第3話 過去形
大学に着くと、同じピアノ講師の
「おはよう」と挨拶を返すと、沙希は今日、行われる予定の公開レッスンの話をしようとしたが、一樹の顔を見て少し立ち止まる。
「今日の公開レッスンの…あれ? 何かあった?」
「え? 何が?」
「なんか、雰囲気が違うから」
「え? そうかな?」
一樹はトーストを目一杯頬張って、リスのようなほっぺたになっている桜の顔を思い浮かべていたから、ちょっと笑っていたかもしれない。ピアノの練習の一息着いた時に、膨らんだ頬のまま、おずおずと三枚目のトーストのおかわりを希望された時は本当に驚いた。
「いいことでもあった?」
「いや、それはない。ところで公開レッスンの順番なんだけど」と一樹は話を戻した。
桜は今日帰るはずだから、沙希に言う必要はない、と一樹は考えて、特に秘密にしたいわけではなかったけど、言わなかった。
公開レッスンは学生の中から数人選んで演奏してもらう。一樹の受け持ちの男子学生、
「カズキ、もう、ピアノは弾かないのか?」
「…大丈夫。弾いてる」
「そうだね」と悲しそうに相槌を打たれた。
一樹が言う弾いている、とロランの相槌は最初の問いから遠く離れた場所にある回答だった。
ロランは愛情のある教え方で、彼のアドバイスを受けて同じ学生が弾き直すと魔法のように一瞬で美しい演奏に変わる。多少ロマンティックな演奏だけれど、曲によっては本当に美しく聞こえる。一樹の学生の野口林は努力家で、技術力も高いが、豊かな表現となると苦労しているようだった。今回で何かを掴んでもらえたらいい、と一樹は思って推薦しておいた。本人は気が進まなそうだったが、課題曲であるベートーベンの熱情の練習をしておくように伝えた。
公開レッスンは盛況だった。一樹はとりあえず、無事に終わって、一息着いた。教室から出ようとすると、生徒に囲まれていたロランがこっちに向かってきた。
「カズキ、あの君の生徒…」
「野口琳?」
「君のコピーじゃないか」
「…やっぱりそう聞こえるか」
「どういうレッスンしてるんだ」とロランが苛立ったように言った。
「優秀で、一度ですぐに直してくれる…」
「そうじゃなくて」
「でも…彼の視点は全くない」
「…分かってるなら」
「…分かってるけど、どう教えたらいいのかわからない」
ロランは一樹を見て、「君は先生に向いてない」とキッパリと言った。一樹もそれはずっと思っていた。
「カズキ、一体、いつまでそうしているつもりなんだ?」
「先生を辞めることを考えないとね」
皮肉でもなんでもない。一樹はここにいることが果たして学生たちにいいことなのか分からない。こんな自分に教わる方が不幸なのかもしれない。
「追い詰めるつもりはないんだ。でもそろそろ前を向くべきだし、…君のピアノは本当に素敵だったから」
過去形。
失われてしまったものに対して、ロランは何気なく口にした。もう二度と手に入らないんだ、と一樹は思う。
「ロランのピアノも素敵だよ。今日はありがとう」
ロランも気づいてしまって、言葉を失っている。一樹はそれ以上、気を遣わせたくなくて、その場を離れた。
桜は荷物を引き取りに来た業者に全て引き取ってもらい、サインをした。がらんと空き部屋になっている真ん中に座り込んだ。足が痛くて隣の家からここまで歩くのも大変だった。お昼ご飯を買いに行くのも辛い。朝にたくさん食べていて良かった、と思う。ご飯をたくさん食べさせてはもらったけれど、今日、帰る前提で話をされた。仕方なくポストに鍵を入れたけれど、しばらくこの部屋にいるしかないのだろうか。また変な夢を見そうな気がする。ピアノの先生って言ってたから、インターネット検索で出てくるだろうか、と桜は一樹の名前を入れた。ちょっとした好奇心で。
そこで見たのは一樹がドイツで活躍していたピアニストだと言うことと、そしてその頃、日本で離れて暮らしていた妻が大学生と心中をしたと言う記事だった。当時は少し騒がれていたようだったけれど、一樹もコンサートをキャンセルしたりと、表舞台に出なくなったらしく話題も沈静化するとともに、一樹のキャリアも止まったようだった。桜は死んだように生きている一樹のことがそれで納得できた。
「ねぇ。どうして死んだ人に生きてる人が殺されなきゃいけないの?」
桜は声に出して言ってみたが、誰も答えないし、自分にも分からなかった。
いつも山崎と夜に待ち合わせて行くのに、一樹は今日は飲みに行くのを断った。その代わりパンを抱えて電車に乗った。もう桜は帰っていて、家にいないはずだけど、明日の分のパンまで食べられてしまったので、パンは買わなければいけないのだが、それにしては多すぎた。真っ暗な家の前に立って、ポストに鍵が入ってるのを確認する。やはり帰ったのだろう、と一樹は誰もいない家に入った。パンを抱えてリビングまで行くがソファには誰も寝ていなかった。パンをテーブルの上に置こうとして、小さなメモがあったのに気づく。
「ご飯(二重線で消されて)パンありがとうございます」
飲みに行けば良かっただろうか、とふと思った。しかし一度帰ったので、もう外に出ていく気持ちになれなかった。リビングに置かれているピアノの前に座る。今日、課題だった熱情を弾いた。ベートーベンはモーツアルトの軽さはないが、心を揺さぶる音楽がある。難聴だったからこそ、彼は自分の音楽を自分の世界の中だけで追い求められたのではないだろうか。フォルテをいくつも並べて楽譜に書くと言う行為はきっと彼の中にある音を表現するなら、それしかなかったのだろう。ペダルを多用して音が濁るような表現、貴族のダンスには不似合いな音楽。あるいは神に捧げるにしては騒々しい嵐のような展開。宮廷音楽や、宗教的役割とは違う音楽ー、つまり芸術作品としての音楽を作り上げた。難聴であるが故に自分の中から純粋に生み出した音をつなげて音楽を作り上げる。何度となく訪れる苦難から立ち上がり、今でも演奏され続ける数々の作品を生み出したー。
手が止まった。
(いつまでこうしているんだろう)
ベートーベンとは違って、いつまで立っても立ち上げれそうにない自分にため息をついた。ふと、折れた桜の木を見る。まだ柵もそのままにしてある。せめて柵だけでも横にずらそうと、庭に降りた。
月光が明るくて、ふと見上げると、アパートの壊れたベランダに腰掛けている桜がいた。思わず息を飲み込んでしまう。
「いい夜ですね」と困ったような顔で声をかけてきた。
「…帰ってなかったんだ」
「駅まで歩けなくて」
「タクシー呼んであげるから…」
そう言うと、ずりっと外側に迫り出してきた。
「ちょっと、待って」
一樹は物置に仕舞われている三脚を取り出した。慌てて桜の木の下にそれを立てて、登ってみるが、微妙に届かない。
「ロミオとジュリエットみたい」と笑う。
「そんなにいいもんじゃない」
結局、三脚は役に立たず、玄関から出て、アパートまで迎えに行った。何もないアパートの一室で、月明かりに薄く照らされた桜が座っていた。
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