第2話 綺麗な月


 妻のブルーグレーのワンピースを着た桜を見ても、一樹は何も思わなかった。あまりにも妻と似ていなかったからだ。バレリーナをしていた妻は首も長く、手足は細い。桜はとても健康的な体つきをしているし、顔立ちも全く違う。丸く大きな目と愛嬌のある桜とは違って、妻は目が涼やかで線の細い印象の顔立ちだった。

「あの…すみません。これお借りして」

「いいよ。帰るのに、服、必要でしょ? 消毒自分でできる? 湿布いる?」

 桜は頷くと自分で消毒をし始めた。足は少し腫れてはいるが、骨に異常があるようには見えなかった。

「明日、病院行く? 僕、仕事があるから付き添えないけど」

「…。あの荷物だけ渡さないと。病院は保険証もないし」

 そしてなぜ他人の荷物整理をしていたのか、桜から話を聞いた。別れていた彼の荷物を律儀にも整理していたという話は一樹には理解できなかった。

「いくらなんでも…お人好しすぎる気がするけど」

 そう言うと、少し笑って俯いた。

「浮気相手の写真とか出てくるかなって思ってたんですけど、私が書いた手紙とか写真とか…それが靴の空き箱に詰められてて。それはゴミに出しましたど」

「え? ゴミに?」

「自分で書いた手紙だし…。持って帰るのも、ちょっと」

 確かにそれはそうかもしれない。痛いのか、ちょっとずつしか消毒液が塗られていない。

「あの…。ソファで構わないんで。ここで寝てもいいですか?」

「え? それはちょっと…」

「あの部屋、学の匂いがして」

 確かにベランダが開け放たれていた。それに桜は足首に湿布を貼って、痛みをアピールしている。よくよく考えれば柵が古かったのも原因だ。損害賠償を求められてもおかしくはない。借主ではないから、微妙ではあるけれど。いろんなことを考え、とりあえず、眠たい気持ちが勝ってしまい。そこで寝ることを許可した。

「ピアノ…聞こえてました。それを聞いてたら、お月様が見えて、もっと見ようと体を柵にもたせかけたら…」

 ピアノ弾いていた一樹に原因があると言うのだろうか…。開けっぱなしにしていたピアノの蓋を閉じて、「おやすみなさい」とだけ言って、二階に上がった。そして何も考えないようにして、目を閉じてそのまま意識を手放した。


 朝、いつものように目を覚ましたけれど、昨日のことが現実とは思えなかった。飲み過ぎて、夢でも見ていたのかもしれない、と思って一階に降りた。とても静かだったが、リビングのソファの上で桜はぐっすりと眠り込んでいた。声をかけようかと思ったけれど、そのまま離れる。桜の寝顔には涙の跡が残っていた。

 朝ご飯を一人分だけ用意するのが、なんとなく躊躇われて、目玉焼きを二つとハムもフライパンに入れた。コーヒーの匂い、パンの焼ける匂い、フライパンからは油の匂いが漂い、かなりの音も出ているというのに、起きる気配がない。相当疲れているのだろう。荷物もまとめるのだって、かなりの労働だ。

「生きてる…?」と不安に駆られた。

 何かで読んだことがあるが、酔っ払って、頭を打って、そのまま家に帰って、朝、布団の中で冷たくなっているという話がある。まさかと思って、近寄ってみた。ちゃんと呼吸してるのか、しゃがんで顔を近づけてみる。

 微かに息がしている。死んだように眠っていただけだ。安心して立ちあがろうとした時、桜は目を開けた。

「何もしてないから。生きてるか確認しただけ」

 聞かれてないのに、言い訳をした。バネのように飛び起きて、桜は辺りを見回した。そして一樹に抱きついた。

「え?」

「生きてる!」

「ちょっと」

 一樹は力を入れて体を離した。

「ごめんなさい。怖い夢を見て…。どうして」

「夢?」

「…夢。でも…どうして」

 手で顔を覆って、そのまま仰向けにソファに倒れた。

「どんな夢だったの?」

「…首、締められる」

「首?」

「学に…」

「…大丈夫? 水、持ってこようか?」

 返事はなく、ぶつぶつと呟いている。

「どうして? 学…」

 とりあえず水をコップに入れて持ってくることにした。持ってきた頃にはちゃんとソファに座っていた。

「私、恨まれてるのかな…」

 コップを受け取りながら、聞いてきた。

「浮気したのは相手なんだろ?」

「…そうですけど」

「疲れたから見た夢じゃない?」

 首を少し傾げて、水を飲んだ。

「ご飯…食べれる? 一応作ったんだけど」

 そう言うと少し元気になったように「昨日の夜から何も食べてないのでお腹すいてます」と言った。

 パンとハムエッグだけという簡素な朝食を並べると、喜んで席に着いた。

「コーヒーしかないけど、いる?」

「はい。あの…牛乳入れてください」

「牛乳は温める?」

「そのままでいいです」

 一樹は言われるままコーヒーに牛乳を入れて、渡した。嬉しそうに受け取って、無言で食べ始めた。余程お腹が空いていたのだろう。あっという間に平らげたので、一樹の分の目玉焼きも差し出すと、それも勢いよく食べてしまった。

「トースト…もう一枚焼こうか?」

 コーヒーを飲みながら、頷いたので、トースターに一枚入れた。

「仕事があるから、鍵はポストの中に入れておいて」

「あ…はい」

「荷物の立ち会い済んだら帰るんでしょ? 今日、遅くなるから」

「お仕事はどんな仕事ですか?」

「…ピアノの先生」

 会話を終わらせるために、一樹はトーストを差し出して、そしてピアノの前に座った。ここに座るといつも周りとの見えない壁ができる。一切、周囲のことに気が取られることなく、音に集中できる。今日の公開レッスンの課題曲の練習を始めた。

 桜はトーストを食べながら、ジャムがあればいいのにな、と思った。そして大きなガラス戸から裏庭を見る。木の枝と柵と…昨日はそこに自分もいた。夜で見えにくいとはいえ、相当な衝撃だったはずなのに、一樹は大して顔色も変えずに近づいてきた。今も何事もなかったようにピアノを弾いている。ちょっと首を傾げて一樹を見た。確かに生きているのだけれど、まるで死んでるような気がした。死んでいる学でさえ、生き生きと夢の中で首を絞めてきたと言うのに。自分の首を触る。どうして桜が苦しめられなくてはいけないのだ、と思い返して、腹が立ってきた。

「でも…」

 昨日の夜、柵に腰をかけて月を見て、もっと見ようと反り返った時、(落ちるかもしれない。それでもいいか)と思ったことは誰にも言えなかった。そして宙に浮んで見た月は綺麗だった。手を伸ばして掴もうとしてみたけれど、地球の重力はかなり強く、身をもって桜は地球が引っ張っていることを知った。

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