第6話 ハムスター
「おはよう」
後ろ姿を見て、沙希は駆け寄らずにはいられなかった。いつもの一樹とは違っていたからだ。歩き方から違っていた。
「あ、おはよう」
少し眩しそうに目を細めて笑ってくれる。あの頃とは違うけれど、沙希はその笑顔が好きだった。
沙希は高校から付き合っていた人がいた。父親の知り合いの人の息子で、二つ年上の大学生だった。親が経営している会社のパーティでピアノを演奏したことがあり、そこで出会った。下心があって、沙希に話し書けたのかもしれない。それでも沙希は嬉しかった。彼は工学部の大学生で実験や研究で忙しく、沙希も音大受験が迫っていたので、デートする時間は殆どなかった。初詣に行ったきり、後はメールのやり取りだけの可愛いお付き合いだった。晴れて大学生になった時に、一樹と出会った。音楽高校時代の沙希はピアノ科で一番だったけれど、大学で入ってきた一樹は誰よりも上手かった。だから沙希は最初、一樹は嫌いだった。
「君、うまいね」
そう言われても、なんだか屈辱的でそのまま受け取れなかった。
「その曲…フランスの講習会でやったことあるんだけど、楽譜、見る?」
「え?」
「去年、夏にフランスの講習会行ったんだけど」
「高校生で?」
「…それより前から行ってる」
音楽高校に行ってないのに、上手い理由がわかった。普通の高校に通いながら、長期休暇は海外で音楽を学んでいたのだ。そして国内のコンクールには参加もしていなかったから、顔見知りにはならなかったけれど、海外のコンクールには出ていたようだった。
「はい、これ」
指示がたくさん書かれた楽譜を差し出される。普通は簡単にライバルになる人に見せたりはしないものを一樹は勿体ぶることなく沙希に渡した。
「字が汚くてごめん」
「でも…いいの?」
「いいよ。分からないことがあったら、聞いて」と言って、そのまま去って行った。
現地の先生の指示、一樹がつけ加えたメモが山ほど書かれている。みんな喉から手が出るほど欲しいものなのに、それを何の代償も求めず沙希に渡した。その意味が分からずに困惑した。運指も使いやすく、最初は罠か、と身構えていたが、ページを捲るごとに、一樹が海外で得た知識の多さに驚き、またその努力にも目を見張った。どのページにも欄外に正の字がいくつも並べられて、どれほど一樹が繰り返し練習を重ねたか分かった。
楽譜を返すときに「意外と努力家だったのね」と言うと、少し首を傾げてから思い当たることがあったようで、笑い出した。
「あ、消すの忘れてたよ。恥ずかしいな」
「恥ずかしいなんて」
「そんなに練習しなくても弾けてると思われたかったのに」
沙希は思わず笑った。
「そう思ってたわよ。楽譜を見るまでは」
「…そんなんで弾けるわけないけどね」
「そうね。毎日、努力が必要よね」
「今度、連弾しない?」
沙希は迷ったが、一樹とやってみたいと思った。音楽を通して同じ境遇で、辛さも楽しさも共有できる間柄で仲良くなるのに時間は掛からなかった。連弾も一樹が合わせてくれるのが、心地よくて、沙希はピアノを弾いてるのが楽しいと初めて感じた。もちろんコンクールで優勝した時の喜びはあるけれど、楽しさというとまた違っていた。誰かと合わせるときも、誰よりも上手く弾ける自負があった沙希は相手のミスが気になったし、上手くない相手に合わせる気持ちにもなれなかった。でも一樹と弾いていると、タイミングよく合わせてくれるし、沙希の音をよく聞いてくれていた。誰かと演奏するのがこんなに楽しいなんて思ってもみなかった。演奏をする時はもちろん、それ以外でも一緒にいる時が多くなった。でも沙希に恋人がいることを知っている一樹は時折、物言いたげに沙希を見ることがあったし、沙希も動揺しつつも恋人には何も言えずにいた。
連弾の練習を終えた時、一樹が突然、ショパンのノクターン18番を弾き始めた。それは切なくてロマンティックな演奏で、全てが沙希に向けられたものだと分かっていた。一樹の指が鍵盤を通るたびに透明な音が淡い輝きを持って弾けていく。恥ずかしいくらい自分に対する好意を表してくれているのだけれど、その音があまりにも澄んでいて綺麗だった。アジタート部分は胸に迫った。そして最後の一音は遠く消えていく。沙希は目を閉じてその音を聞いていた。
「沙希…」
いつも苗字で呼ばれていたのに、突然名前を呼ばれて驚いて目を開ける。
「好きだ」
じっと見つめられて動けなくなった。でも沙希の心の底が揺れて温かくなる気持ちを抑えることができなかった。
「待ってるから」
なんとか頷いて沙希は席を立った。そしてそのまま練習室から出て、走って表に出た。走ったから心臓が跳ね上がっているのだ、と思い深呼吸をするけれど、収まることはなかった。とまどいと、そして嬉しさと後者の方が遥かに大きくて、沙希はしばらく校舎の壁にもたれて空を見ていた。
今、横に並んでいる一樹に未練はないけれど、様子が違うことはやはり気になってしまう。
「ねぇ、やっぱり何かあったでしょ?」
「え?」
「何だかちょっと違うから」
「違う?」
「うん。なんて言うか…心ここにあらずだったのに、ちょっとしっかりしてきたっていうか」
素直な言い様に一樹は軽く笑った。
「ひどいこと言うなぁ。まぁ、色々悩んでるけど。…変わったことって、ハムスターが家にいることかな」
「ハムスター? 一樹が? 飼ってるの?」
「いや。隣のアパートの…預かってる」
「え? わざわざ?」
「怪我してて」
「飼い主が?」
「…飼い主は…死んでしまったんだけど」
「えぇ?」
話がややこしくなってきた、と一樹はため息をついた。
「また今度、ゆっくり話すよ」
授業準備があるので、沙希も一樹もゆっくり話している時間はなかった。
「ハムスター、飼えないなら、うちで預かろうか? 娘が喜ぶと思うの」
思いがけない沙希の申し出に一樹は首を横に振った。とんでもない話になってきたな、と思いつつ、急いで校舎の中に入った。
山崎は昨日来なかった一樹が店にいたので早速話しかけた。
「昨日、具合悪かった?」
「いや。特に…」
「仕事の話があるんだけど…」
「仕事?」
「うん。ラジオでさ…。別れた彼女にメッセージを…って言うのがあって」
「まぁ、よくある話よね」とママがおしぼりを差し出してきた。
「それがさ、彼女のこと何にも知らないんだって」
「名前くらいは知ってるだろう?」
「名前くらいは知ってるかもしれないけど、それが本名かどうか分からないんだよ」
「…じゃあ、そもそも付き合ってのか?」
「夜のジャズバーでアルバイトしてたら、ジャズピアニストだって来て、演奏を何回かしてて付き合う様になったんだって」
「それで別れたから、メッセージを送りたいって?」
「彼女がよくこのラジオ番組を聞いてるって言うから、ってメッセージをくれたんだけど。お店の人に頼んで連絡先を見せてって言っても…このご時世だし、断られたらしい」
山崎が何も言わなくても、ママは水割りを作って目の前に置いてくれた。今日は柿の種を小皿に乗せている。
「『もう一度会いたい。でもそれが叶わないなら…好きだったって伝えてほしい。僕の代わりに誰かに知ってる人がいたら、僕の気持ちを伝えてほしい』っていう切ないメッセージが来たんだよ」
「ふん。それで?」
「その彼女の名前はミイコでジャズピアニストで首に星形のタトゥが入っている彼女らしいんだけど、そのことをラジオで言ったらさ、えらい反響があって。知ってる人かもしれないって。首に星形のタトゥをしたら人、多いんだなぁって思ったけど。…ってわけでものすごく反響が多くて。おかげさまで…。でも…どれが本当か、嘘か、やらせか分からないんだけどさ」
「ジャズピアニスト…かぁ。聞いてみようか? 首にタトゥ…見つかりそうだけど」
「うん。まぁ、それもありがたいんだけど、ちょっとここら辺で、この騒動も落ち着かせたいからさ。彼のメッセージを彼女が弾いていた曲に乗せてお送りしようと思ってね」
「まぁ、いいんじゃない?」
「それで桜井くんがジャズピアノ弾いてくれないかな。生演奏でさ。レコード流して、はい、おしまいじゃ、味気ないじゃん。ここまで盛り上がっててさ」
「ジャズピアノ…他にいるんじゃないの? 適任者が」
「いるけどさ。まぁ暇してるでしょ? ジャズなんか弾けない?」と言われてむっとした。
「曲は何?」
「Waltz for Debby」
「いつ?」
「今週の土曜の夜なんだけど」
腹が立ったから一樹はうっかり引き受けてしまった。残っていた水割りを一気に飲んで、そしてすぐに席を立った。
「帰る」
「早いね」
「ハムスターが待ってるから」
「ハムスター?」
返事せずにそのまま店を出た。山崎とママは顔を見合わせて「ハムスター?」と同時に言って、また「女でしょ」「女だろ」と同時に言った。お互い顔を見合わせると、ママは深いため息をついて、山崎はからっと笑った。
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