星影ワルツ
かにりよ
第1話 優しい光
荷物が綺麗に片づけられ、段ボールの箱が山積みになっている。これを明日、引き取りに来る業者に渡したら、
三ヶ月前まで恋人だった学はもういない。大学へ進学して、遠距離恋愛になったけれど、日に日に連絡が途絶えて、二年目あたりから浮気をしていた様だった。桜も気がつくのが遅くて、短大を卒業し、就職して働いていたある日、学の携帯から女性の声で電話がかかってきた。
「学さんと別れてください」
どうやら二年も浮気をされていたらしい。確かに連絡が途絶えていたが、長期休暇には帰って来ていたし、帰ってきた時は普通にデートもしていたからだ。でも浮気を知ってからは、そんな人とは付き合いきれないし、まして学はまだ三回生なのだから、当分、浮気相手の側にいる。就職だって、地元に戻るとは限らない。
桜は悔しくて、悲しくて、辛い気持ちだったが、どう考えても別れしか選択できなかった。浮気していた学に別れを電話で告げたのに、何事もなかったように、学はまた電話をかけてきていた。特に復縁を言い出す訳でもなく、日常会話をだらだらと話そうとするので、いい加減、桜も呆れて、着信拒否をしたのが最近だった。
その翌日、バイク事故で学は命を落とした。
高校の頃からの付き合いだから、学の家族とも仲良くしていた。別れたことは言っていなかったから、息子を亡くして傷心していた学の母親に頼まれて、桜は学の部屋を片付けに来た。
隣の家からピアノの音が聞こえる。誘われるように開けっぱなしのベランダに出た。隣は小さな庭がある一軒家で、古い造りながらもステンドグラスの窓が付いている扉があって、今ではレトロだけれど、昔はおしゃれだったんだろうな、と桜は思った。聞いたことのあるメロディが流れてくる。タイトルを知らなかったが、後にバッハの平均律だと知った。一軒家とはいえ、こんな夜中なのにピアノを弾いているのはこのアパートの大家が住んでいるからだ。鍵を最後に渡すように言われていた。格安アパートにはそれなりの理由がある。学は毎日、このピアノを聞いていたのだろうか。上手いけれど、騒音に感じる人もいるはずだ。不意に視線を感じて、空を見上げると、満月に近い月が登っていた。ほんのりと慰めるような光を投げかけてくれる。
どんなに遅くなっても、
「娘が大きくなって、口もきいてくれなくなってー」とラジオディレクターをしている
彼とは駅前のバーで知り合った。一人で飲んでいると、一人見知りしない山崎から一樹に話しかけてきた。
「へぇ、ピアノの先生してるんだ。じゃあ、お坊ちゃんだ」
初対面なのにずけずけ言われたが、不思議と嫌な気持ちにならなかった。
「確かにお金には困ってないですね」
「はぁ、羨ましい」とため息を吐きつつも笑っている。
気を遣うことなく話しかけてくるので、付き合いが楽で、しかも随分、気がまぎれる夜を過ごすことができるので、一緒に過ごすのは嫌じゃなかった。最近は山崎の旧知のママがやっているというスナックで待ち合わせすることが多い。山崎の独身時代からの付き合いだというので、少し訳ありじゃないだろうか、と思っているが、一樹にとってはどうでもいい話だった。
そのスナックのママはいつでも現役を感じされられる色気がある。赤いマニキュアが綺麗に塗られた爪、肩あたりでカールさせた髪、唇だけで笑う笑顔。
「桜木さんにだけ、どうぞ」と肉じゃがの小鉢を出してくれる。
「はぁ、僕にもくださいよ」と山崎がいうと、
「あなたは奥さんのご飯を食べなきゃ、でしょ?」と言って、ピーナツの小皿を置いた。
「まぁ、奧さんのご飯は最高ですからね」
「それならさっさとお帰りなさい」とにべもなく言う。
「桜木君と二人になりたいから?」
「あら、そうよ。分かってるなら、さっさとお会計しなさいよ」
「来たばっかりなのに。…ひどいなぁ」とピーナツを摘んだ。
そして中学生になった娘が冷たくなったとぼやきだす。小さい頃はパパっ子だったと言い張るのだが、それは山崎の主観であって、本当のところは誰にも分からない。
「子供ってそんなもんじゃないの?」とママは水割りを作りながら言った。
「彼氏でもできたら、正直どうしていいのか分からない。俺に似ずに奥さんに似てるから美人なんだ」
「そう?」と全く興味なさげに相槌を打って、水割りを渡してくれた。
「桜木君みたいにダンディだったら、違ってたかな」と受け取った水割りを一口飲んで、山崎が言った。
「一緒だと思うよ」
「ダンディについては否定しないんだ」と山崎が笑う。
「…否定しようか?」
「ぜひして欲しい」
「やだ桜木さんはダンディよ」と赤い唇が横に引っ張られた。
どうでもいい話を延々と続けていると、相槌を打つのが面倒臭くなるが、それでも構わず喋ってくれる山崎の側が心地よかった。
だから今夜も一緒に過ごして、そして帰って来て、ピアノの蓋を開けた。娘がいるってどんな感じだろう。きっと年頃の娘だったら、一樹も嫌われる自信があった。娘がいたとして、正直、何を話せばいいのか分からない。そんなことを思いながらバッハの平均律を弾いていると、縁側のガラス戸から見える木が揺れて、鈍い衝撃音が聞こえた。一瞬、無視しようと考えたが、泥棒の可能性もあるので、様子をそっと見ようと縁側が見えるガラス戸から覗く。小さな裏庭に存在し得ない長い金属とそしてポニーテールをした人間が落ちていた。生きているのか分からなくて、しばらく見ていると、少し動いたので、ガラスの引き戸を開けて縁側から降りて庭に出た。
「…大丈夫ですか?」と声をかける。
「…うう」
うめき声は聞こえるが、返事はしてくれない。若い女性で、近づくと擦り傷だらけで、血が出ている。
「救急車、呼びましょうか?」
手が微かに振られて、どっちと判断すればいいのか分からない。そもそも誰かも分からないし、もしかしたら泥棒かもしれない。でも金属の棒を見ると、それが隣のアパートの二階のベランダの一部だという事が分かる。隣のアパートを見上げると、ベランダの柵の上部分が取れていた。あの部屋は…確か男子学生が住んでいたはず。でも事故で亡くなったから解約されると不動産屋から連絡が来ていた。
もそもそと仰向けになった。
「…疲れました」と落ちたままの状態で瞬きもせずに、空を見上げたままで言った。
「え?」
目が
「…放っておいてください」
「あの…血が出てますけど。痛いところは…」
「体も…心も…痛いです」
一樹はため息を吐いて、もう少し近寄って、少しも動かない女性の横にしゃがんでみた。
「ここに入られても…困るんですけどね」
「…そうですか」
そうは言ったものの、微動だにせずに夜空を見ている。
「頭…打ったと思いますけど、お名前とか言えますか?」
「…塚本…桜です」
「生年月日いえますか?」
「十月二十二日生まれ…二十一歳になりました」
先週、誕生日過ぎたんだな、と思いつつ、とりあえず頭は大丈夫そうだと思った。
「念の為、救急車呼びますね」と電話しようとすると
「もう…疲れたんです。ここで寝ます」と言って、目を瞑った。
「それは困ります」
「…保険証ないです。明日、アパートの荷物引き取りにくるから…立ち会いもあるし」
「あの…とりあえず、歩けますか? 動けそうですか」
そう言うと、目を開けて、初めて一樹を見た。それまでずっと星空を見て、空に話しかけていた。
「…誰? 神様?」
「…桜木一樹です。この家に住んでいます」
「あぁ…。そっか。大家さん」と言って、ようやく上体を起こした。
「大丈夫ですか?」
「木が…折れてしまって申し訳ないです。途中で枝に掴まって…それで」
確かに枝も折れている。
「病院、行かなくて、大丈夫ですか?」
「明日、荷物引き取りにくるので、行きません」
「…僕も明日は仕事があるので、代わりはできませんし…。消毒くらいの処置しましょうか? その後は部屋にお戻りください」
ゆっくりと起き上がると、足を捻ったのか歩きづらそうだったので、肩を貸して、縁側から入って、すぐのリビングのソファに座らせた。服も敗れていて、そこから出ているとこは傷だらけで、砂もついている。
「…先に綺麗にした方がいいかな?」と一樹が聞くと…
「シャワーお借りしていいですか? ガスももう止めてしまって」と言われた。
「いいですけど…」
「着替え…あの鞄にあるんですけど…」
一樹はため息をついて、鞄を隣のアパートまで取りに行った。アパートは綺麗に段ボールが積まれて、月の光が差し込んで、青い影を作っていた。小さなボストンバッグが一つあったので、それを持って家に戻った。リビングに入ると、髪を解いて、膝を抱えてソファの上に座っている。
「これであってますか?」と鞄を差し出すと、頷いた。
タオルも何もなさそうなので、新しいものを用意して、渡した。お礼を言って、案内した浴室に入って行った。この部屋に他人がいるなんて変な気持ちがしたが、コーヒーを淹れて落ち着くことにした。酔いも冷めかかっている。幸い、明日は朝一の授業はない。受け持ちの生徒を思い出して、ベートーベンの曲をさらうことにした。弾いていると、バスタオル一枚で出てきたので、「え?」と瞬きをした。
「あの…着替え。下着しか入れてなくて。Tシャツか何か貸してもらえないですか?」
一樹はなるべく見ないようにして、通り過ぎて、二階へ上がった。久しぶりに入ったその部屋は誰も使っていない。週一で来てくれる掃除の人は掃除機をかけてくれているが、住んでいない部屋は何となく静かで、動かない空気が溜まっている。一樹はクローゼットを開け、そこから適当にワンピースを取り出した。久しぶりに触る生地に何の感動も覚えなかった。
「これでよかったら…」と渡すと、驚いたような顔を見せる。
「…妻の…亡くなった妻の服で悪いけど」
自分がどんな顔をしているのか、分からないが、黙って受け取り、そのまま脱衣所に戻って行ったから、平然と見えたはずだと思いたかった。でも一瞬、見えた表情が凍っていて、何となく知っている感情のような気がした。
多分、絶望が似ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます