第5話 前兆

 暗闇の中、蠢くものがあった。


 それは何を示しているのか。


 何を、呼んでいるのか。


 朝日が地平線の向こうから戻ってき、


 森に陽の光が射すころには蠢くものも姿を消してしまうが、


 それでも、夜がくるとそれはまた、やってくる。


 やってきて、森を支配しようとする。


 暗闇の中に存在するすべてを、手に入れようとする。


 誰もまだ、気付いてはいない。


 誰もまだ、それを見たことはなかったけれど。




   ※※ ※




 すごく遠いところで、誰かが、警告の言葉を発している。

 呼んでいる。叫んでいる。

 それだけは確実に分かるのだけれど、何故なのかが分からない。

 フィース・コ・ギィーワは姿見に映る自分の顔をじっと見つめ、小さく、溜め息をついた。肩までの銀髪と、暗青色の瞳。外見は母親の若い頃そのものだと皆から言われるが、人当たりがよく、愛想のいいところは父親似だ。そんなことぐらい、フィースでなくとも皆、知っているだろう。

 精霊使いの母と僧侶の父との間に産まれたフィースは、双子の片割れフィーナの姉でもある。幼い頃から両親の友人やら村の人たちの優しい気持ちに囲まれ、もちろん両親からもたっぷりの愛情を注がれ、何不自由なく育てられてきた。それなのに、こんな自分にも不満があるなんて……。

 なんて贅沢なのだろうかと思いながら、フィースはもう一度、溜め息をついた。

 今、自分が悩んでいることは、誰にも話すことはできないのだ。特に両親には。

 幼い頃から聞かされてきた両親の旅の続きが自分の夢に出てくるなんて、そんなことは絶対に、言えやしない。

 そう。

 フィーナにも。

 双子の妹フィーナとの間には、この十六年間、一度だって秘密を作ったことがない。

 だけど、今は違う。先週からの喧嘩はまだ続行中で、両親が間に入ってくれたとしても、しばらくは仲直りする気にもなれそうになかった。

 いつもなら真っ先にフィーナに相談しているのだが、原因さえ忘れてしまったような些細な喧嘩のせいで、それすらできないでいることが酷く辛いことのように思われた。さっさと謝って、仲直りをしていればよかったと思っても後の祭りで、今さら、どうすることもできないのだから。

 誰かに相談したかった。

 途切れてしまった両親の旅の続きを、フィースが毎夜、夢に見ているのだということを……。




   ※※ ※




 目覚めのない闇の国を、フィースは歩いていた。


 暗く、寒い国。


 永遠の闇。


 ……ここは、どこ?


 そう思って辺りを見回してみても、何も見えない。


 圧迫されそうな真の闇。


 少しでも気を抜けば、その瞬間に押し潰されてしまいそうな。


 ……逃げないと。


 そこで、はっと目が醒めた。



   ※※ ※




 明け方の空が木戸の向こうに見えている。

 フィースは静かに起き上がると、反対側で眠っている自分の片割れを起こさないように、ベッドからそっと抜け出した。

 精霊のざわめきを感じることのできるフィースは、多分、母親に近しい存在としてこの世に産まれてきたのだろう。

 母親は精霊使いで、特に水の精霊たちから愛されている。

 フィースは母親と違って風の精霊を守護に育ったが、やはり、幼い頃から精霊たちに愛されていることを心で感じていた。

 中でも、朝の風に乗ってやってくる風の精霊たちは、フィースがその日一日を、平穏無事に過ごすことができるようにと願いの言葉を囁いてくれる。精霊の願いの言葉は、力ある僧侶の護符と同じぐらいに威力がある。どれぐらいの威力があるのかと言うと……実際には気休め程度のものなのだが、それでも、フィースは精霊の願いの言葉も、僧侶の護符も、自分にとっては大切な宝物のように思っていた。

 今朝の精霊たちはしかし、どこかおかしい。

 落ち着きがないというか、集中力に欠けるというか……。

 家の外に出て朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、それから宙へと両腕を広げて、フィースは精霊たちにおはようの挨拶をする。

 なのに精霊たちは、何かに気を取られているのか、上の空でフィースの言葉を聞き流す。

 こんなことは今までに一度だってなかったし、フィースには信じられないことだった。

 朝焼けは夕焼けのように赤黒く、重々しかった。風は濁った澱を含み、微かに生臭かった。あたりには腐った肉のにおいがしていた。

 まるで、どこかで悪い何かが始まろうとしているかのような、そんな感じがする。

 ……旅に出る前、母さまもやっぱり、こんな妙な感じになったことがあるのかしら。

 考え、それからフィースは弱々しく首を横に振った。

 そんなことはない。悪いことなど、決して起こるはずがない。そうフィースは、辛抱強く自分自身に言い聞かせた。

 自分がこんなにも不安になっているのはきっと、フィーナとの仲が拗れたままだからだ。だから精霊たちもフィースのもやもやとした気持ちに影響を受けているのだろう。きっとそうだ。早く仲直りをしなければ。

 朝食の前にはフィーナに謝って、仲直りをしよう。そうすればきっと、この不安も、何か悪いことが始まるような気持ちも収まるだろう。




   ※※ ※




 まだ、早い……


 誰かが言った。


 誰なのか。


 誰にも、分からなかった。


 ……何が早いのか、


 誰にも、何も、分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る