第4話 追い縋るもの
真っ暗な闇。
深くて、それはそれは暗い闇。
誰も助けてはくれない。
誰も、彼のことを気にかけてくれるものなどいない。
一人として、彼を必要としてくれる者などいやしないのだ。
暗闇は、彼が一人きりになるのを待ち構えている。
彼が何もかもすべてを諦め、世界から隔絶される瞬間を。
そうして。
闇は、彼をどうするつもりなのだろうか……。
※※ ※
影が追いかけてくる。
真っ暗な、吸い込まれてしまいそうな暗闇が十三歳のシドを追いかけてくる。
逃げようともがけばもがくほど、影は、シドをしっかりと捕らえる。逃げられないように、じわじわと追い詰めにかかる。走っても走っても続く夢は、シドを闇の迷路に陥れた。逃げようとして必死に走るのだが、足は思うように動いてくれない。
冷汗とも脂汗とも区別のつかない汗でじっとりと衣服は湿り、その感触はべたべたとして気持ち悪かった。
「母さん……父さん!」
自分の声ではっと我に帰り目を覚ますと、見慣れた自分の部屋だった。夜明け前の清々しい風がどこかから入り込んできている。
そっと起き上がり、シドは明かり取りの隙間を広げた。
さっと一陣の風が吹き込んできて、濁った空気を一新してくれる。
さっき見た夢は、心の中にしまっておこうと、そうシドは決心した。闇が追いかけてくるなんて、そんな子供じみたこと誰にも話せやしない。それに、普段から憶病だ、気が弱いと皆に言われているシドだから、余計にそんなことは言えなかった。
闇に追いかけられる夢を見たなんて。
夢の中で、足枷が嵌められたかのように重い足を引きずりながら、シドは一心に走った。助けを呼んでも誰も助けてくれない夢の世界には、ただ索漠とした恐怖しか存在しなかった。
走って走って、どうにも逃げきることはできないのだと諦めた瞬間、闇はシドに襲いかかってきたのだ。
母親が家の中の用事をしている間に、シドは、森へ出かけた。
ツベトァは砂漠の街だが北の端に森があった。もともとはオアシスだったらしいのだが、長い長い歳月が何種類かの木々を生い茂らせ、緑の大地を作りあげていた。
香草や薬草を集めるのがシドは好きだった。幼い頃から母親の幼馴染みでもあるノマ小母に色々と教えてもらったおかげで、随分とたくさんの種類を覚えた。草々を集めるためならシドは、普段は昼間でも近付こうとしない森の奥まで足を伸ばしもした。
今朝方の夢のことがあるから、絶対に日が暮れるまでに家に帰ろうと心に決め、シドはあちこちを散策して回る。
止血に使う薬草、解熱に使う香草、煎じてただ香りを楽しむもの、料理の時に味付けに使うもの……と、予定していたよりも多く採取したところでシドはふと空を仰ぎ見た。
朝早くに出てきて、昼は家から持ってきたパンですませた。なるたけ森の奥にはいかないようにと気を付けてはいたのだが、気付かないうちにかなり奥のほうまで来ていたらしい。高木に阻まれ、空が遠くに感じるほどわずかにしか見えないのだ。
それに、太陽は少しずつ傾き始めていた。
慌ててシドはもと来た道を足早に戻り始める。
陽が落ちるまでに、家に帰り着くことができるだろうか。いや、せめて陽がまだ空にあるうちに森を抜け出すことができるだろうか。
こんなことなら馬に乗ってくればよかったと、シドは思った。いつもは森の入口近くにある岩場で薬草を採取するものだから、今日もそのつもりで、馬を連れてくるところまで頭が回らなかったのだ。
どちらにしても、今さらそんなことを思ったとしても手遅れだ。今は少しでも早く、この森から抜け出さなけばならない。
何としても、陽のあるうちに……。
あの夢のように、闇が……影が、追いかけてこないという保証はどこにもない。
憶病だと、気が弱いと罵られても、馬鹿にされたって構わない。
影に捕らえられてしまうことを考えれば、はるかにましだ。影に捕らえられた後は、真っ暗な死の世界がぽっかりと燠のように仄暗い口を開けて待ち受けているだけ。
シドはまだ、死にたくはなかった。
……逃げなくちゃ。
影から。
できる限り急いで森を抜け出し、さらさらと足にまとわりつく砂の大地を力の限り蹴って、家へと走り続ける。
太陽は地平線の向こうに降りようとしている。
……早く……一刻も早く、できるだけ早く。走らなきゃ。
息を喘がせ、シドは走り続けた。
背後で、影たちがざわめき出す。夢の続きのように、じわじわとシドとの距離を詰めるかのように。
こんな時はどうすればいいのだろうか。
母さんや父さんは、こんな時、どうやってやり過ごすのだろうか。ただ逃げるだけなのだろうか。それとも、果敢に戦うだろうか。
「もちろん、戦うさ……母さんや父さんなら」
口の中で呟いて、シドは更に走る足に力を込める。
もう少しだ。
あと少しで、家に帰り着く。
安全なことこの上ない、安らぎの場所。
息が切れて膝ががくがくし始めても、シドは走る速度を落とすようなことはしなかった。全速力で走り続けた。
太陽は半分近くが地平線の彼方に沈んでいた。
影たちは嬉しそうにざわざわと騒ぎ始めた。もう間もなく、夜の帳が世界に降りる。彼らの獲物は、疲れ果てている。消耗しきっていて彼らに手向かうだけの余力も残っていないような有様だ。
向かい風に乗って影たちは、シドの足をもつれさせようとした。
※※ ※
走れ、走れ。
もっと走れ。
急いで走れ。
走り続けろ。
影たちは逃げ惑う獲物を追い詰める。
逃げない獲物は獲物ではない。
恐怖が影の喜び、影の新たなる力を生み出す。
影たちは待っている。
獲物が手に入る瞬間を。
※※ ※
家が見えてきた。
もう一息で暖かな我が家に辿り着くことができる。
シドは足に力を込め、大地を蹴った。
太陽は沈もうとしていた。今しも、太陽の最後の輝きが地平線に吸い込まれていこうとするまさにその瞬間に、シドは家のドアを力いっぱいに開け放ったのだ。
「ただいま、母さん!」
必要以上に大きな声でシドは帰宅を告げる。そして影を追い払うかのように騒々しくドアを引く。
ドアはバタン、と大きな音を立てて閉まった。
「お帰り、シド」
普段はおとなしいシドが珍しいことに勢いよく家の中に駆け込んできたので、母親は驚いたような表情で息子を出迎えた。
「ただいま。
晩ご飯はなに? 僕、お腹が空いちゃって……」
ほっとしてシドは、母親に話しかける。
「先に手を洗っておいで。ああ、それから、その汚れた服も着替えてくるんだよ」
埃だらけの姿に母親が顔をしかめるのも構わずに、シドは安堵の笑みを洩らした。
家の中にいれば、安心だ。
「はい、母さん」
お行儀よく返事をして、シドはお湯を使いに奥の部屋へと向かった。
寸でのところで獲物を取り逃がした影たちはしばらく辺りを漂っていたが、そのうちに夜も深まってきた。
影たちは一度逃した獲物に執着するという習性がなかったので、千々に飛び散り、別の場所で、別の獲物を狩った。
シドはいつしか影たちのことを忘れ去り、この日のことも夢だと思うようになった。途切れ途切れに覚えているのは、何だかわからないが怖いものに追いかけられたような気のする夢だったのだ、と。
しかしこの経験が、後に重大な事件にまで発展するだろうとは、十三歳のシドにはまだ、知り得ることもないのだが……。
※ ※※
一陣の風が闇を運ぶ。
どこから?
誰も、わからない。
誰も、知らない。
ただ、暗く冷たい死者の臭いを含んだ影たちが、
西の方角からやってくることだけはわかっていたのだが。
大地を屠ろうとする何者かの存在に、
人々はまだ気付いていない。
もちろん、伝説の者たちも、いまだこの地に不在である。
誰もがまだ、闇の中に蠢く何者かに気付くことなく、
安穏とした生活に甘んじているのだった。
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