未来の自分と誰かのために【青春】

 ケリーパッド、ピッチャー、バケツ、タオル、ドライヤー。目の前のベッドに寝ているのは患者役のミオ。

 私たちは看護学校の一年生で、今日は二人一組で洗髪の演習だ。


 授業はだいたいオンライン。でも演習は実際にやらないと意味がないから、今日みたいな猛暑でも演習室に集まって、窓を開けて換気をしながら、マスク姿で演習をする。


 私は、横になっているミオの髪にピッチャーでお湯を少しずつかける。

「温度大丈夫ですか?」

「はい」

 マスク越し、くぐもったミオの声。

「シャンプーしていきますね」


 シャンプーを泡立て、長い髪を丁寧に洗っていく。人の頭は意外と重い。患者役の学生は患者になりきるため、首をあげるなどの協力はしない。力を抜いているミオの頭を片手で支えながら、片手で湯をかけシャンプーをすすぐ。演習室は暑くて、マスクも暑くて、熱い湯を使う洗髪はなかなかハードで、すでに汗だくだ。


「あーちゃん、お湯漏れてる。首からお湯入ってる」

「え!」

 見るとケリーパッドから湯が漏れて、ミオの首元が濡れていた。


 ケリーパッドというのは、ゴム製の底のある浮輪みたいな洗髪道具。浮輪の一部からゴムが伸びて、それをつたって、ベッド下に設置したバケツに使用後の湯が流れていく仕組みだ。浮輪の部分に患者は頭を乗せて、横になったまま洗髪ができる。ゴム製で柔らかいので、気を付けないと首元から湯が漏れてしまう。


「ミオ、ごめん」

 演習だから良かったものの、相手が本物の患者様だったら「ごめん」じゃ済まない。一応ドライヤーまで一通りやったが、ミオの演習用白衣はびしょびしょだ。

「ほんと、ごめん」

「お互い様だって。はい、次あーちゃんの番だよ」

「うん」


 私は患者役になって、ベッドに横になる。ミオは上手に洗髪し、私の白衣は全く濡れることなく洗髪を終えた。


 それぞれ学んだ点や反省点を発表して、後片付けをする。私はバケツを洗いながらため息をついた。


「どうしたの?」

 ミオは隣でピッチャーを洗っている。

「こんな時代に看護師目指す私たちって、変なのかな」

「何、どうしたの?」

「久しぶりに高校の同級生から連絡あってさ、『本当に看護学校行ったんだね。こんな時代にわざわざ苦労しにいくなんて変なの』って言われて」

「言わせておけばいいんじゃない? どんな時代でも、私は夢を見つけられて良かったと思うよ。目標があるって、やっぱりすごくない?」

「そう……だよね。けど、私なんて洗髪もろくにできなくて、現場に出たらまわりに迷惑かけるのかなって思ったら、自信なくしちゃう」

 私の発言にミオも黙る。現場の厳しさは、二人とも知らないのだ。


「どうしたの?」

「あ、伊藤先生」

 伊藤先生は去年まで大学病院で働いていた元看護師で、今年から教育現場に来た。先生としては新人だが、看護師としてはベテランだ。


「先生、看護師の仕事って、大変でしたか?」

「仕事? うん。大変だったよ」

「やっぱり」

 私はまたため息をついた。

「どうしたの? 大変じゃないと思って看護学校来たの?」

「いえ、大変なのはわかっています。でも、高校の友達に『こんな時代に看護師目指すなんて変』って言われて。洗髪も失敗しちゃったし、働きだしたらまわりに迷惑ばかりかけちゃうのかなって思って」


 私の話を聞いて先生は、目だけでにっと笑った。マスクをしていても、先生は笑っているのが伝わる。それは、看護現場で、マスクをしながら目だけで相手に笑顔が伝わる笑い方なのだと、前に先生が言っていた。

「先生ね、新人時代、初めて病棟で洗髪したとき、患者様の服もシーツも、全部びしょびしょに濡らしちゃったのよ」

「え!」

「シーツまでびっしょり。ひどいでしょ。洗髪だけのはずが、更衣もシーツ交換も全部やることになって、患者様にとても負担をかけたことを覚えているわ」

「先生にもそんなことあるんですか」

「誰にでも失敗はあるのよ。その患者様は、その負担が増えた程度で体調に関わるようなご病気ではなかったから良かったけど、そうじゃない患者様もいらっしゃるから、それから何回も同僚に頼んで、練習台になってもらったわ」

 私は不思議な気持ちがした。何でもできるように見えるベテランの先生にも、そんな失敗があったのだ。


「仕事は大変よ。でも、とてもやりがいがあった。それを伝えたくて、私は教える道を選んだの」

 そう言って先生はまた笑った。


「でも、みんなには、絶対看護師になってほしいって、思っているわけじゃないの」

「そうなんですか?」

「うん。看護師はやりがいがあるし、学ぶことも多いとても良い仕事。でも、自分が体を壊すことになったら本末転倒。自分の体や心とちゃんと相談しながら、向き合いながら、やってもらえたらいいなって思ってるの」

「自分と向き合いながら」

「そう。学校も同じ。失敗しても、もっと上手になりたいなって思えれば、続ければいいと思う」

 にこやかに話す先生を見て、私は肩の力が抜けた。たかが一回の失敗で、へこたれる夢じゃない。演習は学ぶためにある。本物の患者様にやる前に、ちゃんと失敗できて良かったのかもしれない。


「先生、ありがとうございます」

「いえいえ。一緒に頑張りましょうね」


 笑顔になってバケツを洗う私を見て、ミオが笑いかけてきた。

「あーちゃん、一緒に頑張ろうね」

「うん。一緒に頑張ろう」


 換気している窓から、眩しい爽快な風が演習室を抜けて行った。



【おわり】

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