第4話 三拍子
新幹線に乗らないと帰れないという桜を仕方なく再び家に招き入れることにする。足が相当、痛むようなので、一度医者に診せるように言ってみるが、お金も保険証も持ち合わせていない、と拒否された。
「あの…お腹空いて…」と言いながら、ダイニングテーブルに置かれたパンの山を見ていた。
「お好きなのをどうぞ」
一樹が言うと、遠慮なくパンを選び出して袋を開けた。一樹は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップに入れる。
「パン好きなの?」
「おにぎり食べたいです。でも…今はとにかくお腹空いて。お昼食べてないし」
コップをテーブルに置くと、想像通り頬を膨らませて口を動かしている桜を見て笑ってしまった。
「ハムスター」
うっかり言ってしまったその言葉に桜は目を大きく開けたが、口にパンが詰まっているので、無言だった。
「ご飯炊こうか?」
冗談で言ったのに、頷くから、お米を洗う羽目になった。一樹は久しぶりにお米を洗って、炊飯器にセットした。炊き上がるまで五十分かかるらしい。あまりに美味しそうにパンのを食べるので、夕食だと言うのに、一樹も食べたくなって、コーヒーを沸かした。
「学生? 帰らなくていいの?」
「幸い、無職なんです」
「え?」
「短大卒業して、入った会社でセクハラを受けて、辞めて実家の手伝いをしていたところなんです」
パンを食べ終えたのか、流暢に話し出した。
「だって、毎日、肩触られたり、腰に手を回されたり、無理無理無理無理」
「上司に相談しなかったの?」
「上司にされてたんです。しかも同族経営の和菓子屋」
「…そっか」
「あれは就職じゃなくて、嫁候補選びだったみたいです。だから辞めて、家のお弁当屋さん手伝いしてました。学の荷物整理をした後は…しばらく東京見物でもして帰るつもりだったんです。でもうっかり寝袋を忘れてしまって…」
「怪我…痛そうだから病院行く? お金貸すよ」
「…返すお金もありません。保険証のためにまたここに来るのも面倒です」
「でもここにいられても困るんだけど…」
「…そうですよね。あの…でも」
少し落ち込んだように顔を下に向けたが、すぐに顔を上げて言った。
「お家のお仕事します。ご飯作ったり、掃除は苦手ですけど…。一週間もあれば治ると思います」
思いもよらない提案を受けて、一樹は困惑した。
「掃除は…来てもらってる人がいるんだ」
「じゃあ、ご飯作ります。お弁当屋仕込みの美味しいおかず作ります」
ご飯だって、いつも外で済ませていた。
「とりあえず今晩は追い出さないでください」
流石に今日は諦めていたから、一樹は頷くしかなかった。コーヒーとパンを食べて、一樹はピアノの前に座った。
今日、課題曲だったベートーベンの熱情を弾く。なぜ野口琳は一樹のコピーになってしまうのか。どういうレッスンをしているのか…。一樹が表現について、あれこれ指示をしたことはない。レッスン態度は生真面目で、自身の練習量も多いとわかる。完全に仕上げてくるのだが、最初に聞いた時、一樹は愕然とした。自分の音とそっくりだったからだ。自分と同じ音なら解釈が同じだと思うのだけど、完全に同じように仕上げてくる理由が理解できずに、寧ろ気持ち悪さを感じた。
しばらく弾いていると、ご飯が炊けたと合成音が鳴る。桜はゆっくりと炊飯器に歩いて行った。
教えることに向いていないとロランに言われたが、言われなくても自覚はしていた。教えるにもスキルがいる。ピアノが弾けるからといって教えるスキルが高いわけでもない。自分に嫌気をさして、一樹は手を止めた。
「食べますか?」とおにぎりを頬張るハムスターのような桜に声をかけられた。
真っ白でのりも巻かれていないおにぎりをお皿に乗せて運んできた。
「お塩しかなくて。塩むすびです」
「…後で食べるから…テーブルの上に乗せて置いて」
「どうかしましたか?」
「教えるのって難しいね…。向いてない」
「あ、じゃあ、私に教えてください。私も少しは弾けるんですよ?」と言って、いそいそとおにぎりをテーブルの上に置いて、戻ってきた。
そして一樹に椅子を譲ってもらい、自分が座るとバッハのメヌエットト長調を弾き出した。一樹は出だしから唖然として、楽しそうに弾く桜を見た。短い曲を弾き終えて、桜はちょっと得意そうな顔で振り向いたが、一樹の顔を見て、固まった。
「あれ? 間違えずに弾けたんですけど?」
「…どうして? そうなった?」
「え? どこか間違えてましたっけ?」
「なんで四拍子?」
「え? 拍子?」
「三拍子の曲なんだけど…」
もう一回桜は弾いたが、「レーソラシド レーソソ」と弾く。
「ちょっと退いて」
レソラシド レソソと三拍子の曲だと弾いて、桜を見ると不満そうな顔をしている。
「それじゃあ、足りません」
「何が?」
「最初は伸ばしたいです」
音楽の父バッハに物申す桜に一樹は何も言えなくなった。この目の前の恐れ知らずのクレイマーより野口琳に教える方が遥かに楽だということを一樹は知った。
「私にピアノ教えてたら、教えるの上手になるかも」と桜が言うので、それはそうかもしれない、と妙に納得しかけてたが、「いや、種類が違う」と一樹は拒否した。
「種類?」
「話は楽譜が読めるようになってから。楽譜に三拍子って書いてるから」
「楽譜目の前にないのに…。ともかくご飯、食べてください」と一樹はダイニングテーブルの方へ押し出された。
艶々のご飯がおにぎりにされている。
「海苔とか、胡麻とかあったらいいんですけどね。スーパー近いですか?」
「ネットスーパーで買って」
一樹も使ったことのない仕組みだけれど、タブレットを持ってきて会員登録をして、桜に食料品を注文させた。
「明日には届くらしいから」
「わぁ。じゃあ、何が食べたいですか?」
晩御飯を一緒に食べる前提で聞かれて、一樹は一瞬、断ろうとしたけれど、嬉しそうに聞いてくるので、カレーと言っておく。カレーなら作り置きできるだろう、と。万が一、食べれなくても翌日に持ち越せる。
「カレー! もっと難しいのでも良かったのに」
そういって、桜はネットスーパーで材料を注文した。そして不意に顔を上げて
「四拍子と三拍子の違いってなんですか?」と聞いた。
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