第2話 一片の勇気②

 翌日は、砂嵐など嘘のように遠ざかってしまい、からりと晴れたいつもの街に戻っていた。

 朝早くからシドは母親と二人で荷物をまとめ、馬に鞍などをつけた。二人で協力したおかげで、少し早目の昼が終わった頃にはいつ出発してもいいような状態になっていた。

「母さん、いつでも出発できるよ?」

 葦毛の馬を引き、シドは母親に声をかけた。

「そうだね……じゃあ、届けものを取ってくるからちょっと待っててくれるかい、シド」

 そう言うとカザラはいそいそと家の中に姿を消す。しばらくして彼女は、神妙な顔付きで戻ってきた。その手には小さな皮袋を下げている。

「この中にはね、シド、大切なものが入ってるから……だから絶対に、間違いなくレガシーに届けておくれ。

 中の手紙も一緒に必ずだよ。いいね、シド」

 いつになく厳しい声で母親は告げ、シドは力強く頷いた。

「うん、わかった」

「じゃあ、道中気を付けて行くんだよ」

 母親の忠告にもシドは頷くだけだった。




「行ってくるよ、母さん!」

 軽く手を振って、馬上の人となったシドはツベトァを後にする。

 アーデロへは両親に幾度となく連れていってもらった。どの道が安全で、どの道が近道か、シドには目を閉じていてもアーデロへ行くことができるぐらいだった。いや、このルグォスの街から街を結ぶ主要な道という道はほとんどすべて、シドの頭の中に入っている。幼い頃から両親に連れられ、あちこちを旅した経験のおかげだ。

 だからシドはまず、一番の近道を行くことにした。日暮れ前に安全な道に切り替え、どこかで宿を取る。明日の朝はまた、昼間は近道、日暮れ前が近付いたら比較的安心のできる道に戻り、宿を取る。その繰り返しでアーデロまで行けばいいだろう。母親と二人で旅をしなければならないときはいつも、この方法で距離を稼いだものだ。

 それにしても、と、シドは溜め息をつく。

 母親の突飛な行動には慣れっこになっていたはずだが、今回の件に関してはシド自身は考えてもいなかったことなので、酷く驚いた。これを言われたのがもっと早い時期だったなら、そう驚きもしなかっただろう。十五の今になって言われたから、驚いたのだ。シドはシドで、自分は母親の信頼を得ていないのではないかと心配していたぐらいなのだ。自分が信頼されていないから、気が弱く頼りにならないから、これまで一度として母親に用事を言いつけられたことがないのだと思っていた。

 今回のことは喜んでいいのだろうか。

 母親が自分を認めようとしてくれているのだと、そう、自負してもいいのだろうか。

 レガシー小父に渡す皮袋の感触を指で確かめたシドは、嬉しさのあまり自然と口許が緩んでくるのを感じたのだった。



 ツベトァからアーデロへ行くには、ムオゼコ・ワーフの街を通過しなければならない。道の選び方によっては、海岸線にそってカズィの街を通過しなければならない必要性も出てくるだろう。現在のところはムオゼコ・ワーフを通過した後にアーデロに入り、そのままレガシー小父の家まで続く大きな街道を真っ直ぐに馬を走らせればいいだけなので、できるものならばこのまま何事も起こらずに終わってほしいものだとシドは願っている。

 しかし、あとわずかでアーデロだというところで事件は起こった。

 事件というか、事故というか。災厄は不意にやってきた。一人きりの旅に慣れてきたところで、シドにも気の緩みが出てきていたのかもしれない。それとも、相手のほうが一枚どころか二枚も三枚も上手だったのだろうか。

 とにかくそれは起こってしまったのだ。

 ちょうどシドが最後に泊まる予定の宿に到着する寸前のことだった。




 背負い袋に詰めた、少ないが軽くもない荷物を手に提げたシドは、馬を引き引きお目当ての宿を探すのに夢中だった。

 宿の名前を書いた紙を空いているほうの手に握りしめ、ふらふらと歩いていたのだ。傍から見ると、なんとも頼りなげに見えたことか。

「ちょっと、あんた」

 そうこうするうちに背後から声がかかった。

 きょとんとしてシドが振り返ると、赤毛の少女がシドを見つめている。

 くりくりとした大きなオレンジ色の瞳。シドよりも頭一つ分ぐらい背が低いが、大人びた表情をしている。親しげに微笑みかけ、彼女は口を開いた。

「ねえ、さっきから何をうろちょろしてるのさ」

「宿を探してるんだ」

 シドはそう返すと、再び手の中の紙に目を馳せる。

「どこの宿? 連れて行ってあげようか?」

 少女はそう言ってシドにまとわりついてくる。

「いや、いいよ。自分で探せるから」

 立ち並ぶ建物の看板や表札を一つずつ確認しながら、シドは宿を探す。

「ねえ」

 少女がシドの袖を心持ち強く引っ張った。

「ねえ、あたしはトリス。トリス・ノア・イシュっていうの。

 あんたは?」

 このいささか強引な問いかけでシドは仕方なく紙から目を上げ、少女のほうに視線を移すしかなかった。

「僕はモハズ・ヨ・シド」

 それだけ口にするとシドは、今度は建物の表札をじっと検分していく。今日は朝から強行軍を通したので、少しでも早く宿に入り、部屋でゆっくりとしたかった。明日、もう一日距離を稼げば、予定よりも早くアーデロのレガシー小父の家に到着できるはずだ。

「ちょっと、ねえ。

 あんた、なんであたしの顔見て喋んないわけ?」

 すかさずシドの目の前に回り込んだトリスは、大袈裟に腕を広げた。

「他人に喋りかけられたら相手の顔を見て喋るもんじゃないの?」

 言い掛かりだと思いながらシドは、荷物を足元に置く。連れていた馬は苛々と足踏みをした。

「悪いけど僕、忙しいんだ。君の親切はありがたいけれど、宿なら自分で探すから放っといてほしいんだ」

 シドが言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は大声を張り上げた。

「ちょっとちょっと、なによ、その言い方!

 人が親切に声かけてあげてんだからさ、もっとマシな言い方したらどうなのよ?」

 シドの傍らで馬が、神経質そうに耳をパタパタとさせている。

 いくら自分よりも年下の女の子とはいえ、見も知らぬ人間に案内を頼むのはどうかと思われた。母親がいたらうまいことやり過ごしてくれるだろうけれども、現実はそうではない。シド一人で何とか乗り切らなければならないのだから。

「あたしは毎日、宿の案内をして日銭を稼いでるんだから、その稼ぎを減らすようなことはしないでくれる?

 さあ、宿の名前を言いなさい」

 居丈高にトリスは命令した。

 さすがのシドもむっとせざるを得なかった。

「嫌だ。

 自分で探す」

 返しながらシドは、彼女の言葉に疑問を感じていた。

 宿の案内をして日銭を稼ぐのはいいとして、もしもこの辺りに宿が複数あったならどうなのだろう。どこの宿に案内されるかわかったものではない。それに必ずしもこちらの希望する宿に案内してもらえるとは限らないのだ。別の宿に連れていかれ、無理やり泊まらされる羽目になるかもしれないし、もしかしたら宿なんかではなく、人気のないところでトリスの仲間が待機していて、彼女についていった間抜けな人間を身ぐるみ剥いでしまおうという魂胆なのかもしれない。

 どちらにしても気をつけるに越したことはないだろう。

「なんですって?

 なんでよ、なんで?」

 トリスはわざとらしく騒いでみせた。

「案内するって言ってる人間を疑うなんて、あんた、どういう人間?」

 大げさに腕を振り回しながらトリスがわめきたてる。

 困ったようにシドは言い淀むと、その場に立ち尽くしてしまった。

 母のカザラは少しは名の知られた傭兵で、こういう時にはたいてい、ひと睨みすればすべて解決していたのだ。

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