった。
冷たく乾いた風が通り過ぎても、一樹は動けなかった。
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