鳥【エッセイ風】

 子供の頃、私は鳥のように空を飛べると思っていた。大空を自由に飛び回る鳥たち。私は、その仲間だと思っていた。

 木々に止まるふっくらしたスズメ、初夏だけやってくるツバメ、公園の鳩、電線の上のカラス。大きさや色が違っていても、同じくみな空を自由に飛び回る鳥は、普段地べたをベタベタと歩いている私の、本来あるべき姿だと思った。私は飛べるはずだった。

 公園の、すべり台の一番上にのぼって、冷たい柵を乗り越える。柵は錆びていて、鉄臭い。後ろ手に柵をつかんで、胸を張って、大きく宙に飛び出した。私はそのまま飛べるはずだった。でも、私の体には合わないとしか言いようのない重力が重すぎて、実際には飛べず、砂っぽい地面に着地した。キュロットが埃で汚れる。

 高さが足りなかったのかもしれない。そう思った私は、次は自転車置き場の上にのぼった。近所のマンションにある自転車置き場で、トタンの屋根がついている。すべり台より高い。ざらついたトタンはでこぼこしていて歩きにくいけれど、端まで来ると視界が良かった。私は両手を広げて、胸を張って、大きく飛び出した。そのまま飛べると思った。でも、私はまた地面に着地した。今度はコンクールだったから、足首が少し痛かった。着地したとき手もついたから、少しすりむいた。

 やっぱり高さが足りないんだ。そう思った私は、自宅の二階の窓から身を乗り出した。この高さなら飛べるかもしれない。すべり台より、自転車置き場より、ずっと高い。隣の家との隙間は狭いけれど、見上げると空は美しく晴れ渡っていた。この、家と家の間の狭い隙間をツバメのようにススーっと通り抜けてあの空へ飛び出そう。そう思って窓を乗り越えようとした瞬間、母がすごい勢いで私を捕まえて、窓を閉めた。最初は感情的に、しだいにとつとつと私を諭すように母は、高いところから飛び降りてはいけない、と説明した。

 もう少しで飛べたかもしれないのに、とそのときは思った。

 小学生になる頃には「鳥のように空を飛べる気がする」というようなことは口に出してはいけないことだとわかってきた。口にするたび、大人が眉をひそめるのだ。親が、親戚が、近所の大人が、学校の先生が、少し困った顔をする。ああ、これは言ってはいけないことなんだ。これを言うのは「変」なんだ、と思うようになった。私は口には出さないことにした。空気を読むことを覚えた。それでも、私の中の鳥は変わらずにずっと存在していた。

 庭にくるスズメには、米と水場を与えた。うす茶色い羽根をばたばたさせながら水浴びをする姿は本当に愛らしくて、私も鳥の仲間ならいいのに、と心底思う。近所にたくさんいるカラスたち(ハシブトもハシボソもいる)は美しい黒で、あるとき空をうめつくすほどの大群を見た。そのとき、地上で一羽のカラスが何か猛禽類に襲われていた。カラスは仲間の危機に一緒になって立ち向かうと聞いたことがあった。集団で仲間を助けようとするカラスも、必死に弱肉強食を生きようとする猛禽類も、私にとっては憧れだった。あんな風に空を自由に飛んで、仲間と一緒に生きていたい。憧れはつのるばかりだ。鳩もかわいい。キジバトも土鳩もかわいい。平和の象徴と言われているけれど、公園や川辺でのんびりする鳩はまさに平和そのもので、こんな風に穏やかに健やかにいられたらどんなに素敵だろうと思う。

 あるとき、自動販売機の前で、地面をぐるぐる歩き回っている小鳥を見つけた。小さくて、羽が少し湿った小鳥は、何の種類かわからなかった。同じ場所をただぐるぐると歩きまわって、衰弱しているように見えた。私は保護して、野鳥をみてくれる獣医さんに連れていった。

「もともと脳が悪くて三半規管がだめになって自動販売機にぶつかったのか、自動販売機にぶつかった衝撃で脳を悪くして三半規管がだめになったのかはわからないが、とにかく脳に損傷があって、そのせいで三半規管が機能しなくなって、同じところをぐるぐる歩き回るしかできなくなっている。もう飛べないし、食べたり飲んだりできるかどうかもわからない」

 獣医さんの説明は、残酷だった。でも、それが事実なら仕方ないと受け入れるしかなかった。鳥ではない私には、どうしようもないことだった。

 その夜、夢を見た。小鳥は元気な姿で、私の手から飛び立った。私も小鳥をおいかけ、一緒に飛んだ。空はどこまでも広く、明るく、あたたかだった。眼下に広がる世界は、何もかもが小さくてちっぽけで、私たちには無関係だった。

 数日後に、獣医さんから電話がきて、保護した小鳥は死んでしまったと聞かされた。悲しい気持ちと、微かな安堵の両方があった。鳥に産まれたのに、空を飛ぶこともできずに同じところだけをずっとぐるぐるまわり続ける生き方は、生き続けられたとしても悲しいと思ったから、どちらが幸せなのか私にはわからなかった。私が決めることではないと思った。


 大人になって私は恋をした。私はその人に、私の中の鳥を知ってほしかった。鳥の私を知らないままに愛してもらっても、それは私を愛していることにはならない気がした。鳥の私を愛せないのなら、きっと一緒にいることはできない。私は、小学生の頃から言わなくなった「私は空を飛べると思う」ということを、とても久しぶりに口に出した。言葉にした瞬間、それはやはり事実だと実感した。

 好きな人は、私に小さなノートパソコンをくれた。

「君の中の鳥を、ここに綴ってごらん。きっと素敵な文章になるよ」

 私は、自分の鳥を文章で表現したことがなかったから、少し戸惑いながらキーボードに触れた。銀色のキーボードは冷たかった。


 私は、やっぱり鳥だった。

 文章を書き始めた私は、どこまでも遠くへ飛んで行った。雲を抜け、風を切って飛ぶのは実に気持ちのいいことだった。やっぱり飛び方を知っていた、とわかった。アルベロベッロのトゥルッリの上を飛び、イグアスの滝で水を浴びた。デッドフレイで乾いた風に吹かれ、上空はるか宇宙まで飛び、月へも行った。私はやっぱり鳥だった。小さな画面の中、私はどこまでも自由だった。憧れが本当になった。眼下に見える景色は小さくてちっぽけで些末で、飛んでいる私には無関係だった。もう二階の窓から飛び降りなくても、私は自由に空を飛べる。私は、私だけの翼を手にいれたのだ。

 庭にはあいかわらずスズメが水浴びにくるし、近所にはカラスがたくさんいる。鳩もいるし、メジロもいる。川にはカモもいる。ときどき大きなサギに会えると「おお」と声をあげてしまう。玉虫色のカワセミはときどきしか会えない。それでも私の大事な仲間たち。私はやっぱり鳥だった。そのことを実感しながら、私は今日も小説を書く。


【おわり】

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