第5話 盛り塩

 拍子によって、もちろん音楽の個性は変わる。三拍子はワルツの拍子と知られ、踊りのリズムと言われる。三という割り切れない数の拍子だから、足が止まることなく、ステップを踏みやすい。二拍子だと、行進しやすくなる。四拍子だと安定感が出て、割とポップス曲に多く使われている。

「だから、さっきのメヌエットが四拍子だったら、踊れないことはないんだろうけど、リズム感が鈍いよね? 最初の一歩で二泊あるからね。バッハの時代は宮廷音楽としての役割が大きいからダンスのために作られた音楽も多い」

「じゃあ、バッハはダンスミュージックを作ってたんですね?」

 一樹は吹き出してしまった。

「あ、もちろん今のダンスとは違うってわかってますけど?」と笑われて、頬を膨らませながら抗議する。

 もう一樹にはハムスターにしか見えなくなってしまった。

「後は宗教音楽もね。きっと神様に近づきたかったんだと思うよ」

「神様?」

「神様の手帳になんでも書いてるらしい。この世界のことわりが。だからそれを知るために数学という学問があって、音楽ともすごく関係している」

「なんでも? 音楽と数学が?」

「神が造られたこの世のものを全て数学で現そうとして始まったのが数学という学問なんだ。人間が決して知ることができないことを…昔の人は知りたくて、それが学問になったんだね」

「ふーん」と桜は分かったような、分からないような顔をした。

 皿を片付けようと立ち上がると、桜が「一樹さん」と名前を呼んだ。驚いて、桜を見るとにっこり笑って「教えるのとても上手でしたよ」と言った。

「だってバッハが偉大な作曲家って分かりましたから」

 それを聞いて、一樹はやっぱり教えることに不安が消えることはなかった。その顔を見て、焦ったのか「メヌエット、私は四拍子がお気に入りですけど…。でも三拍子の理由も分かりました」と付け加えられたが、不安はさらに広がった。


 寝る前に桜が盛り塩をしたいと言い出した。昨日見た夢が気持ち悪いから、と言う。塩はたくさんあったので、小さな小皿に乗せて渡した。

「これじゃ、ダメです。盛らないと」

「盛る?」

「こんなお皿に入れただけじゃ駄目です」

「はい、じゃあ、自分でして」と塩の袋を渡した。

「何か小さなコップないですか? おちょことか」

 探し出して、渡した。滅多に使わないものなので、かなり奥に仕舞われていたが。そこに塩を詰め込んでスプーンで押し込めている。

「そういうの、よく作るの?」

「お家で商売してるので。朝も神棚に手を合わせてから出かけますよ」

「ふうん」

「一樹さんの家には神棚がないんですね」

「…あったけどね。おじいさんが持っていった」

 塩の入ったおちょこを逆さにして、後は形を整えて綺麗な三角形にしていた。盛り塩が乗った皿が二つテーブルの上に並んだ。

「バッハの言う神様とは違うかもしれないですけど…。よく手を合わせてました。そうやって毎日、同じことの繰り返しで…幸せでした」

「…今は違うの?」

「…人は裏切るんだなって思って、それから…人のこと恨む自分がいて…。会社では嫌なこともされたし。自分のことも周りの人も…何もかも嫌になって、会社も辞めて、裏切り者の彼とも別れたのに…どうして前みたいに戻らないんだろうって。別れた彼は事故で死んじゃうし。私が呪い殺したのかな」

 最後は俯いて呟くように言った。

「いやいやいや。流石に呪い殺す…はないと思うけど」

「だから首を絞めに来たのかなとか」

「だったらとっくに僕は殺されてると思うけど…」

 桜は一樹の言った言葉が理解できずに、顔を上げた。

「妻が亡くなった原因は僕にあるから」

「え?」

 桜が読んだネット記事では一樹の妻は大学生と心中していたと書いてあった。裏切りをしたのは妻の方だった。

「ある意味、君と同じ境遇かもしれないけどね…。僕は少しも妻を恨んでいない」

 一樹も桜も裏切られた者同士だった。そして同じように相手が亡くなっている。でも少しも恨んでいないという一樹に理由を聞くのが怖かった。

「ドイツでコンサートを終わった後に知らされたんだ。妻が亡くなったこと。周りの人が遠慮して終わるまで伝えてくれなかったんだけど…。僕はもしコンサート前に聞いていたとしても、多分、変わらずピアノを演奏できてたと思うよ」

 これ以上、聞いてはいけない気がしたが、桜の口は少しも動かなかった。

「一度も妻を愛したことなかったから」

 そう言った一樹の表情は何の感情も表していなかった。

 初めて会った時に、大した感情も表さずに近づいてきた一樹を思い出した。

「どうして…結婚した…の」

 何かが悲しかったわけでもないのに、桜の目から涙が溢れて、動けなくなった。無表情で見つめられていたが、顔が近づいてきてキスされるかと思い、桜は思わず目を閉じた。

「気の迷い」

 耳の側で声がして、涙を親指で拭かれていた。

 何事もなかったように立ち上がって「おやすみ」と言われた。一樹が去っていくと桜は力が抜けて、テーブルの上に突っ伏した。その際に盛り塩は少し形を崩して、こぼれた。

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