七月七日、雨【恋愛】

 雨さえ降らなければ、私はこんなところで泣いていないのかもしれない。世界が終わるわけでもないのに、私の胸は痛いし、いい加減、涙が止まらない。


 私の通っている高校は、どの駅からも遠い。電車通学の生徒は駅からバス通学で、ほかは自転車通学。私は自転車通学で、雨の日以外は、炎天下も寒空の下も、自転車で走る。実際のところ電車とバスを乗り継ぐよりずっと楽で、授業のあと夕映えの川沿いを走るのは、なかなかに気持ち良い。イヤホンで好きな歌を聞きながら、ときには鼻歌を歌いながら、すいすいと漕ぐペダル。川からの少し湿った匂いが季節の移ろいを感じさせてくれる。


 柿田君に出会ったのは、高校二年生のクラス替えのときだった。ハンドボール部のエースで成績も優秀。目立つタイプの男子だから名前は知っていたけれど、同じクラスになって初めて、挨拶をする程度に、話すようになった。


 私には予感があった。それは、大した時間かからずに、柿田君を好きになってしまう予感。どこにいても目で追ってしまうし、自転車置き場の横からハンドボール部の練習を意味もなく眺めてしまう。占いの恋愛欄ばかり気にするようになったし、家に帰っても柿田君のことばかり考えている。友達に言ったら「それはもう予感じゃなくて、好きってことでしょ」と笑われた。


 そうか。私、柿田君のこと好きなんだ。一度意識してしまったら、もうダメだった。


 短い黒髪、制服の白いシャツに、少し汗をかいた首元。友達としゃべっているときの笑顔。授業中の真剣な表情。ハンドボールを投げるときの、俊敏な身のこなし。日焼けした腕、隆起する筋肉。何もかもが私の手にはあり余るほどの輝きを放っていて、私は心より奥、体の中心のもっと奥のほうから温泉でも湧いているのかと思うほど、熱い想いが常に溢れ続けていて、自分でも溺れそうであった。氾濫する感情に窒息する。どうにも抱えきれずに、手に負えない状態。


 そんな想いを、柿田君に伝えられるかといったらそんなはずもなく、いわゆるスクールカースト上位の柿田君と、クラスでも目立たない冴えない地味な私。「高嶺の花」は一般的に女性を指して使われるけれど、男の人には何て言うのだろう。ただ目で追っているだけでも頬が上気するような、身を焦がす存在。私にとっては、そんな人だった。



 制服が夏服に変わる頃、私は噂を聞いた。


「柿田君に彼女ができたらしい」


 それを聞いた瞬間、誰かが直に私の心臓をぎゅっと握ったのかと思った。


「へえ、そうなんだ。相手は?」


「ハンドボール部マネの千秋ちゃんらしいよ」


「へえ」


 平気な顔をしていたと思う。でも、動悸が激しかった。胸が押しつぶされている気がした。呼吸がしにくかった。人を好きになるって、こんなに苦しいんだ。



 七月七日。朝から雨。

 授業を終えた私は、いつも自転車で走り抜けている川沿いではなく、もわもわと空気のこもったバスに乗っていた。灰色のスカートは湿って重く、だから梅雨は嫌だと思った。せっかくの七夕なのに雨なんて、織姫と彦星もかわいそうに。そんな事を思いながら、ぼんやりとバスに揺られていた。


 そのとき、窓の外に、紺色の傘をさした人が一人、いや二人、歩いているのが見えた。狭いバス通りなのに危ないな。そう思って、追い越し際、何気なく目をやったとき見た光景を、私はたぶん一生忘れない。


 一つの傘を二人でさして、寄り添って歩いていたのは、柿田君と千秋ちゃんだった。教室では見せないような柿田君の優しい笑顔。あぁ、あんな顔もするんだ。


 スローモーションで繰り返し思い起こされる、バスのスピードとは時間軸の狂った私の脳内映像。紺色の傘から少しずつ、斜めに顎が見えて、鼻が見えて、目が見えたときに柿田君だ、と確信を持って、隣の千秋ちゃんを見て、かわいい人だなって思って、そして二人が華やかな余韻を残して去っていく。


 お互いの視線の中に相手を閉じ込めて、ほかには何も見えていない二人。七夕なのにひっきりなしに降っている雨も、横を通り過ぎるバスも、ましてや車窓から見ていた冴えない女のことなんか、全く視界に入らない二人だけの世界。


 私は、今まで感じたことのないような鋭い痛みを感じていた。殴られる痛みじゃなくて、刺される痛み。鋭利で尖った突き抜けるような痛み。レーザービームで射貫かれて、焼き切られたような痛みだ。熱くて、鋭利で、鮮明に痛い。


 駅に着いたバスは乗客を降ろし、去って行った。私は、自分の体から血が溢れていないのが不思議で仕方なかった。こんなに痛いのに、どこにも傷がないなんておかしい。私はどうにか動く体でとぼとぼと歩く。確認しようと思った。絶対どこかに大けがをしているに違いない。そうじゃなきゃ、こんなに痛いなんておかしい。


 そうして、駅ビルのトイレの個室に入った途端、私は両手で顔を覆って泣いた。反射的に泣いた。泣こうと思ってトイレに来たわけじゃない。でも、泣きながら、ああ私は泣きたかったんだ、とわかった。体は無事だった。でも、心が重症だった。どうしようもなかった。ただ、両手の指の間を濡らして流れていく涙を止められなかった。痛い。心が痛い。


 雨さえ降らなければ、あんな二人を見なくて済んだのか。雨さえ降らなければ、私はいつものように呑気に自転車を漕いでいたのか。雨さえ降らなければ、こんなに痛い思いはしないで済んだのか。


 雨の七夕。会えない織姫と彦星は、また来年に望みを持って生きていくのだろう。私は重症の心を抱えたまま、まだしばらく泣いていたかった。




【おわり】

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