第7話 懐かしい痛み

 家に入った瞬間カレーの匂いがした。九時を過ぎてしまって、少し遅くなっていたけれど、桜は待ってくれていたのだろうか、と一樹は少し申し訳ない気持ちになって、ダイニングに向かった。

「お帰りなさい」と桜は言って、ソファから起き上がってきた。

「ご飯、食べた?」

「はい。先に頂きました」

「あ、そうなんだ」

「一樹さん、カレー食べますか? 温めます」

「いいよ。それくらい…」と言いかけて、テーブルの上に卵焼きがあるのが見えた。

「あ、それ、作ったんです。うちのお弁当の人気商品。甘い卵焼きです」

 一樹は甘い卵焼きは苦手だったが、何となくそう言えずに相槌を打った。手を洗ってる間に、桜がカレーを温め始めてくれていた。

「そぼろカレーですよ」と言って、ご飯が乗ったお皿半分に甘辛く味付けされたそぼろ肉がかけられ、半分がカレー。さらに目玉焼きまで乗せられていた。

「なんか、豪華だな」

「豪華に見えるんですけど、そぼろを使ったので、実は安上がりなんです。お弁当屋は美味しい低コストでやってます」

「なるほど」

 カレーは特別な味付けじゃなくて、ごく一般的な家庭の味がして、懐かしい気持ちになった。家庭で作るカレーなんて本当に久しぶりだった。

「もう食べたんだ…」

「あ、待ってた方がよかったですか? でもそれで気を遣って早く帰ってきてもらうのも悪くて。だからメニューもカレーをオーダーしたんですよね?」

 一樹の気持ちを読まれていたかの様だった。

「あ、卵焼きも食べてください。そぼろご飯に合いますよ」

 この甘い卵焼きに至っては十年単位で食べていない気がする。妻はいつも一樹の好みを知っているからだし巻き風の味付けだった。少し勇気が必要だったが、甘い卵焼きに箸をつけた。甘い。お菓子みたいに甘く感じる。でも確かにそぼろご飯とは合っていた。

「苦手ですか?」

「…まぁ、だし巻き卵の方が好きかな」

「じゃあ、明日はだし巻き卵にしますね」と言って、桜は卵焼きを口に入れた。

 幸せそうに食べるのを見て、もっと食べて欲しい、と一樹は思った。そんな食べてる姿を見ていると癒されるから、もう本当に桜はハムスター的な存在だった。見られていることに気づいて、桜が不思議そうに聞いた。

「どうかしましたか?」

「なんか…、お土産買ってくればよかったかな」

「え?」

「明日は買ってくるよ。何が好き?」

「なんでも…嬉しいです」

 一樹はハムスターに餌付けをするような気持ちになった。

「あ、晩御飯は何がいいですか? それによって、お土産も考えます」

「明日ねぇ…」

 桜は足を少しひきづりながら、タブレットを取りに言った。ネットスーパーで食材を注文するらしい。

「でもカレーが残っているんじゃないかな?」と一樹は鍋にまだたっぷりあったカレーを思い出した。

「あ、それは私が明日、お昼に食べます。それに冷凍しておけば、またいつでも食べれますよ」

「そっか。じゃあ…餃子食べたいかな」

「餃子ですね! ご飯も沢山あるし、チャーハンも作ります。餃子、チャーハンだから…お土産は…プリンでお願いしますね」

「え? プリン?」

「ダメですか?」

「いや。いいけど…。餃子、チャーハン、なんでプリンなのかな? と思って」

「杏仁豆腐苦手で。お薬みたいな風味が少し」

 何だか、納得したような、しないような気持ちになったが、一樹はとりあえず忘れないように、プリンを買うこと、とスマホのスケジュールにメモしておいた。

 一樹が帰ってくる前にお風呂は済ませてくれていて、洗濯も、勝手に自分の分を洗って干していた。一樹の分も洗ってくれようとしていたが、それは遠慮した。

 一樹がピアノを弾いてる間に、桜はネットスーパーでの買い物を楽しんで、後は歯を磨いてソファに横になっていた。毛布もかぶって、もう寝る準備万端な桜には申し訳ないが、今日はもう少し練習するつもりだった。タブレットで楽譜をダウンロードして、Waltz for Debbyの練習を始めた。

「あれ? 今日はクラシックじゃないんですね」と桜が話しかけてきた。

 いつも練習中は静かにしているのに、思いがけなかったのか、上半身を起こして、不思議そうにしている。

「今度…ラジオで弾くことになって」

「え? すごいです」

 一樹は山崎から聞いた話を桜にした。あるリスナーが別れた彼女へのメッセージを伝えるためだ、と教えた。

「急に姿を消したって言うことかな?」と桜は聞いた。

「…別れたって言ってたけど、どうなんだろう」

「でももう会えない人にメッセージを…届くか分からないけれど…何だか素敵ですね。届くといいなぁ」と言って、またソファに倒れた。

 そして天井に向かって「私なら…なんて言うかな」と呟いた。

 一樹も何て言うのか知りたかったが、桜はずっと天井を見ているだけで、何も言わなかった。一樹もなんて言うか考えてみたけれど、特に本当に何もなかった。妻が亡くなって、悲しいという気持ちより、やっぱりそうか、とどこかで納得していた。大学生と心中したと言うことで、知らない人からも有る事無い事言われた上に、大学生の両親にはひどく罵られ、妻の両親は持って行き場のない怒りや悲しみを一樹にぶつけた。でもそんな憎悪の塊に対しても、殆ど何の気持ちも湧かなかった。あの時は関係する人達、一樹も含めてショック状態だったから、誰もが普通ではなかった。

「もう好きじゃないよ…。学のことなんて」と桜が呟いた。

 目にいっぱい涙を溜めて、天井を見ていた。一樹は箱ごと、ティッシュを渡して、山崎の番組がやっているだろうか、とラジオのスイッチを入れた。カーペンターズの青春の輝きが流れてきた。桜の微かな泣き声が歌声に隠れて聞こえる。

 有名なサビの部分で「I know I need to be in love」と歌い上げる。確かにそうだ…と一樹は思うけれど、もう手に届く場所に愛はない。

(君はまだ間に合うんじゃないか。泣けるんだから)と一樹は思った。

 曲が終わってラジオを消して、桜の側に行くと、ティッシュを顔に押し付けて泣いていた。その痛みを懐かしく感じて一樹はそっと桜の頭を撫でた。桜は驚いて、ティッシュをずらして一樹を見た。

「辛い?」

 そう一樹が聞くと、桜の目に涙がまた溢れ出した。

「傷が治るまでここにいて良いよ。…それと、もう少しピアノ練習するね」

 そう言って、ピアノの前に座った。桜はそんな一樹を見て、ひどい怪我をしているのは一樹の方かもしれないと思った。見えないけれど、ずっと治らない傷を持っている。

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