第10話 孟秋①

 夏の終わりが近付いてきた。

 ルグォスのそこかしこに不穏な空気は満ちていた。

 レガシー小父のもたらした知らせの通り、ルグォス島のあちこちで奇妙な出来事が相次ぎ、そのために大勢の人々が思いがけない災害に遭ったり命を落としたりした。

 その日の昼過ぎになってやっと、シドはフィースとフィーナの姉妹と共にモバダの港に上陸することができた。

 科学の街と呼ばれるこのモバダはルグォスに属する小さくもなく大きくもない島だが、殊に科学が発達していることで有名だった。ルグォスの他の街からすると大がかりな魔法かと思うような技術を駆使して王宮を空中に建造しており、王宮と城下とは昇降装置エレベーターで結ばれていた。この昇降装置エレベーターの周囲には螺旋階段が巡らされており、さらにその外側を分厚い硝子の壁が包むような形になっていた。港からでも、この何本もの巨大な硝子の柱ははっきりと見えた。

「あの柱のどれかに、秘密の階段があるのね」

 小さな声でフィーナが呟く。

「一番太い柱だって母さまが言ってたわ」

 と、フィース。

「今日のところは下見にだけ行っておこう。それからゆっくり休んで、明日、確かめに行けばいいよ」

 シドは二人に声をかけると、さっさと歩き出す。

 船を下りてすぐにシドは、地元の水夫らしき男に声をかけていた。男は港近くの宿を教えてくれた上、ちょっとした世間話も三人に洩らしてくれた。

 水夫の話によると、ルグオで噂の女騎士がこのモバダにやってきているらしいのだ。そしてその女騎士は、王宮への閉ざされた道を捜し出すため連日、あちこちの昇降装置エレベーターを調べて回っているのだと言う。しかし今までのところ彼女が王宮に辿り着いたという噂を耳にした者はいないし、王宮の人々がこの地上に降りてきたところも誰一人として目撃していないから、女騎士の行動は徒労に終わっているのだろうと水夫は言った。

 フィーナはこの女騎士の話を耳にして、警戒心を露にしたようだった。

 オーヴの探究は、古くから多くの冒険者たちが憧れたものだ。この女騎士がそんな人間の一人でないとは限らない。

 しかしシドには、その女騎士が真のオーヴの探究者であろうと、単なる冒険者の一人であろうと、そんなことはどうでもいいことだった。

 シドが気にかけているのは、誰かと戦わなければならなくなった時のことだけ。女騎士とは戦いたくない。もしその必要が生じたなら、できるだけ穏便に事を済ますことができないものかと、シドはあれこれ考えながら宿へと向かったのだった。




 翌日から、柱の捜索が始まった。

 レガシーとノマが来た時から柱は新たに増設されており、太い柱と言ってもどれが一番太い柱なのか判断がつかないような状態になっていた。

 有難いことにだいたいの位置は見当がついたから、そのあたりの柱を片っ端から虱潰しに調べていくと……夕方近くになって一本の錆びれた柱に行き当たった。柱の周囲には蔦が絡みつき、人の手の届かないところには小鳥の巣らしきものが見え隠れしている。雨が降った時にでも跳ねが上がったのか、柱の下のほうの金属でできた部分は錆びついている。

「本当にこの柱なのかしら……」

 と、フィース。

「わからないわ。

 鍵が合うかどうかが問題ね」

 フィーナが言葉を返すのを尻目に、シドは鍵穴を捜して蔦や泥と格闘している。

 しばらくして蔦と錆と泥の中から鍵穴を見付け出したフィーナが、上ずった声で言った。

「あったわ、あった。ここよ」

 フィーナが、両親から前もって渡されていた鍵を錠に合わせる。

 少しばかりの力を必要としたが、錆びれた錠は素直に音を立てて開いてくれた。

「ここかな?」

 シドが呟く。

「ここは……抜け道なんかじゃないわ」

 柱の中へ一歩足を踏み入れたフィースが断言した。

「でも、秘密のルートがあるって言ったのは母さまだわ。

 それとも、あたしたちがその柱を間違ったって言うの?」

 フィーナが食い下がる。

「確かに昔は抜け道として使われていたけれど、もう随分長いこと使われていないわ。

 今は結界が張られてて……そう、神聖な場所。とても神聖だわ、ここは」

 フィースは、シドが滅多に見たことのないような様子をしていた。シドが彼女のこういった状態を目にしたのは、精霊との交信をする時だ。それも数える程しか見たことがないから、はっきりとは言い切れなかったが。

「あたしたちが入っても大丈夫かしら」

 と、フィーナ。彼女は、フィースの言葉を聞くや態度を改めた。古代魔法使いとはいえ、魔法を扱う者としての礼儀はわきまえている。魔法を扱う者たちは特に結界の張られた場所に関して敬虔だ。それは魔法を使ったものに対する礼儀であり、また、精霊たちに対する作法でもあった。

「大丈夫よ。これは、風の精霊王の作り出した結界だわ。

 風の精霊王はあたしたちを呼んでいる……」

 夢見るように、フィースは呟いた。

「どうして?」

 魔法に関しては全くの素人のシドが問いかける。

「風の精霊王は確かに呼んでいるわ。

 あたしたち……いいえ、あたしを……」

 そう言い終わるか終わらないかのうちに、フィースの姿はシドの目の前から突然かき消えてしまった。

「フィース!」

 シドは慌ててフィースが立っていたあたりの空間を掴もうとしたが、手ごたえは何もなかった。

「大丈夫よ、シド。きっとフィースは、結界の中に紛れ込んだんだわ」

 落ち着いた様子で、しかしわずかながらも焦燥感を滲ませ、フィーナは言った。まるで自分自身に言い聞かせているかのようだ。

「僕らはどうしたらいいんだよ」

 シドが言うのに、フィーナは返した。

「あたしたちにできることは待つだけよ。フィースがここに戻ってくるのを、じっと待つのよ」




 長い時間が過ぎた。

 いつの間にか空には星が出ていた。そして、月が。

 モバダの城下に広がる空は人工の空だ。城下を覆うようにしてちょうどそのままの形で真上に空中宮殿が建設されていた。宮殿の地下にあたる部分が城下の空にあたるのだ。

「もう夜なのね」

 ふと気付いたフィーナが一人呟く。

「フィースは大丈夫なのかな」

 階段に座りこんだシドが言った。

「そんなこと、あたしに言われたって……」

 柱の入口近くに立っていたフィーナが苛々と返した。フィーナは、フィースの心の声を捕らえることができなくなっていた。おそらく結界が二人の心の声での対話を阻んでいるのだろう。そしてそのために、フィーナはいつも以上に怒りっぽくなっていた。

「あたしは精霊使いじゃないんだもの、精霊の結界に入った人間が次に出てくるまでどれぐらいの時間がかかるかなんて解らないわ」

「でも、水の精霊と交信ができるだろ、フィーナは」

「出来るけれども、それとこれとは別よ。水の精霊だけは特別なの、あたしにとっては」

 確かにフィーナは水の精霊と交信をすることが出来たが、他の精霊との交信は一度も成功したことがなかった。一時は、自分は絶対に精霊使いになるんだと心に強く決めていたほどだが、成長の過程で自分からは他の精霊とは全く交信ができないこと、水の精霊たちからの干渉がなければ交渉ができないといったことが明らかになるにつれて、自分は精霊使いの器ではないのだと確信するようになっていった。

「……ごめん、フィーナ」

 シドは、フィーナが困ると知っていながら、あんなことを言ってしまった。フィースの姿が消えたその時から、シドは苛々していた。自分がついていながらこんなことになってしまったという思いでいっぱいだった。その苛々をこんな風にしてフィーナにぶつけてしまうなんて。フィーナだって……いや、フィーナのほうこそ、心細いだろうに。

「あたしたち、落ち着かないといけないわ」

 シドの言葉に軽く頷き、フィーナは深呼吸をした。それから階段のほうへとゆっくり歩み寄り、すとんとシドの隣に座り込んだ。

「待ちましょう、フィースが戻ってくるまで」




 フィースは風の精霊王が作り出した結界の中にいた。

 結界の中は辺り一面が淡いレモン色をしていた。爽やかな風が常に吹いており、時間の流れを感じることは出来ない状態にあった。

 精霊王は不在だったが、フィースはあるものを見付けた。

 ゆらゆらと浮遊する一つの球体。

 黄色い光を放ちながら、それは、フィースのほうへと漂ってきた。

「これは……」

 掌の中にちょうど収まるぐらいの大きさのその球体は、まさに幼い頃から両親に聞かされていた、オーヴ……?

 フィースがそっと両手を差し出すと、オーヴはゆっくりと掌の上に降りてくる。まるでオーヴそのものに意思があるかのように。

「……オーヴだわ」

 混沌の中、世界に均衡と秩序を取り戻すため、オーヴは再びこの世に現れたのだ。

 唐突に、フィースの頭の中に女性の声が響く。




【一人は騎士ナイト、一人は戦士ソルジャー、一人は盗賊シーフ、一人は僧侶プリースト、一人は古代魔法使マジシャンい、そして今一人は、精霊使い《ルーンマスター》……】




 ……今一人は、精霊使い。

 フィースは顔を上げ、辺りを見回した。確かに人の気配がしたと思ったのだが、しかし気のせいだったようだ。いや、もしかしたら風の精霊王はここに、姿は見せずに存在しているのかもしれない。

「あたしが、オーヴの担い手の一人……」

 フィースが呟くと、オーヴはそれに応えるかのようにほのかに点滅を繰り返した。

「風の精霊王よ、あたしが風のオーヴをここから持ち出すことをお許しください」

 祈るようにフィースが言うと、一陣の強い風がさっと吹き上げてきた。咄嗟にフィースは片手で顔を覆わなければならないほどだった。

 次にフィースが目を開けると、そこは階段の途中だった。螺旋階段の途中、上へ上へと続く階段の向こうに扉が見えている。きっとあの扉の向こうは、モバダの王宮の地下になるのだろう。フィースは下に残してきたフィーナとシドのことを思って下を見遣ったが、ただ階段だけがぐるぐると蛇のように柱に巻きついているだけで何も見えない。

 階段を降りて行くよりも昇るほうがいいと判断したフィースは、しっかりとした足取りで扉を目指す。

 あっという間にフィースは階段の最上段に辿り着いた。

 そして扉は、年若い精霊使いの手によって開かれることとなった。




「結界を抜けたわ」

 薄闇の中で不意にフィーナが言った。

 シドは身じろぎもせずにじっと次の言葉を待つ。

「フィースは今、空中宮殿へと向かっているわ。しばらくここで待ったほうがよさそうね」

 つい少し前にシドが空の様子を見に行った時、空は東のほうから白んできていた。夜明けが近いのだろう。

 結局、柱の中でフィースを待ち続けた二人だったが、途中でシドが気を利かせて近場の料亭まで食料を調達しに行ったおかげで、空腹だけは気にせずともよかった。フィーナのほうは心配のあまり食が進まなかったが、とりあえず、いつでも動けるようにと無理に口に運んでいたようだ。

「結局、一晩中待ち惚けだね」

 ほっとしたように、シド。

「そうね、とにかくフィースが無事でよかったわ」

 気が抜けたのか、フィーナも口許に微かな笑みを浮かべている。双子の心話の力は再び元に戻り、そのせいかフィーナもだいぶん落ち着いていた。

「これから宮殿に入るから宿で待機しててほしいって、フィースが言っているわ」

 心の接触を保ちながらフィーナは、自分の片割れの言葉を口にする。

「了解。

 じゃ、戻ろう、宿へ」

 シドは言葉を返しながら内心、大喜びだった。宿に戻れば柔らかなベッドがある。一晩中、階段に腰かけたり歩き回ったりしたのは失敗だったと思い始めていたところだったのだ。

 フィースの提案は、シドにとって非常に嬉しい提案となった。

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