散りゆくものが美しいと言うならば【恋愛】
胃が痛い。さっきから、胃が痛い。
傷みを感じて初めて臓器がそこにあると実感する。痛みがなければ、胃も腸も心臓も勝手に活動しているだけなのだけれど、痛みがあって初めてそこにあると自覚する。痛みによって存在を自覚するならば、私は常に自分の存在を強く自覚していることになる。
何にせよ、今は胃が痛い。
真夏の夕方の草っぱらにレジャーシートを敷いて座っているからか、バイト仲間とせっかく花火を見るからと着てきた浴衣の帯が苦しいからか、ぬるくなった缶ビールがいい加減まずいからか、なごみが私の方を全く見ずに有沢くんとばかり喋っているからか。
「紙で人を殺してその紙をヤギに食べさせれば、証拠隠滅になるんじゃない?」
何の話題なのか、なごみが有沢くんに話しかける。
「人を殺せる紙の凶器って何?」
有沢くんが笑っている。なごみには殺したい人がいるのだろうか。
「なごみ、殺したい人がいるの?」
私の発言に、二人は一瞬動きを止め、同時に私を見てぷっと笑いだす。
胸が痛い。なごみの笑顔、覗く八重歯。
ツーブロックのショートカットに赤のインナーカラー、艶のある髪。複数個のピアス。暑さで微量上気した頬。アルコールで湿る唇は、スプーンですくって帯状に滴る蜂蜜のように連続的で濃く艶があり見るからに甘美。Tシャツの袖から見える二の腕は白く、我慢できる限界まで噛んで歯型をつけてみたい。胸は平均より小さいほうで、それでも足が長くスタイルは良い。
「まーちゃん、話聞いてなかったの? 小説の話だよ」
なごみが言う。
有沢くんは推理小説を書いていると聞いたことがある気がする。でも、忘れてしまった。私にとっては、なごみの話以外全てどうでもいいのだ。
「なごみのためなら、私、人殺してもいいよ」
誰にも聞こえないように呟く。それはまじないのような願いで、吐息にも似た濃度の高い言葉は周囲の湿度をあげて、私を更に蒸し暑くする。
「撲殺なら断然スパナなんだけどな」
有沢くんがまだ物騒な話をしている。なごみは煙草を咥え、ライターで火をつける。なごみの吸い込む煙になって肺の奥まで覗いてみたい。煙にさえ嫉妬する自分がいやらしくて、また胃が痛い。
「本当にここから花火見えるの?」
なごみが有沢くんに聞く。
「うん、英二がそう言ってたよ」
英二というのは、有沢くんの彼氏。有沢くんは英二さんのことを話すとき、本当に優しい顔をする。金髪に近いサラサラの茶髪を揺らして、楽しそうに、心底愛しそうに話す。私はなごみの話をするとき、どんな顔をしているのだろう。
「英二さん、何時頃に来られるの?」
「もうすぐ来ると思うよ」
「仕事忙しそうなの」
「そうでもないみたい。芹香ちゃんも来られたら良かったのにね」
有沢くんの発言に、私はすっと頭の酸素が減る。芹香ちゃん。その名前は、私にとっては忌み言葉に近い。否応なく、私がなごみの一番ではないと突きつけられる呪いの名前。
「芹香は今日、俳句同好会の日だから」
そう言って苦笑するなごみの「この顔も良い」と思ってしまう自分が悔しい。芹香ちゃんは、なごみのルームメイトだ。なごみと芹香ちゃんは本当にただの友達。なごみは異性愛者だ。芹香ちゃんがどれほど美人で善良で俳句を愛でるような感性の持ち主でも、なごみの恋愛対象にはならない。それはつまり、私も、なごみの恋愛対象にはならないということなのだ。
「あ、英二きた。おーい」
暗くなり始めた夏夜の気配の中、少し日に焼けた、癖のある髪を遊ばせているワイルドな男性が近付いてくる。彫の深い顔立ちで、イケメンといわれるタイプだろう。これで医者だというから、世の中は不公平だ。
「英二、花火に間に合って良かった」
英二さんが来るなり、しっぽを振り回す子犬のように喜びを余すことなく表現する有沢くん。有沢くんは、きっと英二さんが医者でもニートでも関係なく好きになったのだろうと思う。人は、何かの条件を満たしたときに好きになるのではない。たぶん、気付いたら好きになっているのだ。私が、なごみを好きになったように。
遠くでピューっという小さな笛のような音がする。
「あ」
みんな同時に空を眺めた。
大きな音とともに、空に花火が咲いた。咲いて、煌めいて瞬いて、散っていく。儚いものは美しいというけれど、なごみの後頭部越しに眺める花火の儚さといったら他に例えようのないほどのうたかたの瞬間だった。
「花火って、儚く散るからきれいだよね」
なごみが誰にともなく言う。
散りゆくものが美しいと言うならば、私の想いは常に美しいことになる。なごみを想うたび、私の感情は熱く燃えながらも行き場がなくて否応なく散ってゆく。この伝えられない想いは、いつもいつでも、私の中で散ってゆくだけ。そして痛みとなってその存在を訴えてくる。そんな私の秘めた想いは美しいのだろうか。
真夏の漆黒の空に、言葉にできない私の想いと主役を奪われた夏の星座たちが、花火の散りゆく美しさに霞んでいた。
【おわり】
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