香箱【不思議、ヒトコワ】

 美しいでしょう。これは、わたくしの家系の女に代々伝わる香箱なのです。曾祖母から祖母へ、祖母から母へ、そしてわたくしへ、嫁入り道具のひとつとして、この香箱は受け継がれてきたのです。漆塗りと聞きました。年季が入って艶が増しておりますね。本当にいいものは、年々美しさが増すと聞きますが、本当ですね。

 香箱は普通、香を入れておくものですよね。でも、この香箱は少し違うのですよ。ええ、香を入れるという意味では同じかもしれませんが、この香箱は、持ち主が世界で一番愛した人との記憶を、香りとして閉じ込めておける箱なのです。どうです、素晴らしいでしょう。人の記憶と香りは、密接な関わりがあるといいますからね。

 少し開けてみましょうか。大丈夫です。しっかり記憶してくれていますから、少し嗅ぐくらいで香りを失ったりはいたしません。ほうら、爽やかな森の香りがいたします。おそらく曾祖母が曾祖父からプロポーズされた湖のほとりの香りです。あまりの嬉しさに、すぐに香箱に香りをしまった、と話していたそうですから、素敵な記憶の香りですね。あたかも自分がプロポーズされたような、高揚した気持ちがよみがえるようです。

 ああ、次は火薬のような、煙のような香りがいたしますね。祖母の記憶の香りでしょう。祖父を戦火へ見送ったときの、悲しみの香りです。祖父は飛行機乗りだったそうですから、戻れないとわかったうえでの別れ。悲しく痛ましい香りですね。わたくしまで胸が切り裂かれるような香りです。どんなに悲しい記憶でも、愛する人の勇ましい姿を忘れたくないと記憶した香り。切なくも、愛した証の香りでしょう。

 次は、母の香りでしょうか。これはずいぶんと甘い香りですね。母が父と初めてデートした際に、映画館で買ったポップコーンのキャラメルの香りですね。キャラメルの甘さの中に青春のほろ苦ささえ感じるような、良い香りです。きっと、ふたりとも緊張していたのでしょうね。あのシャイな父のことです。きっとデートに誘うのも、奥手だったに違いありません。そんな父の思いもよみがえるような、甘くて良い記憶の香り。

 この香箱は、代々娘に受け継がれてきたものなのです。その香りは、誰にも嗅がせません。持ち主だけが香りを楽しみ、記憶を反芻し、思い出に浸り、愛する人をさらに愛する気持ちになる、というだけの、ただそれだけの香箱なのです。愛する人を愛する。その喜びに浸るだけの香箱なのです。それをなぜ今貴方に説明しているかって。そうですね。今からわたくしが、自分の記憶の香りを香箱にしまっておこうかと思っているから、ですかね。世界で一番愛した貴方との、一番忘れたくない記憶を。

 きっとこの記憶は、海風に乗った潮の香りになるでしょうね。そしてわたくしはこの香り嗅ぐたびに思い出すのです。世界で一番愛した貴方の、最期の姿を。

 ええ? 縁起でもない? 何を仰いますか。わたくしが、貴方の不貞行為を許すとでも思っていらっしゃるんですか? まさかね。わたくしが、そういう汚らわしいことを一番嫌っていると知っていらしたのに、よその女を抱いたりするから。当然の報いでしょう。でも、わたくしは世界で一番幸せ。世界で一番愛している貴方の、断末魔の記憶を香りとして残しておけるのですもの。きっとこの香箱を開けるたびに、貴方への深い愛情と、その怯えてもなお端正なお顔立ちを、ありありと手にとるように思い出せるのでしょう。今感じているこの抑えきれない興奮も、深い慈悲も、微かな官能さえ、香箱を開けるたびに思い出せる。わたくしは本当に幸せ。貴方の記憶は香りとともに香箱へ永遠に記憶できるのです。ああ、素晴らしい。

 大丈夫です。わたくしも鬼ではありません。貴方が抱いたあの女、先に海へ沈めておきましたよ。たまには逢瀬でも重ねたらいかがかしら。わたくしには香箱の記憶がありますから、そのあとのことはお好きになさって。

 では失礼しますね。なるべく痛くしますから、その渋い声で悲鳴をあげてくださいますか。その声も香りとともに記憶されます。できるだけ痛そうな声をあげてください。なるべく傷を付けますから、肌も血液で汚してください。海風の中に血の生臭さがまじるのも、うっとりする香りになるかと思います。わたくしが貴方をけっして忘れないように、せめて最期まで存分に愛させてくださいませ。

 あ! 何をするんです。その香箱は代々引き継がれている大事なものだと言ったじゃないですか。こっちに返しなさい。その香箱には、恐ろしい呪いがあるのです。いいえ、脅しじゃありません。おやめになったほうが身のためですよ。その香箱を壊した者は、香りにまつわる一切の記憶をなくすと言われているのです。それでも壊すというのですか? おやめになって! ああ、わたくしの香箱……!


 貴方、貴方、大丈夫ですか?

 ねえ、この香りを嗅いでみて。何か思いだすことがあります? ない? 何も? ふーん。そうですか。貴方があの女に贈った香水ですよ。あの女? 誰かって? いいえ、思い出さないのならそれでいいのです。香箱は壊れてしまいましたから、もう香りは記憶しておけなくなりました。でも、貴方がこの香水を嗅いでも何も思いださないのであれば、香箱を失ったとて惜しくなかったかもしれません。

 しかし、そうなるとあの女はとんだ死に損ね。まあ、それも悪くないか。ふふ。いえ、何でもないです。さあ、一緒に帰りましょう。香箱がなくても、貴方がずっと一緒にいてくださればそれでいいのです。ええ、わたくしは満足です。




【おわり】

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