七つのオーヴ
篠宮京
第1話 一片の勇気①
砂嵐がやってくると言い出したのは誰だったか、今となってはそんなことを思い出すだけの余裕すらない。
とにかく誰かが言い出したのだ。「この三日以内に砂嵐がやってくるから、表には出るな」と。
カザラはそれを、十五才になる息子のシドから聞いたように記憶している。街の誰かだったかもしれない。いや、もしかしたらカザラの記憶違いで、夫のイズゥから聞いたのかもしれない。その夫は今、仕事でツベトァを離れている。砂嵐の噂で街中がごった返しているというのにわざわざ仕事に出かけなくてもとカザラは思ったものだが、どうやら火急の用だったらしい。噂をものともせず、旅支度を整えるとどこへとも言わずに、さっさと出かけてしまった。
「まったく、いつもいつも身勝手なんだから」
小言じみていると思いながらもカザラは呟いた。
夫のイズゥは身勝手だが、若い頃から傭兵稼業を続けているカザラには最高の相棒だった。盗賊稼業を生業とするイズゥには、カザラが正規のルートで得る以上の情報を手に入れることができた。互いの伝手で仕事を回してもらうことも、情報を譲ってもらうこともあるから便利なものだ。
とにかく内縁の夫婦とはいえ、カザラはイズゥに対してほとんど不満を持っていなかった。気がかりと言えば、二人の間にできた息子シドのことで、この子があまりにも気弱なことが心配と言えば心配だった。
この子が女の子ならば、カザラもそんなに心配はしなかっただろう。男の子だから心配なのだ。五体満足で産まれてきて、大病らしい大病や命に関わる大怪我にも遭わずに十五年間育ててきた子だが、二人の子供にしてはあまりにも憶病すぎた。かといってこの子が不徳の産物であるわけでもなく、褐色の髪や瞳など、外見はどちらかというとカザラに似ているほうだった。
時期が来れば男らしくなるだろう。カザラはそう思うようにしていたし、実際、イズゥや他の友人たちとの会話でも、こういった内容の言葉をよく交わしていた。
そう。時期が来れば。
だけどその時期を作ってやるのもまた親の務めではないかと、カザラは最近、そんな風に思い始めていた。
何かきっかけだけでも与えてやることができれば。そうすれば後は、シドの心がけ次第になってくるのではないだろうか。カザラの与えるきっかけで、シドがいい方向に変わればと願わずにはいられない。もちろん、変化がなければそれはそれでいいのだ。急激な変化を求めるのは危険だ。かえってシドを、悪い方向へと向かわせてしまいかねない。
だからゆっくりでいい。
焦らず、怒らず、気長に。
昼間だというのに陰気にどんよりと曇りきった空をちらりと見上げ、カザラは密かに考えた。砂嵐が止んだら、息子のシドをアーデロに住まう親友のところへ使いに出そう、と。
あそこなら、安心だ。
「シド、お前はアーデロに行くんだよ」
砂嵐がやってきた日の夜、母親のカザラは腰に手を当てて仁王立ちになるとシドにそう宣言した。
「え……?」
前置きもなくそう言われ、シドは一瞬、頭の中が真っ白になった。
母親の言葉はいつも突然だ。そして、父イズゥの言葉以上に絶対的な力を持つ。「言うことを聞かないなら、表に放り出すよ」そんな風な脅し文句でもってしてしつけられた幼い日々。普段は優しい母親が怒るのは、シドが言うことを聞かない時だけだ。
「アーデロのレガシーに急いで届けなければならないものがあるんだけど、シド、届けてくれるかい?」
「僕一人で?」
「そう。お前一人で、だよ。
砂嵐が止んだらすぐにでも出発してほしいんだけど、頼めるね?」
母親の言葉は、暗に強制を示している。
「うん………わかった」
母親が何故、唐突にこんなことを言い出したのかシドにはわからなかった。しかしその頼まれものが何であれ、母親がシドに届けてほしがっていることだけは理解できた。
「荷物は何を用意したらいい?」
シドが尋ねるとカザラは、優しく微笑んで返した。
「明日、二人で一緒に揃えようね」
それから寝る時間がきて、シドはベッドに入り込み、カザラはよく眠れるようにと言ってシドの額にキスをした。
シドは母親の手前寝たふりをし、家中の灯りの最後の一つが母親の手によって消されるまで待ってから、そっと目を開けた。
暗闇の中では自分の呼吸音がやたら大きく聞こえることに、シドはすぐに気付いた。息を潜めて呼吸をするのだが、自分が起きているのが母親に察知されてしまうのではないかと思うぐらい呼吸音は大きく響いた。
静まり返った闇の中で目を開けていると、次から次へと疑問が沸き上がってきた。
どうして母さんは、砂嵐の真最中に僕に頼み事をしてきたのだろう。それも、届けものをしてほしいだなんて。届けものがあっても今までは、母さんと二人で出かけていた。父さんがいる時には、父さんも一緒に三人で。それなのに今回に限って何故、一人で?
一人。
一人で行くことに何か重大な意味でもあるのだろうか。
それともただ単に、これはシドの気の回しすぎなのだろうか。年齢的にも幼くはないし、それで、一人で届けものをするよう言われたのかもしれない。シドももう十五才なのだし、アーデロのレガシー小父のところの双子の姉妹は十二、三才の頃から二人であちこちに出かけていると聞いたこともある。
それにもしかすると、これは何かの試験なのかもしれない。一人で何がどこまでできるかを試すための旅なのかも。母親がシドをこういう形で試す時は、必ずと言っていいほど父親が不在の時だった。父親がいると何か都合が悪いのか、それとも……。
シドは小さく儚げな溜め息をつくと、仕方ないなと目を閉じる。
自分がアーデロへ出かけることはもう決まっていることなのだ。
いくら嫌だと言っても、あの母のことだ。許してくれるはずがない。
行くしかないだろう。
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