第3話 一片の勇気③

「案内するって、いったいどこへ案内するつもりなんだ?」

 不意に現れた青年がトリスの腕をぎりぎりと掴み上げる。

「やだ、痛っっ。

 離しなさいよ」

 トリスは青年から逃れようと腕を振り回そうとする。

「大方、金品目当てなんだろう」

 母親のカザラが仕事に出る時のような傭兵独特の格好をした青年は、容赦なく少女の腕を捻る。

「ここにあった宿は、ついこの間、店じまいしたところだろう。違うか?」

 青年がそう言うと、トリスは急にきまり悪そうな顔になる。

「世間知らずの坊やから、何を巻き上げるつもりだったんだ?」

 青年の言葉にトリスは縮こまっておとなしくなった。暴れれば暴れるだけ、捻りあげられた腕が痛むのだ。しかしその表情は険しく、唇は怒りに打ち震えている。

「日銭を稼ぐなら、もっとまっとうなやり方があるだろう」

「うるさい!

 あんたなんかに関係のないことでしょう」

 勇敢にもトリスは青年を睨みつけると、渾身の力を振り絞って捕まれたままになっていた腕を振り払う。

 そうして、最後にシドをぎっと睨んでから、トリスはその場から走り去ったのだった。




 残されたシドと青年の間に、どこか気まずいような空気が流れたが、先に口を開いたのは青年のほうだった。

「ここにあった宿はつい先だって店じまいをしたぜ。主人が代替りした途端に商売が行き詰まってな、何もかも全部売っ払っても借りた金が返せないから、夜の間にどこかへ逃げてしまったって話だ」

 と、いうことは、だ。

 今から別の宿を当たってみなければならないということだ。

「そうですか。わざわざありがとうございます」

 シドは、足元の小さな荷物を背負いながら礼を言った。

「ここが駄目なら、次の宿に泊まるつもりでしたから。どうもご親切にありがとうございました」

「ああ、いいってことよ」

 青年はそう言うと、軽く手を振ってどこへともなく歩き始める。鮮やかな青い髪が遠目にも目立ち、その後ろ姿はシドの目に焼きついた。




 ムオゼコ・ワーフでのアクシデントに警戒心を募らせたシドは、昼の間はとにかく進めるだけ進むことにした。それも、全速力で。

 かなりの無茶をしていることは自覚していたが、それ以上に一刻も早くレガシー小父の家に辿り着きたかったし、何よりも、これ以上のアクシデントはご免だった。

 そういうわけでシドは、アーデロへの一本道を、飛ぶように馬を走らせ続けた。

 無事にレガシー小父の家に着いたときにはシドは、やっと着いたという安堵感と精神的、肉体的疲労とがごちゃまぜになった状態だった。

 お湯を使わせてもらい、ノマ小母の手料理を全部平らげ終えたころには上の瞼と下の瞼がくっつきそうになっていて、早々にベッドに潜り込ませてもらったぐらいだ。

 ここ何日かの間でやっと、シドは安らかな眠りを手に入れることができたのだ。




 翌朝、シドは香ばしいパンの匂いで目が覚めた。

 ノマ小母の作る料理は絶品だ。母親が料理下手なので余計に、彼女の作る料理が豪華なものに思えてくる。実際、シドの母親はパンを作らせると粉っぽいかべちゃべちゃしているかのどちらかであることが多く、そうでない時にはパンの表面が真っ黒に焦げていて、外側は食べられたものではないという状態だった。

「シド、朝食の用意ができてるわよ」

 ノックと共に部屋の外から声をかけてきたのは、シドより一つ年上のフィーナだ。

「おはよう、フィーナ。

 すぐに食堂に行くよ」

 慌ててシドはベッドから抜け出し、身仕度を整える。昨日までの気楽な一人旅は一時中断されたのだ。せめて母親に頼まれたものをレガシー小父に渡すまでの間だけでも、整然としていなければ。

「おはようございます」

 食堂に入る時に、シドは言った。

「食事の時間に遅れてしまってごめんなさい。ベッドがとても気持ちよかったから、つい、寝過ごしてしまいました」

「あら、シド。もっとゆっくり休んでいてもよかったのよ?」

 優しく微笑みながら、ノマが声をかけてくる。

「ありがとうございます。でも僕、母さんから用事を言い付かってきてるんです」

 シドはそう答えながらも、食卓にレガシーが着いていないのを見て取っていた。

「あの、レガシーおじさんは出かけられたんですか?」

「あら残念ね。

 ついさっき、ルグオに向けて出発したばかりよ」

 とは、フィーナ。

「ええっ、ルグオに?」

「寺院からのお呼びで、しばらくは帰ってくることができないんですって」

 フィーナの双子の姉、フィースが言葉を引き取った。

「本当ですか?」

 シドは席に着きながら、ノマに尋ねた。

「ええ、そうなの。

 大僧正様が何か大切なお話があるそうだから、来月にならないと帰られないのよ」

 少し寂しそうにノマが言い、それを慰めるかのようにフィースが

「大丈夫よ、母さま。

 来月なんてあっという間だわ」

 と、シドの分のスープをよそいながら言う。

 フィースとフィーナの二人は、双子だ。シドの母親やレガシー小父なんかの話では、二人とも母親のノマの若い頃によく似ているということだ。もっとも性格のほうは姉のフィースは父親に似て人当たりがよくて愛想がいいのだが、妹のフィーナのほうは気が強く男勝りな一面があり、対照的な双子だった。シドの父親が言うには、フィーナの性格は母のノマの毅然とした面がもっとわかりやすい形で表面化したものだろうということなのだが。

「あの……僕、母さんに頼まれものをされていて……レガシーおじさんにどうしても渡すようにって言われてきたんです」

 ほくほくのパンやスープに心の中で賛辞の言葉を並べ立てながら、シドは口を開いた。

「おじさんが帰ってこられるまで待たせてもらってもいいですか」

 シドの母親カザラは、ノマの幼馴染みだ。そのせいかお互いの家族間の交流も頻繁で、シドはこれまで双子たちとは本当の兄弟のような感覚で付き合ってきた。レガシー小父もノマも、実の息子のようにシドを可愛がってくれているし、もちろんシドも、二人のことをもう一組の両親のように思っていた。

「ええ、構わないわ。

 あなたがいてくれると賑やかで楽しくなるわ」

 スープのおかわりを勧めながらノマは返す。

「そうね。

 シド坊やは野兎や鳥を狩ったこともないんだものね」

 くすくすと笑いながらフィーナ。

「昔のことだろ、それは」

 過去の不名誉な記憶を思い起こしたシドはその場しのぎに慌てて口にした香茶にむせ返ってしまい、結局のところ食事が終わるまで頬の赤みは納まってはくれなかった。




 こうしてシドはしばらく、アーデロのレガシー一家の屋敷に世話になることになった。

 世界は穏やかで、平和に満ち満ちていた。誰もが心安らかな日々を送っている……そんなふうに皆、思っていた。

 少なくともシドは、そう信じていた。

 しかしレガシー小父の帰宅と共にもたらされることになる知らせが、世界の均衡がゆっくりと歪み始めた前触れの一つになろうとは、この時はまだ、誰一人として考えもしなかったことだ。

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